第19話 デルフォイの神託

 ピタゴラスと彼の三つの脚(トリプス)とも言える、アストライオス、ザルモクシス、そしてエウリュメネスの三人の弟子達は、空中飛行術、<アバリスの矢>を用いて、サモス島のケルケテウス山から、パルナッソス山の麓のデルフォイまで、光の速度で移動していた。ペルシアの<王の耳>にもサモスの間諜にも、ピタゴラスを追尾する事は不可能であった。

 まず、ピタゴラスはアポロンの墓を訪れ、彼は神の墓石に文を二行ほど書き刻んだ。そのピタゴラスの姿を見ながら、彼の弟子達はピタゴラスが実はアポロンの息子だという噂を思い出していた。

 それから四人はアポロン神殿を訪れた。

 デルフォイのアポロン神殿の入り口には三つの文言が掲げられている。

 一つは「汝自身を知れ」で、これは、内なる自己との対話を通して外部の問題を解決することを意味する。

 二つ目が「過剰の中の無」で、これは、過ぎたるは及ばざるが如し、すなわち、自己の行為に節度を持てを意味する。

 そして三つ目が「誓約と破滅は紙一重」で、無理な約束はするなという意味である。

 ピタゴラス達は、入り口の三つの銘を横目で見ながらアポロン神殿に足を踏み入れた。神殿の地下には儀礼所があって、そこで女性司祭ピュティアによって下されるデルフォイの神託は、ギリシアにおいて最も権威が高い神託とされていた。そしてデルフォイの神託はアポロンの吉日である<七日>に催されることになっていた。

 地下の儀礼所に入ったピタゴラスは、まるで<何者か>に引き寄せられたかように、神所の真ん中にまで入り込んでしまった。そこには、一人のデルフォイの女性神官が三脚の椅子(トリプス)に座ったままピタゴラスを待っていた。その巫女がピタゴラスに「テミストクレア」と名乗った、まさにその瞬間である。

 大地が大きく揺れた。振動時間こそ短かったのだが、儀礼所の床には大きな亀裂が入って、その地の裂け目から気体が漏れ出てきた。ピタゴラスは急いで鼻と口を押えたのだが、ピュティアは積極的にその気体を吸い込んでいた。

 足腰から力が抜けたかのようになった巫女は身体を大きく揺らしながら、恍惚状態になって支離滅裂で謎めいた言葉を語りだした。三脚椅子だけでは巫女を支え切れなくなり、ピタゴラスは慌ててピュティアに近付き、その身体を支えようとした。その際にピタゴラスもまた立ち昇ってきた蒸気を吸い込んでしまった。

 一瞬で気が遠のいた。

 その混濁したピタゴラスの意識に<何者か>の意識が混ざり込んだかのような感覚、語り掛けているのは神アポロンなのか、いや、もしかしたら自分こそがアポロンなのかもしれない、自他の区別がつかない。そして、まとまりのない情報の塊が無秩序なまま、脳に一気に流れ込んできた。その情報の流れはあまりにも速く、速過ぎてその断片すら容易に掴み取ることができない。しかし何故か全てが理解できる、そう直観した瞬間、ピタゴラスは意識を完全に失ってしまっていた。

 十日後に完全に意識がはっきりした後で、ピタゴラスは三人の弟子達に向かってこう言ったそうである。

「我々の行先が決まりました。南イタリアのクロトンです。そこで我らは教団を作ることになります」

 三人の弟子達(トリプス)は、師ピタゴラスの身体を、まるで三脚の椅子のように支えながら、師の笑顔はまさに太陽神アポロンのようだと思った。


「つまりです」

 エジプトの若者はプラトンに語った。

「エジプトでヘルメスの<魔術>を、カルデアでヘルメスの<占星術>を修得し、いわば、ヘルメス・ディスメギストス(二重に偉大なヘルメス)となった尊師ピタゴラスにとって、新たなヘルメス・トリスメギストス(三重に偉大なヘルメス)となるために、最後の一つとなったヘルメスの叡智たる<錬成術>を修めること、これこそが尊師の人生の目的となったのです。しかしです。そもそも、エジプトでの<魔術>、そしてカルデアでの<占星術>も、それは、エジプトやカルデアにヘルメスの秘儀が存在すると知った上での行動ではなく、尊師ピタゴラスが<知>を探求し続けた結果として修得するに至った、いわば偶然の賜物に過ぎないのですよ。初めから<ヘルメス>を目指していたわけではないのです」

 エジプトの若者は続けた。

「果たして、尊師は気付いていたのでしょうか? 学問追及の結果として手に入れたもの、今度はそれを取得する事自体が目的になってしまったことに……。いずれにせよ、サモス島にいたままでは、ペルシアとサモスの監視の目もあり、<錬成術>に関する情報を手に入れることはできませんでした」

「それためのデルフォイで神託を求めたと……」

「そうですね。尊師に下された神託の内容は明白ではありませんが、しかし確かなことは尊師に<発想の転換>が起こったということです。ピタゴラス的<転換>とでも呼びましょうか」

「で、その『ピタゴラス的<転換>』とは?」

 プラトンは疑問を発した。

「尊師ピタゴラスの最初の考えは、残り一つの<錬成術>のヘルメスを得ることでした。しかしです。ヘルメスの秘儀とは、元々一つであった全なる<秘術>が、<魔術><占星術><錬成術>という叡智の三部門に分かれたものなのです。ということは、<錬成術>の叡智を探し求めるのではなく、ヘルメスの原典たるエメラルド・タブレットを探すことこそが本筋なのではないか? そもそもです。三つに分かれ、弟子に継承されたヘルメスの叡智が、果たして始祖ヘルメス・トリスメギストスの純然たる叡智と言い得るのか? 始祖ヘルメス本来の秘儀にこそ立ち返るべきではないか? このように尊師は発想を転換させた次第なのです」

「つまり……<原典回帰>ということだろうか?」

 プラトンは小声で言った。

「<原典回帰>か、面白い表現を使いますね」

 プラトンを見つめながらエジプト人の若者は言った。

「つまりです。クロトンで設立されたピタゴラス教団の目的は実は二つあったのです。一つ目は始祖ヘルメス・トルスメギストスの<エメラルド・タブレット>を探し出すこと。そして……」

「そして?」

「第二の目的は、師が修得した二つの叡智たる<魔術>と<占星術>を、新たな<知>として変換するための研究だったのです」

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