第2章 マケドニア王アレクサンドロス
第36話 翠玉の再会
黄昏時の王宮の中庭に二人の中年が佇んでいた。
男達は向かい合ったまま、かなりの時間黙したままでいた。しかし先に口を開いたのはマケドニア王ピリポス二世の方であった。
「久しいなアリス。貴様と別れたのは、私が、テーバイに人質に出される直前、十三歳の時のことだから、四十引く十三で……、二十七年ぶりになるか。四半世紀以上も経ったのだな。お互いに老けたな。で、この四半世紀、どうしていた?」
ピリポス二世とアリストテレスの二人の幼馴染みは、暗闇に沈み、肌寒くなってきた中庭から、二人だけで話せる場を求めて、王の書斎にまで移動した。
そこで、オリーブ酒を酌み交わしながらアリストテレスが語ったのは、父母の死後にマケドニアの首都のペラを出てから、小アジアのトロイア地方・アタルネウスに住む姉夫婦の庇護下に置かれたこと。そして十七歳で、アテナイのアカデメイア学園に入園し、学頭のプラトンの指導の下、アテナイで二十年の教育・研究生活を送ったこと。その間にプラトンの供としてシケリア島の僭主ディオニュシオス二世の許を訪れ、そこで命の危機に瀕したこと。師プラトンの死後、小アジアのトロイア地方・アッソスとアタルネウスの僭主で、学園時代の学友だったヘルミアスの許を訪れ、そこで、親友でもあった僭主ヘルミアスの姪のピュティアスを妻に娶ったこと。しかし、アッソスがアケメネス朝ペルシア帝国の襲撃を受け、自分を逃がしたヘルミアスが処刑されてしまったこと。その後、アッソス対岸のレスボス島のミュティレネで潜伏生活を送ることになったのだが、そのミュティレネもペルシア帝国の襲撃を受けてしまったこと。そして、その危機的状況をピリポス二世の息子であるアレクサンドロスに助けられ、現在に至っていることなどをピリポス王に語り聞かせたのだった。
「ピリポスさまは、その後、いかに?」
マケドニア王たるピリポスが語ったのは、テーバイに人質として送られた後、テーバイの元将軍であるエパメイノンダスの庇護下に置かれ、その元将軍の下で、ギリシア流の戦術を学んだこと。その間に、父王の後を継いだ長兄のアレクサンドロス二世、次兄のペルディッカス三世が相次いで亡くなったこと。その後、次兄の子のアミュンタス四世が即位したのだが、新王は未だ幼かったため、テーバイからピリポスが呼び戻され摂政になったこと。しかし、幼王ではマケドニア王国の難局を乗り切れないために、民衆の支持を受けた自分が王座に就いたこと。その後、マケドニアでギリシア式の軍制改革を推し進め、マケドニアの領土を拡大させ、アケメネス朝ペルシアが警戒心を抱くほどの強国に成長したことなどを、アリストテレスに語り聞かせたのであった。
そして一通り、互いの四半世紀の出来事を報告し合った後で、ピリポスが突然頭を下げた。
「ピリポスさま、王たるもの、簡単に頭を下げてはなりません」
アリストテレスは王に頭を上げさせた。
「余は、王として首を垂れたのではない。友人としての謝の証だ。ならば、せめて謝らせてくれ」
ピリポスは、アリストテレスに謝罪の言葉を述べだした。
「余は、そなたに告げねばならないことがあるのだ。ペルシアのアッソス襲撃の遠因は、わが国マケドニアにある。あの時期、余は、アッソスのヘルミアスとの同盟を画策していたのだ。それをペルシアの<王の耳>に嗅ぎ付けられ、リディア太守のメントル将軍に先手を打たれてしまった。余は、アッソスに、アリス、そなたがいることを知っておった。しかしアッソスから消えてしまった後の、行方を追うのに二年も費やしてしまったのだ。まさか、アッソスから、かくも近いレスボス島で潜伏しておるとは……。灯台下暗しという事態だな……。しかし許せ。またしてもペルシアに先を取られてしまったことを」
「ピリポスさまの責任ではありません。どうぞ、お気になさらないでください……」
――それに、そもそものペルシア襲撃の原因は……。
実は全ての原因はクセノクラテスにあった。
レスボス島に潜伏していたアリストテレスら四人のうち、マケドニアの首都ペラにやって来たのは、アリストテレスとピュティアス夫婦、そして実家のエレソスから戻って合流したテオプラストスの三人のみで、そこにクセノクラテスの姿はなかった。
アリストテレス達は、兄弟子のクセノクラテスとはレスボス島で別れたのだ。
レスボス島でペルシア兵士の襲撃を撃退した後に、自責の念に駆られたのか、クセノクラテスが全てを白状した。自分こそが、ペルシア帝国の間諜で、アッソスの時にもミュティレネの時にもアリストテレス達の居所をペルシアに知らせたのは実は自分なのだ、と。
「しかし、兄弟子、いった何時から、ペルシアの間諜に?」
「アカデメイアに入園した頃からだ」
クセノクラテスは、アカデメイアに入園の折、エジプトから戻ってアカデメイアを設立したプラトン、彼の学問を修得して小アジアに戻れば、ペルシア帝国で学術指南役の地位を与えるとの約定を結んでいたのだ。そしてさらに、アカデメイアでプラトンに関する情報を可能な限り全て探るような密命をもペルシア帝国から受けていた。そして、年を追うごとに、ペルシアからクセノクラテスに下される命令は重くなっていった。きっかけは、プラトンの第二回目のシケリア島への渡航であった。船の中で交わされたプラトンとアリストテレスの四元素に関する対話、これに関する報告書にペルシア側は、四元素の軍事利用、<新兵器>の可能性を感じ取ったのだ。これ以降、ペルシアはクセノクラテスにアリストテレスを監視対象に加え、定期的な報告を命じたのである。そして、プラトンの死後にアリストテレスがアカデメイアを離れた際に、アッソスにまでアリストテレスに同行したのも実はペルシアの命令によるもので、レスボス島での潜伏先をペルシアに報告したのもクセノクラテスだったのだ。
「兄弟子……、時というものが巻き戻せない以上、もう今までの事をこれ以上、追求するつもりはありません。ただ、許すことはできないのですよ」
アリストテレスの妻のピュティアスは、ペルシア兵の棍棒で頭を打撃された。一命は取り留めたものの、重度の記憶障害を負ってしまっていた。今の妻にはアリストテレスのことさえ分からない……。
「わ、わたしは、この先、兄弟子に何をするか分からない。もう二度と私の前に姿を、み、見せないで欲しいぃぃぃ。…………。ダメだ……。冷静でいられん。もうかまわんっ! お、俺の理性があるうちに、とっとと立ち去ってくれっ!」
激昂し机を叩き壊した彼を部屋に残し、クセノクラテスはアリストテレスの許を去っていった。
「ところで、アリス、アレは今でも持っておるのか?」
ピリポス二世の声が、アリストテレスを王との会話に引き戻した。
「あれ? ああ、翠玉のことですね。別れの日に、ピリポスさまからいただいた大切な品です。肌身離さず、ここにいつも」
アリストテレスは、胸掛け袋の中の宝玉をピリポスに見せた。
「ピリポス様との友情の証たるこの宝玉が、幾度も、このアリストテレスを救ってくれたのですよ」
ピリポスは、このアリストテレスの言を、実際的な意味ではなく、象徴的な意味に取っていた。
「そうか、こうして、別れの時に交わした『何時になっても、何処においても構わない。生きて再び巡り合おうぞ』という誓いがこうして果たせたのも、その翠玉のおかげかもしれないな」
二人は、二十七年前に、四角錘の翠玉を掌で挟み右手と右手を強く握り組み合わせた<翠玉の誓い>に思いを馳せていた。
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