第35話 ミュティレネ襲撃
アリストテレスとピュティアス夫婦、そしてアカデメイア学園での兄弟子のクセノクラテスと弟弟子のテオプラストスは、アケメネス朝ペルシア帝国の追手から身を隠すために、レスボス島南東部に位置する町ミュティレネにて隠遁の日々を送ることになった。
この間、アリストテレスは、海や山、自然に囲まれたこの町で、植物学や動物学といった博物学の研究に従事しながら、<アッソス研究所>での錬成術の研究を継続し、さらに、動植物学と錬成術の学際を試みたのである。
すなわち――
ミュティレネでアリストテレスが着想した学と学との混交とは、キメラの生成や、ゴーレムやホムンクルスといった人口生命体の製造といった<生命の錬成>に関する実験であった。さらに、実験と実験の合間に<霊魂不滅>の問題に関して考察し始め、たとえば、人口生命体に人の魂を定着させることは果たして可能かどうかなどが、アリストテレスの思考遊戯であった。
そうして、四人がミュティレネで潜伏生活を送るようになってから三年の月日が経過したある日のことである。
突如、アケメネス朝ペルシア軍が電光石火の軍事行動を起こし、瞬く間にミュティレネを包囲・占拠したのだ。さらに、島内部に少数精鋭部隊を送り込み、アリストテレス一行を捕縛せんとした。
この日、テオプラストスは、同じレスボス島にあるエレソスの実家に帰省中だったため、ミュティレネを不在にしており、そのため、潜伏場所に残っていたのは、アリストテレス夫婦とクセノクラテスの三人きりであった。
ペルシア海軍襲来の報は、潜伏中のアリストテレスの耳にも既に届いていた。
三年前にアッソスにおいてペルシア軍の襲撃を経験していたアリストテレス達は、緊急事態に備えて避難袋を準備していた。アリストテレスは生活必需品が入った袋を手に取り、最低限持ち出すべき研究成果を<箱>に詰め終えると、急いで隠れ家を出た。
その逃亡の道中、アリストテレスは、常に肌身離さず身に着けている肩掛け鞄の中のロバの皮と翠玉の中身を確認しようとした。まさにその瞬間のことである。後方からクセノクラテスが突然声を放ったのだ。
「その手の中にある皮と玉をそこに置いて、遠ざかり給え、アリストテレス」
振り返ると、兄弟子が妻を羽交い絞めにしていた。
信じがたい光景であった。クセノクラテスは、ピュティアスの背後から彼女の腋の下に自分の腕を通して、その後頭部あたりで、己の腕を組み固め、ピュティアスが身動きできないようしていたのだ。
「兄弟子いったい何を……」
「許せ、アリストテレス。こうする以外にが方法がなかったのだ。強大な力を持つ帝国には逆らえないのだよ。私の家族が……ペルシアに……」
「た、たしか、兄弟子はカルケドン出身、そうか、ペルシアの勢力下……」
妻を人質に取られたアリストテレスは反抗しようもなく、ロバの皮と翠玉を地面に置き、兄弟子と妻の様子を伺いながら、その場から遠ざかった。
そこにペルシア兵の一団が茂みから姿を現した。ペルシア兵達は長槍を構えると、アリストテレスを遠巻きにし、彼を取り囲むように大きな円陣を組むと、少しずつその輪を狭めていった。
「おい、気をつけろ。絶対に殺してはならんぞ。そいつは生きて大王様の許に連れて帰らねばならないのだ。でないと、私の首が飛ぶ。そうだ、万が一のことがあってはならん。貴様ら、槍の代わりに棍棒を使えっ! 長物を使わずとも、多勢に無勢だ。人質もいるし彼奴も反撃のしようもあるまい」
円陣の外側にいる隊長が兵士達に、そう指示を出した。
ペルシアの兵で形作られる円、その人と人との隙間が完全に閉じようとしていた、そのほんの少し前のことである。
ピュティアスは、自分の踵で思い切りクセノクラテスの足の甲を踏みつけた。クセノクラテスは激痛のために、ピュティアスを固めていた組手が緩んだ。
逃げようとしたピュティアスが前方に体重をかけると、慌てたクセノクラテスはピュティアスを自分の体の方に引っ張ろうとして、体重が後ろにかかった。その瞬間に、ピュティアスが全体重をクセノクラテスに預けると、彼の体重は完全に後ろにかかってしまい、背中から地面に落ち、ピュティアスから完全に腕を放してしまった。
「アリスさまっ!」
クセノクラテスから逃れ出たピュティアスは、完成直前の円の隙間を縫ってアリストテレスの許に駆け寄り、夫を守ろうとペルシア兵の前に立ち塞がろうとした。
背後から突然現れた人影がアリストテレスの妻だとは気が付かずに、兵の一人が思わず手を出してしまった。
ピュティアスの頭に、後方から棍棒が振り下ろされた。アリストテレスの視界から、自分の方に向かってきていた妻の姿が突然消えた。しかし視線を落とすと、そこに意識を失った妻が地面に倒れ伏している姿が目に入った。
「ピュ、ピュティァ~~~~~ス」
絶叫を迸らせたアリストテレスの目から緑の輝きが放たれ、それが、少し離れた場所に置かれていた翠玉と共鳴し、その宝玉から強風が立ち昇ると、ピュティアスに肉迫しようとしていたペルシア兵達を吹き飛ばした。
「ピュティアスには誰も近付けさせん」
邪魔者を周囲から消し去ったアリストテレスは、大地に倒れ伏した、動かぬピュティアスに覆い被さった。
――俺がどうなっても、ピュティアスだけは必ず守り通す。
包囲円を完成させようとしていたペルシア兵の第一陣は強風で退けたのだが、兵隊長の後背には未だ予備戦力が控えていた。その兵達が二つ目の円を作り出そうと動き出そうとした。
その瞬間――
ミュティレネの城壁から一筋の光が放たれ、ペルシア兵隊長の足元を照らし出した。城壁上に控えていたペルシア軍の伝令兵が、磨き上げた盾で太陽の光を反射させたのだ。
伝令兵よりも、音よりも、光の伝達速度こそが最速だ。それ故に、盾反射の太陽光は即時全軍撤退の合図であった。
兵隊長には港で何が発生したのかは分からない。
しかし、自分が勅命を受けた誘拐対象であるアリストテレスとその妻はすぐ目の前に存在している。たしかに即時撤退の合図は出ているのだが、対象を目の前にして、このまま引いてよいものかどうか、隊長の心に一瞬の迷いが生じた。
だが、その逡巡が手遅れになった。
音もなく現れた黒い影、その影から一刃舞う度ごとに、兵隊長の周りにいたはずのペルシア兵達が次々に地面に倒れ伏してゆき、兵隊長が身構えた時には、その場に残っているのは唯独りになっていた。
いったい何が? と思った直後には、兵隊長の喉元から血が噴き出し、彼もまた部下と同じ運命を辿ることになった。
生きたペルシア兵が一人もいなくなったことを確認した後で、その黒い影は口笛を吹き鳴らした。
それを合図としたように、屈強な兵士達で周囲を固めた一人の少年が姿を現した。
数多の人の気配を察したアリストテレスは、妻の身を守りながらその集団の方に顔を向けた。
――この少年……誰かに似ている、とアリストレスは思った。
その少年がアリストテレスの方に進み出てきた。
「アリストテレス先生ですね。到着が遅れて申し訳ありません。父の名代で参りました。父は、先生がマケドニア王国に来てくださることを強く望んでおります。私と共にマケドニアまでいらしてくださらないでしょうか?」
「君、名は?」
「これは、自己紹介が後になってしまいました」
マケドニア王国から来たという少年はアリストテレスの前で姿勢を正した。
「アレクサンドロスと申します、父はマケドニア王ピリポスです」
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