第3章 ピタゴラスの<秘儀>

第17話 緋色の<誓い>

 エジプト人の若者は立ち上がると、書棚から一冊の本を手を取り頁を捲った。

「ヘロドトスの『歴史』の第三巻、三十九章です」


 ピタゴラスがサモス島を出奔した頃、島は、アイアケスの息子達、パンタグノトス、ポリュクラテス、そしてシュロソンの三人の兄弟によって分割統治されていた。しかし次男のポリュクラテスが、兄のパンタグノトスを殺害、弟のシュロソンを追放し、サモス島を単独支配した。

 島の独裁者となったポリュクラテスは、エジプトのアマシス二世と同盟を結んだ。ちなみに、ピタゴラスは、サモスとエジプトの同盟を縁故にエジプトに留学したのだった。

 僭主は、己が野心をサモス島の支配だけで充足させることはできなかった。

 エジプトと同盟した後のポリュクラテスは、エーゲ海の島々や小アジアのイオニア海沿岸の都市を次々と征服し、サモス島周辺地域を掌握していった。

 この時代のオリエントの最強国はペルシア帝国であった。初代大王キュロス二世の時代には既に、かつてのオリエント四強国のうちの三国、メディア、リュディア、カルデアはペルシアの支配下にあり、第二代のカンビュセス二世が、残すエジプト侵攻の準備を始めているとの噂は、サモス島の僭主ポリュクラテスの耳にも届いていた。


 エジプト人は書物の頁を捲った。

「四十四章です」


 サモス島の僭主はエジプトのアマシス二世を裏切り、カンビュセス二世のアケメネス朝ペルシア帝国に接近し、ペルシア王国と共にかつての同盟国であるエジプトに侵攻したのだった。


「少し飛ばして、百三十九章に移ります」


 それは、アケメネス朝ペルシア帝国がメンフィスを陥落させた後のことであった。

 戦後のエジプトを、数多くのギリシア人が訪れており、その中には、サモス島の僭主となった兄ポリュクラテスによって島から追放されたシュロソンもいた。

 ある日、燃えるような緋色の外套で身を纏ったシュロソンはメンフィスの広場に立っていた。その緋色の外套を身に付けたシュロソンの姿を、カンビュセス二世の親衛隊の槍持ちで、名も無きペルシアの若き戦士の一人が見止めた。彼は外套が欲しくてたまらなくなり、意を決してシュロソンに声を掛け、その外套を買い求めようとした。シュロソンは己が外套を売る気は全くなかったのだが、若者の熱意にほだされ、結局、彼から金銭を受け取ることなく、無料で、緋色の外套を親衛隊の槍持ちに贈ったと言う。その無名の若き戦士はシュロソンに「ダレイオス」と名乗ったそうである。

 そして、アケメネス朝ペルシアのエジプト侵攻から三年後のことである。当時のオリエントを揺るがす二つの事件が勃発した。

 シュロソンをサモス島から追放した兄、僭主ポリュクラテスが死んだのである。

 サモスの僭主は、昔リュディア王国の首都があったサルディスに招かれたのだが、そこでサルディスの太守であったペルシア人のオロイテスに暗殺されてしまったのだ。その後のサモス島は、ポリュクラテスに留守を委任されていたマイアンドリオスという男によって支配されていた。

 もう一つの事件は、エジプトを支配下に置いたペルシア帝国が、ナイル川中流域、エジプトの南に位置しているクシュを侵攻中に起こった。

 ペルシア本国の留守を任せていたスメルディス、すなわち第二代シャー・カンビュセス二世の弟が謀反を起こしたのである。

 その反乱の報を受けたカンビュセス二世は直ちに全軍を<エジプト大返し>させたのだが、その途上、旧メディア王国の首都があったエクバタナで、カンビュセス二世は命を落としてしまったのである。その死には、悲嘆にくれた王の自殺説、あるいは、支配下のどこかの旧王家による暗殺説、スメルディスによる暗殺説、<七人>の誰かによる暗殺説など、自殺・他殺、様々な諸説が蔓延していたのだが、結局の所、真相は詳らかではない。

 だが謀反を起こした簒奪者スメルディスは、ペルシアに残っていた<七人>の同志の手によって殺害された。そして、その<七人>の一人で、かつてカンビュセス二世の親衛隊の槍持ちを務め、アケメネス家の分家筋であったダレイオスが、第三代シャーとしてアケメネス朝ペルシアの王座に就いたのである。

 オリエントを流浪していたシュロソンは、自分がエジプトのメンフィスで外套を贈った若き兵士ダレイオスがペルシア帝国の玉座に就いたことを伝え聞いた。そしてシュロソンは、かつてエラムの首都があった都市スーサに赴き、ダレイオス一世への謁見を願い出た。新大王への会見が叶ったシュロソンは、誰だとばかりに訝しむ大王にエジプトでの緋色の外套の話を思い出させたのだった。

 ダレイオスは、自分が未だ無名の一兵士に過ぎなかった頃に、無料で緋色の外套を贈ってくれた謝礼として金品を贈りたいと申し出た。それを固辞して、シュロソンは大王にこう言ったそうである。

「金も銀も要りません。欲するは祖国サモスただ一つです」

 ダレイオスは、<七人>の一人であるオタネスに指揮権を与え、サモス島に向け海軍を派遣した。そして、サモス島こそが、ダレイオスが大王として占領した最初の地となり、その後、ダレイオス大王の援助を受けたシュロソンはサモス島の僭主となったのだった。

 かくの如く、アケメネス朝ペルシア帝国とサモス島では、全く同じ年に新たな支配者が君臨することと相成ったのである。


「この緋色の外套の話は、ヘロドトスの『歴史』に書かれているのですが、実の所、真偽が不確かな単なる逸話に過ぎないのです。だがしかし、ペルシア帝国とサモス島の結束が、対エジプト侵攻のために同盟を結んでいた前支配者の頃よりも、よりいっそう緊密になったのは確かなのですよ」

 エジプト人の若者は続けた。

「しかしです。アケメネスの血統とは言え、直系ではないダレイオスの支配権がそう容易く確立するわけはなく……」


 サモス島への海軍派遣の直後、まるで申し合わせたかのように、広大な領土を有するペルシア帝国の全土で、復権を目指す異民族だけではなく、ダレイアスの王座を奪うべく同国人のペルシア人までもが次々に反乱を起こしたのである。

 一例をあげると、旧カルデア王国では、ナディンタバイラという男が、カルデア王国の最後の王であったナボニドゥスの落胤、<ネブカドネザル三世>を自称して、支配国であるペルシアに対して反旗を翻したのである。

 新王になったばかりのダレイオス大王は自ら軍を率いてバビロニアに向かった。

 ペルシア軍とカルデア軍は、ユーフラテス川河畔のザーザーナ市の戦いでカルデア軍を撃破、ナディンタバイラは都市バビロンに逃げ込んだのだが、ダレイオスは、バビロンを制圧し、この偽王を処刑し、かくしてバビロニアの最初の反乱は鎮圧されたのである。

 しかしその翌年、バビロニアにおいて反乱が再び勃発した。

 今度は、アルメニア人のアラカという男が、<ネブカドネザル三世>を自称してバビロニア王になった。ダレイオスは軍を派遣し、バビロニアを再び鎮圧した。

 そして、バビロニアのみならず、アルメニア、アッシリア、メディア、エラム、ペルシア、マルギアナ、アラコシア、帝国各地で勃発した反乱を、ダレイオスは次々に平定してゆき、新王になってから僅か二年でペルシア帝国の完全な支配権を手に入れたのだった。


「新王になったばかりのダレイオス大王がペルシア帝国内の反乱の鎮静に奔走されていたこの時期とは、まさに尊師ピタゴラスがバビロンに囚われ、エ・テメン・アン・キでカルデアの秘儀を伝授されていた時期とぴたり重なるのですが、ペルシアの新大王も、バビロニアに連続して現れた二人の偽王も、政治・軍事にかかりきりになり、他に人員を避ける余裕はなかったようです。逆にこれが幸いしてか、尊師は国家権力からの余計な介入を受けることなく、カルデアで学術研鑽に専心することができたようです」

 エジプト人の若者は本を閉じると、それを本棚に戻した。

「そして、カルデアで<占星術>を修めた尊師ピタゴラスは、ペルシア帝国内が安定すると、<緋色の外套>によって絆を強めたシュロソンが僭主となった、故郷のサモス島に二十二年ぶりの帰還を果たすことになったのです」

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