第6話 アテナイの終わりの始まり

 ソクラテスの死から十年の歳月が流れ去っていた。

 プラトンは、師の遺言に従って、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『プロタゴラス』『カルミデス』『ゴルギアス』『メノン』によって、ソクラテスとの対話の思い出の数々を書き記していった。

 いったい、どれだけの数の読者が、単なる知識として師ソクラテスの言葉を読むだけではなく、文字として、言わば、不滅の存在となった師との<対話>を繰り広げているのか、この点に関しては甚だ疑問ではあったが、ソクラテスの思考を一言一句違うことなく、ありのままに書き残すこと、それこそが自分に託された使命なのだ。

 そして、ソクラテスの『対話篇』の原稿執筆と並行して、プラトンは、師が最後に望んだ、この世すべての<知>が書き刻まれているという<翠玉板(エメラルド・タブレット)>に関する情報の収集も行なっていた。

 アテナイを離れたプラトンは、ギリシアの国内の幾つものポリスや<マグナ・グラエキア>を巡り歩いていった。マグナ・グラエキアとは、南イタリアやシケリア島一帯のギリシアの植民都市が散在する地域のことである。その中でも、プラトンがその遍歴時代の最後に比較的長く滞在したのが、イタリア半島南端の湾岸都市であるタレスであった。

 しかし、この十年にも及ぶ遍歴の結果、プラトンに収集することができたのは、ヘルメス・トリスメギストスについて広く知られている知識以上のものではなかった。これ以上の情報を得るためには、師ソクラテスの指示通りに、シケリア島に渡る必要があるようだ。


 シケリア島は、イタリア半島の西南にある地中海最大の島で、島の南西部にはシケリア海峡を挟んでカルタゴが、そして東部にはイオニア海を挟んでギリシアが位置している。

 優れた商人であるフェニキア人が建国したと言われているカルタゴは、海運業と地中海貿易によって繁栄し、そこから産み出された豊富な財源によって維持・運営した強大な海軍でもって地中海西部を制覇し、さらなる経済的・軍事的拡大を目指していた。

 これに対して、ギリシアの都市国家(ポリス)群もまた海上交易を経済活動の主軸にしていた。特に、イオニア系ギリシア人の都市国家アテナイは、ペルシア戦争の勝利によって、エーゲ海および地中海東部・中央部における海上交易上の覇権を確立し、アテナイはギリシア都市国家群の中でも最強のポリスとなり、政治面、経済面、軍事面、特に海軍力において繁栄を迎えたのだった。

 そして、地中海のほぼ中央部に位置するシケリア島は、地中海交通の要衝であり、こうした地理的状況ゆえに、数世紀に渡って断続的に、地中海全域の覇権を巡って争うカルタゴとギリシアとの間の戦いの舞台になっていた。

 しかし実の所、ギリシアの都市国家群自体が一枚岩ではなかったのだ。

 そもそもアテナイはイオニア人による民主共和主義体制のポリス、これに対してスパルタはドーリア人による独裁的貴族主義体制のポリスであり、こうした人種と政治思想の根本的な相違は、集団的アイデンティティとしてアテナイ人とスパルタ人の精神にこびり付いており、両者の間に本質的な反目を生んでいたのである。

 そしてさらに、ペルシア戦争の勝利の後、アテナイが急激に軍備拡張政策をとり、他のポリスを占領・隷属化させていた。こうしたアテナイの専横的かつ弾圧的な態度に、ギリシアの多くのポリスは恐怖と不平不満を覚えていた。その中でも、対アテナイ・ポリス群の中心となったポリスがスパルタで、かくして、ギリシアにおける盟主の座を巡り、全ギリシアを巻き込んで、アテナイ対スパルタという構図が、ペロポネソス戦争として具現化することになったのだった。

 このギリシアの大規模な内戦は、プラトンが誕生する直前から、その青年時代、すなわちソクラテスの死の四年前まで二十七年の長きに渡って続いたのだった。

 そして、ペロポネソス戦争の開戦から十六年が経過した時、アテナイはシケリア島への大規模な軍事遠征を実行に移した。それはプラトン十二歳の時であった。

 アテナイは、地中海西方のイタリアとシケリア島、さらにはカルタゴまでも制圧せんとした。その目的は軍事費の確保と、西方の軍事的脅威を除去することによって、スパルタとの戦いに集中するためであるという剛弁が議会で採用され、まずはスパルタとの戦いに集中するべきで支配圏の拡張はそれからという常識的な反論は、<財源>という黄金色の甘い蜜によって封殺されてしまったのだった。

「シケリアなんて、たかが田舎の島の一つだろう? アテナイの海軍力は世界一ぃぃぃぃぃぃ」と笑いながら楽観論を述べていた議員もいたという。

 シケリア島という地中海の要衝を確保し、地中海西部を制圧し、さらに財源を確保するという戦略に対して、楽観論に起因した戦術は大雑把なものであった。

 信じられないことなのだが、シケリア島の大きさや住民の数すら確認せずに、その作戦とは、多数の軍船と兵力を投入し、圧倒的な数の力をもってして短期間で決着をつけるというものであった。かくして、数万人の歩兵を乗せた二百艦以上の大船団がシケリア島に向けて派遣されたのである。

 戦いの結果のみを端的にいうと、アテナイのシケリア遠征は、大船団の全滅という形で終結し、アテナイは海軍力のほとんどを喪失した。これはプラトン十四歳の時の出来事であった。

 シケリア遠征の失敗の後、遠征を可決した民主議会制は解体され、貴族派の四百人評議会が成立した。しかし、その貴族派評議会もすぐに打倒され、政権は五千人会議に移った。そして、シケリア島遠征の大失敗から九年後、スパルタとのペロポネソス戦争にも決着がつき、アテナイはスパルタの支配下に置かれることになった。これがプラトン二十三歳の時の出来事であった。

 そして、ペロポネソス戦争終結後、アテナイでは民主共和制が瓦解し、スパルタ人の指導の下、少数の独裁的な政治家による「三十人僭主政」という寡頭制が敷かれ、恐怖政治による数多の人々の粛清がなされたのだった。その三十人僭主の中に、プラトンの母親の従兄クリティアスもいた。この頃は、クリティアスの近親者ということもあって、プラトンには常に監視の目が付き纏っていた。しかし不幸中の幸いか、この時の経験によって、周囲に、特に背後に気配を探る勘をプラトンは身に付けたのだった。

 この「三十人僭主政」もまた、その九ヶ月後には共和派勢力に打倒され、アテナイは再び民主共和制下に置かれることになった。

 しかしながらアテナイが取り戻したのは民主制という政治体制だけであり、ギリシア都市国家群における盟主の坐はスパルタに完全に奪われ、長期間の戦争状態による多額の軍事費の支出によって財政は逼迫し、シケリア遠征の大失敗とペロポネソス戦争の敗戦により軍事力も無きに等しくなり、かつて栄華を誇ったギリシアの雄アテナイは、緩やかに滅亡への道を歩み始めていたのである。

 ソクラテスの死は、この<アテナイの終わりの始まり>と軌を一にしていたのだった。

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