第3部 <友愛>を求めて

第1章 エジプトのプラトン

第21話 三つ巴の争い

 東方から疾風の如くエジプトに襲来した異民族のヒクソスは、エジプトには存在しない数々の<新兵器>を用いることによってエジプトを瞬く間に征服した。ヒクソスは、<下エジプト>のナイル川河口の大三角州(デルタ)地帯に位置している都市アヴァリスに首都を置いた。異民族政権であるヒクソスの支配力は、地中海の東部沿岸に位置するシリア地方にまで及んでおり、それ故に、ヒクソスは、ナイル川河口付近に拠点を置くことに移動面における利便性を見出したのである。いずれにせよ、ヒクソスがエジプトを百八年間支配する第十五王朝時代がここに始まったのである。ちなみに、ヘルメス・トリスメギストスはヒクソス時代にエジプトに登場したという伝承もあり、このヘルメスこそがヒクソスに新兵器をもたらしたと語る文献も存在する。モーセもまたヒクソス時代の人間であり、彼の<出エジプト>を助けたのはヘルメスだと語る者もいた。

 やがて、テーベを中心とする<上エジプト>の勢力が第十七王朝として、ヒクソスの第十五王朝に対して反旗を翻した。かくしてエジプトは、異民族ヒクソスの<下エジプト>と、エジプト人の<上エジプト>が争う南北朝時代を迎えたのである。

 第十七王朝は、ついに異民族のヒクソスをエジプトから放逐し、南北エジプトを再統一した。これがエジプトの第十八王朝で、首都はテーベに置かれた。それ故にこそ、エジプト人の新王朝は<上エジプト>中心の王朝となったのである。

 古きエジプトの言葉で「ワセト」と呼ばれていた、<上エジプト>の都市テーベは、ナイル川を境に、その西岸には岩山の谷に岩窟墓群がある。そこには、第十八・十九・二十王朝のファラオの王墓である<王家の谷>と、その妻や子息の墓の<王妃の谷>があり、いわば、そこはエジプトの<死>を象徴する空間であった。そしてテーベの東岸には、カルナック神殿複合体があり、ここには、アメン大神殿、その副神殿であるルクソール神殿などがあった。また、テーベのナイル川上流には、第十九王朝のファラオたるラムセス二世が作らせたアブ・シンベル神殿がある。これは、砂岩で出来た岩山を掘って作られた岩窟神殿であた。


 やがて時は流れ――

 エジプトは再び異民族の侵攻を受けた。

 アケメネス朝ペルシア帝国・第二代大王(シャー)たるカンビュセス二世がエジプトを征服し、オリエントを統一したのだ。かくして、ペルシアのシャーがエジプトのファラオも兼ねる第二十七王朝時代が始まったのである。このペルシア人によるエジプト支配の第二十七王朝時代は百二十一年に及んだのだが、<下エジプト>のメンフィスにエジプト太守(サトラップ)を置いただけで、ペルシアは、エジプトの政治・経済・文化にはほとんど干渉しなかった。いや、広大な領地を有するペルシア帝国は内政や、ギリシアとの間のペルシア戦争に掛かり切りとなり、エジプトに積極的に関わることができなかったという方が実情なのかもしれない。


 そしてソクラテスの死の五年前――

 それはペルポネソス戦争においてアテナイがスパルタに敗れたのと同じ年のことだったのだが、アケメネス朝ペルシア帝国大王ダレイオス二世が逝去した。大王の死後、王位継承争いが勃発して帝国の内政が混乱したのだ。そういった状況下、ペルシアのエジプトにおける支配力が緩んだその隙をついて、エジプト人のアミルタイオスがペルシアに対して反乱を起こし、ついに、エジプト人の王朝である第二十八王朝を樹立したのである。しかし、その第二十八王朝もわずか七年で終わりを迎えたのだった。

 そして、首都メンフィスでファラオ・アミルタイオスを殺害したネフェリテスが打ち立てたのが第二十九王朝である。

 その第二十九王朝時代の初代ファラオであるネフェリテスもわずか五年で死去、その後は、ファラオの座を巡ってネフェリテスの息子、ハコル、そしてプサムティスが三つ巴となってファラオの座を巡って争い合った。その跡目争いに勝利したのがプサムティスで、彼が第二十九王朝の二代目ファラオになった。しかしながら、そのプサムティスの治世も僅か一年しか続かず、最終的にネフェリテスの跡を継いで、第二十九王朝の第三代ファラオとなったのがハコルであった。

 すなわち――

 第二十七王朝滅亡後の、第二十八・第二十九王朝時代とは、わずか十五年の間にエジプトの支配権がペルシア人からエジプト人の手に移り、そのエジプト人の支配者も数年単位で入れ替わってゆき、いわばエジプトが麻のように乱れた大混乱時代だったのである。

 この時代は、ソクラテスの死後にプラトンがアテナイを出て、エジプト渡航の手段を探りながら同時に、ヘルメス・トリスメギストスの情報を求めつつ、諸ポリスを巡っていた時期とぴたり重なり合うのだ。しかし、エジプトの社会的混乱と相まって、ギリシア人のプラトンにはエジプトに自由に渡航する機会がなかなか巡ってこなかったのである。


 そしてさらに――

 この時期のギリシアもまた相変わらずの混乱状態にあった。

 ペロポネソス戦争でアテナイを屈服させた後に、スパルタ王となったアゲシラオス二世の領土的野心は、今度は、アケメネス朝ペルシアの勢力下にあった小アジアに向かった。

 ダレイオス二世の死後にペルシアでは王位継承争いが勃発した。新たな大王になったアルタクセルクセス二世に対し、大王の弟でサルディス太守であったキュロスが、王位を主張して兄大王に対して謀反を興したのである。この兄王と弟の跡目争いは、兄王の勝利に終わったのだが、国内の安定に力を注ぎたいペルシアは、スパルタの領土的野心を小アジアから逸らせる必要があり、そこで、アルタクセルクセス二世は、ギリシア本土で戦争を誘発させようと画策したのだ。それが<コリントス戦争>である。

 このギリシアの内戦は、スパルタとその同盟国による<ペロポネソス同盟>と、アテナイ・アルゴス・コリントス・テーバイなどの<反スパルタ同盟>との戦いであった。スパルタ側は陸戦では連戦連勝だったのだが、海戦においては、ペルシア帝国の援助を受けたアテナイ側が勝利を収め、その結果、アテナイはペロポネソス戦争の敗戦で失った勢力を回復させる兆しを見せたのだった。それ故に今度は、力を回復させつつあったアテナイに対してペルシア帝国は警戒心を抱くようになった。そこで、ペルシアは政略を変更してスパルタ側に加担することにしたのである。

 このコリントス戦争に、第二十九王朝・第三代ファラオを迎えたばかりのエジプトが介入してきた。

 第三代ファラオ・ハコルは、ペルシア帝国の影響をエジプトから完全に除去するために、アテナイを中心とする<反スパルタ同盟>に接近せんとしたのだ。

 プラトンが<研究奴隷>としてエジプトに連れて来られたのは、<エジプト・アテナイ>対<ペルシア・スパルタ>という構図が完成しつつある、まさにこの時期だったのである。

 そして――

 プラトンがエジプトに滞在するようになってから数ヶ月の時が流れ去り、エジプトは<アケト(氾濫)>の時期を迎えようとしていたのだった。

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