第20話 ピタゴラスの十の宝玉

 ピタゴラスが、三人の弟子達(トリプス)を引き連れて、サモス島から、デルフォイのアポロン神殿を経由し、南イタリアのクロトンに移り住み、そこでピタゴラス教団を設立してから、およそ半世紀近くもの月日が、<アバリスの光の矢>の如く流れ去っていた。

 クロトンに到着した時には四人だけだった集まりも、次第次第に人数が増えてゆき、ピタゴラス教団はその規模を拡大していった。ピタゴラスの弟子の中には南イタリアの都市国家の権力者もいて、そういった弟子の庇護を受け、ピタゴラス教団は政治的にも経済的にも発展していった。しかし、このことが他者からの羨望・嫉妬を呼ぶことになったのである。

 都市国家クロトンにはキュロンという男がいた。この人物は名門貴族の出で、さらに経済的にも豊かだったのだが、まさにそれ故にこそ粗暴かつ横柄な人物でもあった。その男が、南イタリアだけではなく地中海・エーゲ海一帯でもその名を轟かせ始めたピタゴラス教団への入団を希望したのだ。キュロンは手っ取り早く知的であるという表面的な名声を手に入れようとしたのである。ピタゴラス教団への入団試験は難関で、試験を突破できただけでも名誉だったのである。キュロンは、その試験の合格すら、権力と金品を用いて不正に突破し、ピタゴラスに弟子入りしようと考えていたのである。

 ピタゴラス教団では、入団試験を受ける前に教団幹部との面談がなされる。そこで<ピタゴラス観相学>によって、試験を受けられるかどうかの判断が下されるのだ。クロトンの名門貴族の出であるキュロスの<観相>は、教団本部総帥のピタゴラス自身が行ったのだが、一目見た瞬間に、ピタゴラスはキュロスの本性を見抜き、キュロスの入団試験受験を拒否したのだった。


 そして――

 クロトンで民衆暴動が起こった時、クロトンの大衆がピタゴラス教団の本拠地を襲撃した。誰に煽られたのか、群衆は教団本部に火を放ち、教団の建物は全焼してしまった。その結果、ピタゴラス教団が<知>の遺産として蓄積していた書物は全て灰となってしまったのだ。襲撃の糸を引いたキュロスは、建物の出入り口全てに人を配して、逃げ出してきた教団員に石をぶつけて、次々にその命を奪っていった。その中にはピタゴラスの姿もあったという。

 かくして、ピタゴラス教団は壊滅した。

 狂気に駆られた群衆の頭が冷えた時、クロトン住民の目に入ってきたのは、建物の残骸と、数多の人々の死骸であった。

 冷静になったクロトン住民は自分達がしでかした事態に慄き、その大量虐殺の責任を誰かに押し付けようとした。かくして生贄の山羊にされたのが、ピタゴラスに対して恨みを抱いていたキュロスであり、報復を恐れたキュロスはクロトンからその姿を消した。

 ピタゴラス教団を襲撃させるために群衆を煽ったのは、確かにクロトンのキュロスである。しかしクロトンで民衆暴動が勃発する直前に、キュロスと頻繁に接触していた者の姿が目撃され、それがペルシア人だったという噂がクロトン住民の間でまことしやかに広まっていた。


「クロトンの民衆暴動によってピタゴラス教団は大打撃を受けました。しかし、完全に壊滅したわけではなかったのです。その証拠の一つこそがこの私です」

 そう言ってエジプト人の若者は、十個の黒点<テトラクテュス>が彫られた首筋をプラトンにもう一度見せた。

 プラトンは思った。自分も、ソクラテスの奴隷であったフィロラオス、タレスのアルキタス、シュラクサイのディオン、幾人ものピタゴラス教団の団員を知っているし、そもそも、シュラクサイではピタゴラス教団で研鑽を重ねた。しかしである。それほどまでの襲撃を受けて、いかにして教団はその命脈を保ち得たのであろうか?

「デルフォイで神託を受けた際に、尊師ピタゴラスは、クロトンで設立することになる自分の教団が、その研究成果を狙うペルシア帝国によって襲撃されるという宣託を既に受けていたのですよ」

 エジプト人は襟を正しながら続けた。

「ただし、それが何時かということまでは分からなかった。だからこそ、教団は避けることができない、その来るべき日、ペルシア帝国の襲撃に備えることにしたのです」

 エジプト人の若者は立ち上がった。

「尊師ピタゴラスの家が元々何を生業にしていたか、知っていますか?」

 プラトンは首を横に振った。

「宝石細工師なのですよ」

 エジプト人の若者は本棚の前に移動した。

「ピタゴラスは、<十>の天体と対応する十の宝石に<魔術>の精髄を封じ込め、その一つ一つを自分の家族や高弟達に委ねんとしたのです。しかし、あのクロトンの襲撃事件で、その宝玉は散逸してしまった。だからこそ、ピタゴラス教団の残存勢力に新たな目的が生じたのです。散らばった<十>のピタゴラスの宝玉の蒐集です。そして、生き残った尊師ピタゴラスの家族や高弟達が、宝玉の探索のために作った組織こそが、今なお各地に存続しているピタゴラス教団支部という秘密組織なのですよ」

 若者は、本棚の隠し扉を移動させ、そこから宝石箱を取り出した。

「これが、そのピタゴラスの宝玉の一つです」

 若者はそう言って四角錐状の緑の宝石をプラトンに見せたのだった。

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