第18話 ピタゴラスの<トリプス>

 エジプトやカルデアでの学術遍歴を終えて、二十二年ぶりにサモス島に戻ったピタゴラスは、まず最初に<ピタゴラスの半円堂>と呼ばれる学堂を市内に建立し、サモスの一般市民に教育を施し始めた。そして、サモス島最高峰のケルケテウス山の中腹で見付けた洞窟を己の研究室として、エジプトの<魔術>やカルタゴの<占星術>の研鑽に没頭したのである。

 洞窟で学究生活を独り送っていたピタゴラスは、やがて三人の弟子を得ることになった。

 一人目はアストライオスという男で、これはギリシア語で「星の男」という意味である。ピタゴラスの父ムネサルコスは、息子が不在の間に、アストライオスという幼児を奴隷として買い取り、その子を育てていたのだが、ムネサルコスは、アストライオスを帰還祝いとして、アストライオスを息子に贈ったのである。

 実は、<ピタゴラスの半円堂>での異国流の大衆教育がうまくいかなかったピタゴラスは、奴隷として譲り受けたアストライオスを生徒役にし、幾度もの修正を繰り返しながら、ピタゴラス流の独自の<教授法>を確立させていった。

 そしてさらに、この奴隷アストライオスを実験体にして、人間についての研究をすることによって、ピタゴラス<観相術>を編み出した。観相術とは、人の顔や身体、さらにその挙動を観察することによって、その人が生来どのような性質の人であるかを見て取る術のことである。この<観相術>を使ってピタゴラスは人間を観察した。その結果、観想術を使て相手がどのような人物であるかを知ってからでなくては、誰一人として弟子にも友人にも、そして知人にすらしなかったという。

 そしてピタゴラスは、「星の男」の名を持つアストライオスには、その適正に従って、天文学と<占星術>を主として伝授したのだった。

 二人目がザルモクシスというトラキアのゲタイ人で、サモス島には奴隷として連れて来られた。

 トラキアの言葉では、毛皮のことを「ザルモス」と言うのだが、この若者は生まれた時に熊の毛皮を被せられていたことからザルモクシスと名付けられたという。

 また、トラキアはバルカン半島北東部に位置し、ゲタイ人はトラキア人の一種族であった。ゲタイ人の宗教では、自分たちの魂は不死であり、肉体が滅んだ後は、神<ザルモクシス>の許に行くと信じられていた。

 このトラキアの奴隷の名が、いずれに由来しているかは分からない。あるいはその両方かもしれない。そしてさらに、ザルモクシスの額には烙印が押されていた。これは、彼が海賊に捕縛され、奴隷市場に売り出された時に額に押されたのだと噂されていたのだが、サモス島の他の奴隷に額に烙印が入っている者はいない。実の所、額に印を入れることはゲタイ人神官の慣習だったと言う。それ故に、ザルモクシスの名は宗教由来説の方が有力かもしれない。

 ピタゴラスは<観相術>によって、ザルモクシスの適正を見抜き、この烙印の奴隷には<神働術>、すなわち<魔術>を主として伝授した。そしてその代わりに、ゲタイ宗教の秘術をザルモクシスから教えられたという。

 そして三人目が、サモス人の闘技者エウリュメネスであった。

 エウリュメネスは小柄な男だったのだが、ピタゴラスの指導によって<体術>を身に付けた。その成果として、彼はサモス代表としてオリンピックに出場するまでになった。彼は、自分よりも圧倒的に体格に勝る者達を、その体術で打ち倒してゆき、大会では優勝を勝ち取った。しかしピタゴラスは、オリンピック終了後に、弟子エウリュメネスに肉体の鍛錬と闘技の継続は指示したのたが、勝利することは固く禁じた。その第一の理由は、勝利の結果もたらされる他者からの羨望と嫉妬を避けるべきだという考えからなのだが、その真なる理由は、勝者の心理には傲慢さが宿る傾向が高いからであった。

 ちなみに、ギリシアでは三脚の大釜のことを<トリプス>と呼んでいたのだが、アストライオス、ザルモクシス、そしてエウリュメネスら、ピタゴラスの三人の筆頭弟子達は、後に、ピタゴラスの<トリプス>と呼ばれるようになったと言う。


 旧リュディア王国の西方、小アジア南西部の<イオニア>地方は、エーゲ海に面し、ギリシアの都市国家も散在していたのだが、ピタゴラスの帰還時には既にイオニア本土もサモス島もペルシア帝国の勢力下にあった。

 そのため、サモス島にも、いわゆる<王の耳>と呼ばれるアケメネス朝ペルシアの密偵が入り込んでおり、また、僭主シュロソンが放った間諜もサモス島各地に潜伏していた。そして、外国から島に戻ったばかりのピタゴラスには、ペルシア・サモス両方の隠密が常に張り付いていたのだった。

 しかしある日のことである。

 いつもと変わることなく昼夜の別なく研究に集中するために、ケルケテウス山の洞窟に籠っていたピタゴラスと三人の弟子達が、<ピタゴラスの半円堂>での講義日に洞窟から出てきた。どんなに研究に没頭していたとしてもピタゴラスが講義日を忘れたことはこれまで一度もなかった。それ故に、ペルシアの<王の耳>にもサモスの間諜にも、ピタゴラス達は見張りし易い監視対象であった。

 洞窟の出入口でピタゴラスと三人の弟子達は立ち話を始めた。学術談義を始めると夢中になるあまり時を忘れる傾向が四人にはあった。

 ペルシアとサモスの密偵達はそれぞれ、ピタゴラス達の視界に入ることなく、四人の一挙手一投足を具に監視できる場所にいた。その地点から四人の姿を見失うことは、見張りの素人にだってむしろ不可能であった。

 しかしである。

 突然、見張りの視界から四人が消え去ったのだ。

「見ろ、上だっ!」

 密偵にあるまじき行為だったのだが、見張り達は声を荒げて上方を指差した。

 洞窟入り口前にいたはずの四人が空中に浮かび上がっていた。

 ピタゴラスは、石のようなものを右手に握るような仕草をし、不可視の鏃を、十六方位で言うと西北西、すなわちギリシアのデルフォイの方角に向け、見えない弦を引き、そして「アポロン」と一言呟やきくと矢を放つような仕草をした。

 数瞬後――

 ピタゴラスとその弟子達は完全に姿を消していた。


 瞬く間に、四人は、ギリシアのポーキス地方に位置していたパルナッソス山の麓にある都市国家デルフォイに到着していた。デルフォイは、世界の中心と信じられており、この都市国家にはアポロンを祀る神殿があった。ギリシア神話におけるオリュンポス十二神の一柱であるアポロンは、芸能・芸術の神にして、羊飼いの守護神、さらには光明の神など多面的な性質を有する神なのだが、アポロンには<遠矢の神>としての側面もあった。

 ピタゴラスが、サモス島のケルケテウス山で使った<魔術>は空中飛行の術で、これはアポロン起源の術であった。

 そもそもピタゴラスは、遍歴時代にアポロン神殿の神官アバリスから、この<アバリスの矢>という空中飛行術を伝授されたのだった。アバリスは、この技をアポロンから授けられたと語っていた。

 そのアポロンの聖地にて、ピタゴラスら四人はデルフォイの神託を受けようとしたのだった。

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