第5話 ソクラテスの弟子

 アカデメイアへの入園を許可した少年の背が扉の向こう側に消えゆくのを眺めながら、プラトンは、自分が師ソクラテスと出会った日に思いを馳せていた。それは、アリストテレスという名の、つい先ほど問答した少年とほとんど同じ年齢、十七歳の時のことであった。四十年以上も前の出来事だが、今なお鮮明にその日のことを思い出すことができる、それは忘れ得ぬ記憶であった。


 ある日、アテナイ最後の王コドロスの一族に連なるアリストクレスという少年が、自ら傑作と信じて疑わない詩作品を胸に抱えて、跳ねるように、ディオニューソス劇場で催されるコンクールに赴こうとしていた。少年の耳には既にアテナイ群衆の喝采が響き渡っており、胸は躍り、それ故に足取りも弾んでいたのだった。

 名家の出である少年は、一人の見すぼらしい老人が、道行く人間を相手に辻問答を繰り広げている場面に出くわした。見物人の一人に老人の名を尋ねた所、それが、アテナイでは知らぬ者がいない変人ソクラテスであることを知った。幼き頃から、ソクラテスの存在は知っていたのだが、姿を目にしたのは、それが初めてであった。目的の場所のディオニューソス劇場は、そこから目と鼻の先だし、コンクールの締め切りまで十分な時間的猶予もある。アリストクレス少年は、有名人たるソクラテスの問答を、からかい半分に暇つぶしがてら見てゆくことにしたのだった。

 ――衝撃的だった。

 少年は、自分の作品を丸め片手で握り潰すと、劇場に背を向け自宅に取って返した。家にたどり着くや否や、コンクールに出す予定だった原稿を火中に投じた。それが灰になるのを確認すると大急ぎで引き返し、辻問答を終えたばかりのソクラテスを呼び止め、彼に弟子入りを志願した。

 ソクラテスは言った。

「少年よ、私は、いまだかつて弟子を持ったことはなく、何人の師になったこともないのですよ」

 アリストクレスは食い下がった

「それでは一体、先生と一緒にいる方々は何なのですかっ!」

 ソクラテスは応えた。

「私の語りを聴くことを望む者ならば、それが老人であれ青年であれ、そして少年であったとしても、私は何人も拒みはいたしません」

 少年は言った。

「それならば、私が、先生の話を聴きに通ったとしても、何ら問題はありませんね」

 ソクラテスは微笑みながら首肯した。

「ところで、少年よ、君の名は?」

「アリストクレスと申します」

 ソクラテスは、少年の頭から足の先まで眺め回すと、顎に手を当てながら言った。

「がっちりとした肩幅、分厚い胸板、少年よ、何か運動をしていたのですか?」

「ええ、レスリングを少々……」

 頭を掻きながら少年は小声で応えた。実はアリストクレスは、レスリングのアテナイ代表としてイストミア大祭に参加した経験もあったのだ。

「肩や胸だけではなく額も広い。そうですね、『プラテュス(広い)』という形容詞を文字って、私はこれから、君を『プラトン』と呼ぶことにいたしましょう」

 かくして、「プラトン」少年は、年齢や身分そして出身地までも多様な、自称「弟子」達の列に加わることなり、「師」と仰ぐソクラテスと十年にも渡る対話の日々を送ることになったのだった。


 そして――

 ついに、あの日が訪れた。

 ソクラテスが「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」という罪状で告発されたのだ。訴えを起こしたのは、メレトスという名前も聞いたことがない似非詩人だったのだが、黒幕はアニュトスというアテナイの有力政治家だと噂されていた。

 裁判の結果、ソクラテスには毒殺刑が宣告された。

 ソクラテスには脱獄の機会もあった。牢番にいくらかの金銭を握らせれば、実際それだけで脱獄することは可能だったのだ。そしてプラトン自身も師にアテナイから他のポリスへの亡命を勧めた。しかしソクラテスは、プラトンにこう応えた。

「単に生きるのではなく、善く生きることこそが大切なのです。裁判の結果に反して亡命するという不正を行うことはそれに反します。悪法もまた法なのです」

 ソクラテスはそう言ってアテナイから離れることを拒絶したのだった。

 そして死刑の前日、ソクラテスの取り巻きの中で、プラトンだけが牢獄に呼び出された。

 プラトンは、牢番に金を握らせ、見張りの男を牢から遠ざけ、師ソクラテスと自分の最後の対話を他の誰にも邪魔させないようにした。

 しばしの沈黙の後、先に口火を切ったのはソクラテスの方であった。

「プラトンよ、君にお願いがあるのです。私のこれまでの対話を書き起こして欲しいのです」

「それは、思考が固定化するという理由で、これまで書物を否定してきた、師の考えに反しはしませんか?」

「書き言葉を『死んだ言葉』として否定すること、それこそ思考の固定化でしょう。かくのごとく、生ある限り、他者との対話、そして自己との対話を通して、私の思考は次々と流転してゆきます。しかし明日以降、死をもってして私の思考活動は停止してしまいます。だがしかし、これまでの対話を文字に残すことによって、私の思考は、こう言い換えてよければ、私の<霊魂>は不滅になり、読者には私との永遠の対話が可能になるのではないか、鎖に繋がれている間に、私はそのように考えるようになったのです。他の者、たとえば、クセノポンなどでは、書物には、かの者の思考が多分に入り込んでしまうことでしょう。そうなったら、それはもうこのソクラテスの考えではありません。しかし、プラトン、君ならば、これまで私が語ってきた言の葉を、一言一句違うことなく残すことが可能でしょう。『完全記憶能力』の持ち主である君ならば、ね」

「し、師よ、気付いておられたのですね。……。承知いたしました。このプラトン、我が思考を混じらせることなく、師の対話内容を正確に綴ることに、この生涯を賭けることを、ここに<誓約>いたします」

 誓いの言葉を述べたプラトンを、ソクラテスは抱き寄せた。それは他の者の目には別離の抱擁のように見えたであろう。

 ソクラテスは、声を出さないようにプラトンに目で合図すると、彼を抱きしめたまま、その耳元に口を寄せ小声で語り始めた。

「プラトン、最後にもう一つ頼みがあります。実はこれこそが真なる願いです。ヘルメス・トリスメギストスが刻んだ<翠玉の板(エメラルド・タブレット)>を探し出してください。そこには、この世のありとあらゆる<叡智>が書き刻まれていると言われています。私は、これまで数多の人間との対話を通して、エメラルド・タブレットの在処を探ってきたのです。エジプトです。しかし正確な場所が特定できない。手掛かりはシケリア島です。そこでピタゴラス教団の人間と接触なさい」

 ソクラテスは、ゆっくりと抱擁を解くと、その広い両肩に手を添えたまま、プラトンの左頬に頬付けしようとした。

 接触の瞬間、ソクラテスの左目から放たれた刹那の緑光が、プラトンの左目に注がれ、彼は瞬間的な熱と痛み覚えた。

 緑の光が消えると同時にプラトンの激痛も消え去っていた。

「これで『徴(ダイモニオン)』の継承も終わりました。後のことは頼みましたよ、プラトン……我が『弟子』よ」

 プラトンの許に通うようになってからのこの十年、一度たりとも、師ソクラテスが自分を「弟子」と呼んでくれたことはなかった。

 プラトンは、死出の旅路に出るソクラテスの前で、決して涙は見せまいと自らに言い聞かせていた。しかし、この「弟子」という言葉を耳にした瞬間、隠していた感情が悲鳴を上げだし、もはや涙を止めることができなくなってしまった。

「師の願い、しかと受け取りました。確かな誓いを手に」

 そう言うとプラトンは、ソクラテスと最後の握手を交わし、その右手を誓約の証として自らの左目に当てた。

 

 翌日――

 ソクラテスは、<霊魂>の不滅について、生者としての最後の対話を取り巻きの者達と交わした後で、ドクニンジンの毒杯を仰いだ。

 その後しばらく経ってからのことである。プラトンはアテナイから出奔した。

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