第3章 プラトンと師ソクラテス

第4話 無知の<知>

 <幾何学を知らぬ者、くぐるべからず>

 アカデメイア入口の門にはこのような文言が刻まれている。

 今回の入園試験には何人もの受験生がいたのだが、幾何学だけではなく、何科目もの難関な筆記試験に合格し、この門を再び通ることができた者はどうやらアリストテレス一人だけらしい。

 己独りという状況は、これまで義兄の書斎で積み重ねてきた学問に間違いがなかったことの証明になるのは確かなのだが、同時に、今まで味わったことのない過度な不安と圧迫をアリストテレスの精神にもたらし、彼は意味もなく立ったり座ったりや、掌の結んで開いてを繰り返していた。 

 そして――永遠にも思われた待機時間もついに終わり、アリストテレスは面接室に連れていかれた。


「少年よ、君は何故に、この学園、アカデメイアにやって来たのだ?」

 既に老年を過ぎていると思しき面接官が、老いを微塵も感じさせない明朗な口調でアリストテレスに尋ねてきた。

「この学園を主催しているプラトン先生の著作を読み、感銘を受けたからです。私は、これまで古今東西の書物を読んできました。それでも足りません。私は、こう言ってよければ、この世全ての<知>を我が物にしたいのです。そのために、このアカデメイアの門をくぐることにしたのです」

 目の前で面接官を務める老人の口の端が少し動いたように見えた。だが、彼は表情を変えることなくこう言った。

「少年よ、しばし、君の考え違いを述べさせてもらおう」

 面接官の老人は続けた。

「まず、この世のどこにもプラトンの書物なるものは存在しないし、これからも存在することはないのだよ」

 アリストテレスは訝しんだ。

「お言葉ですが、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『エウテュプロン』『カルミデス』、『ラケス』『リュシス』『イオン』、『ヒッピアス(大)』『ヒッピアス(小)』『プロタゴラス』『エウテュデモス』、『ゴルギアス』『クラテュロス』『メネクセノス』『メノン』など、アタルネウスの義兄の書庫で、自分は、プラトン先生の著作を可能な限り読んできました。それにもかかわらず、この世にプラトン先生の著書が存在しないとは、一体いかなることなのですかっ! お言葉ですが、それは先生に対して余りにも礼を失する言なのではありませんかっ!」

 面接官は口調を変えることなく、アリストテレスを宥めるように言った。

「そう、興奮するでない。当のプラトン自身がそう述べているのだから」

「ぇ、えっ? へっ?」

 目の前に、これまで自分が、読み親しんできた本の著者がいる。アリストテレスは、過緊張のあまり、己が思考を言の葉にすることが出来なくなってしまった。しかし、動転したからと言って、沈黙で尊敬する人物を待たせるわけにはいかない。

 だが、先に対話を再開したのは、この学園を主催する老人プラトンの方であった。

「少年よ、君が、プラトンの書物として読んできたものは全て、若くそして美しくなった我が師ソクラテスの思考なのだよ」

 アリストテレスの視線を逸らすことなく、プラトンは語を継いだ。

「少年よ、君が先程列挙した著作は、全て我が師ソクラテスとの対話を書き記したもので、私プラトン自身の思考の跡では決してないのだよ」

 アリステレスが義兄の書庫で読んできたプラトンの著作は『対話篇』と呼ばれるもので、確かに、そこに登場するのはソクラテスの姿であり、プラトンの名はほとんど認められない。

「少年よ、私の使命は、処刑された師ソクラテスの思考を再生させ、語り継いでゆくことだけなのだよ」

 はたして本当にそうなのだろうか。アリストテレスは疑問を口にせずにはいられなかった。そして、ようやく緊張が和らいだのか、アリストテレスは、なんとか精神を集中させ、自分の考えを口から出すことに成功した。

「プラトン先生、私の考えを申し上げてよろしいでしょうか?」

「少年よ、続け給え」

 アリストテレスは一息吐き出し、己が気持ちを整えた。

「なるほど確かに、『対話篇』はソクラテス先生の哲学を記述したものかもしれません。だがしかし、そこには、語ったソクラテス先生と書いたプラトン先生の思考が分かち難いまでに混ざり合って、そして、その中には、ソクラテス先生の思考をさらに発展させたプラトン先生独自の考えが存在しているのではないでしょうか? それ故に、『対話篇』がプラトン先生の著作でないとは、どうしても私には思えないのです」

「少年よ、君は『哲学』の本質が感覚的には分かっているのかもしれないな」

 アリストテレスの思考が刺激されてきた。

「せ、先生、く、詳しく、詳しく御教授願えないでしょうか?」

「少年よ、哲学者が有すべき基本的な精神とは『否定精神』なのだよ。君は、私に対し、疑問や否定の言葉を発した。初対面の年長者に対し、これは、なかなか出来ることではない。この点においては及第点を与えてもよかろう。しかし、である」

 プラトンはこう続けた。

「『否定精神」とは、例えば対話の際に相手を否定することを意味するのではない。つまり、だ。対話を通して、自分自身に否定の目を向け、絶えず自己否定を繰り返すこと、これによって、今現在の己が思考を乗り越えること、この『自己超克』には、否定精神が必要なのだ。この精神無き者に、哲学などできる道理はない。さらに、だ」

 アリストテレスは息の飲んだ。

「少年よ、君は、私が師ソクラテスについて綴った著作を読み、この世全ての<知>を手に入れたいと願ったと申しておったな」

「はい、プラトン先生」

「よいか、少年よ。覚えておくがよい。書物というものは、書かれた瞬間に思考の残骸となる」

「『残骸』とは、どういう意味なのでしょう?」

「少年よ、書かれた言葉とは、魂を持った生きた言葉の影なのだ、つまり、書物になった瞬間に思考は固定化してしまう。書物という事物自体には、自己否定を繰り返すことによって、絶えざる自己超克などできはしない。そういった意味において、書物は思考の残骸なのだよ。だからなのだが、師ソクラテスは、ただの一冊の書物も、いや一文字すら残してはいない。それ故にこそ、師は対話こそを重視したのだよ」

 アリストテレスは赤面した。

「少年よ、私が書いたものに感銘を受けたと君は語っていたが、それは、もはや書物という時点で、君が否定し、乗り越えるべき対象に他ならないのだ。私が、師ソクラテスの言説を書物にしているのも、後の人間に、書物の中の師と対話し、師の思考を乗り越えてもらうためなのだ。残念ながら、もはや誰も師とは直接には対話できないのだから」

 プラトンは天に向け顔を上げた。その目からは一粒の涙が零れ落ちた。

「ぁあ、師よ……」

 しばしの間、天を仰いだ後、プラトンは顔を下げ、アリストテレスの顔を正面から見詰め直すと、こう言って、アカデメイア入園面接試験を締め括った。

「少年よ、君は、この世の全ての<知>を我が物に、と述べていたが、自分が未だ何も知らないということを先ずは知るべきだ。無知の<知>、我が師ソクラテスのこの言葉を胸に刻み、我が学園で勉学に励み給え」 

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