第34話 アッソス襲撃

 アリストテレスが、アテナイのアカデメイアで学び始めてから八年後、そして、アリストテレスがアカデメイアを離れることになる十二年前、すなわち、彼のアテナイ留学中の二十五歳の時のことであった。世情の疎いアリストテレスの耳にさえ一つの報が届いてきた。

 アルゲアス朝マケドニア王国に新たな王(バシレウス)が立ったとの報であった。

 新王の名はピリポス、アリストテレスの少年時代の親友と同じ名前であった。

 マケドニアでは、アリストテレスの父ニコマコスが侍医を務めていたアミュンタス三世の死後、その長男のアレクサンドロス二世が王位を継いだ。しかし、わずか三年後にアレクサンドロス二世が暗殺されると、次男のペルディッカス三世が即位、しかし、ペルディッカス三世も九年間の在位の後に、イリュリア王国との戦いにおいて四千人のマケドニア兵士と共に戦死してしまった。その後、ペルディッカス三世の遺児であるアミュンタスが、アミュンタス四世として王位を継ぐことになった。しかし、新王のアミュンタス四世は未だ幼かったため、ペルディッカス三世の弟で、アミュンタス四世の叔父であるピリポスが摂政となり、幼君の治世を支えることになったのである。

 実はピリポスは、ペルディッカス三世の在位中に、テーバイに人質として送り出され、そのギリシアの主要ポリスで、かつてテーバイ軍の将軍の地位にあったエパメイノンダスの庇護下に置かれることになった。

 六十歳を超えていた、最晩年のエパメイノンダスは、ピリポスに非凡な軍事的才能を認め、ピリポスが外国人であったにもかかわらず、このマケドニアの若者を自分の最後の弟子とし、彼に、最高の戦闘教育を施したのである。

 ピリポスは、テーバイの元将軍から、ギリシア伝統の<ファランクス>や、エパメイノンダス自身が考案した<ロクセ・ファランクス(斜線陣)>など様々な戦術を吸収していった。

 このピリポスの人質時代の間に、マケドニアは、イリュリア王国との戦いでの敗戦の結果、領土の一部を失ってしまっていた。かくの如く、マケドニアは危機的な状況下にあったため、テーバイから帰国して幼王の摂政になったピリポスは、民衆の支持を受けて王位に就いた。そして王になるや否や、イリュリア王国3との戦いに身を投じることになったのである。

 この戦いにおいて、ピリポス二世率いるマケドニア軍は、テーバイで学んだ戦術を駆使し、勝利を収め、ペルディッカス三世の敗戦による失地を回復させた。それ以後、マケドニアは周辺諸国を次々に打ち倒し、その勢力を拡大し、地中海・エーゲ海地域の強国の一つに成長していったのである。

 空間的にギリシアとペルシアの中間に位置していたマケドニアに対して、アケメネス朝ペルシアの大王(シャー)たるアルタクセルクセス三世は強い警戒心を抱いていた。

 そして、マケドニアの動向を探っていたアルタクセルクセス三世の許に、小アジアに放っていた密偵である<王の耳>から、マケドニアのピリポス二世が、小アジア北部・トロイ地方のアッソスおよびアタルネウスの僭主であるヘルミアスとの同盟を画策しているとの報が届いたのである。


 ある日のことである。

 ヘルミアスの許に、アケメネス朝ペルシアの大王アルタクセルクセス三世の名代として、リディア地方の太守(サトラップ)であるメントル将軍が訪れた。

 ペルシア帝国はエジプトへの遠征を画策しており、メントル将軍訪問の目的はエジプト進攻への協力要請であった。そして、将軍はヘルミアスへの親交の証として、大量の金銀財宝を積んだ何台もの車を率い、それらをアッソスの街中へと乗り入れさせたのだった。

 そのメントル将軍歓迎の宴の最中のことであった。

 突如、宴の会場に完全武装のペルシア軍兵士が現れ、瞬く間に場を制圧した。ヘルミアスは捕縛され、僭主はメントル将軍の前に引きずり出された。

「これほどまで数のペルシア兵が一体どこから現れたのだ?」

 訝しんだヘルミアスに対してペルシアの将軍は答えた。

「あなた、ホメロスの『オデュッセイア』はお読みで?」

「ま、まさかっ!」

「お気づきかな? 財宝を積んだ車の中に兵を潜ませていたのですよ」

 メントル将軍はさらに続けた。

「さて、アッソスの僭主たるヘルミアス、あなたへの要求は二つあります。一つ目は、わがペルシア帝国への服従。そして二つ目、あなたの所の食客であるアリストテレスの身柄をペルシアに渡していただきたい。我らがシャー・アルタクセルクセス三世陛下は、音に聞こえたアカデメイアのアリストテレス先生を学術指南役としてペルシアに招きたいと考えているのですよ。何でも、噂では、先生は、石を金に変えるような、前代未聞の研究に従事しているとか。こう言ってはなんですが、このアッソスのような田舎町よりも、ペルシア帝国の首都エクバタナの方が、先生の研究も進展するのではないでしょうか? シャーも先生の研究には惜しみない援助をしたいと申しているのですよ。さあ早く! アリストテレスの居場所を我々に教えた方が身のためですよ」

 そういったメントル将軍の口元には刻薄そうな笑みが浮かび上がっていた。

 将軍のその表情を見た瞬間にヘルミアスは、アリストテレスをアッソスから脱出させねばならないと強く念じ、宴の場にいた姪のピュティアスに目で合図を送った。

 女性に対する警戒が薄かったのか、ピュティアスがその場から姿を消していることにペルシア兵達は気付かなかった。

 

 ピュティアスは、アッソスが他国から攻撃を受けた場合に備えた脱出経路を、ヘルミアスから伝えられていた。

 実は、アッソス研究所の地階には秘密の竪穴があって、そこから梯子を使って垂直に降り切った場所に港にまで通じる地下水路があり、そこに脱出用の船が設置されていたのである。

 ピュティアスに先導された、クセノクラテス、テオプラストス、アリストテレスを乗せた船は、地下水路を通ってアッソスの港に続く出口付近にまで達しつつあった。

 しかし、そこには既に脱走者を逃さないためにペルシア兵が陣を敷いて待ち構えていたのである。

 地下水路の脱出口に、敵兵の姿を視認したアリストテレスは、荷物袋の中から古びたロバの皮を取り出すと、その皮を大急ぎで船の帆として柱に取り付けるように、兄弟子と弟弟子に指示を出した。

 二人が皮を括り付け終わらないうちに、ペルシア兵から矢が放たれた。船首に立ったアリストテレスは胸掛け袋から何か取り出すと、それを出口の方に向けて差し出した。

 右手の先から緑の光が輝くと、強風が矢の方に向かってゆき、向い風によって勢いが殺がれた矢は、船に達する前に全て水面に落ちていった。

 ペルシア兵たちは、これまで経験したことのない自然現象に驚愕したのか、二射目を放つまでに一瞬の間をあけてしまった。

 この刹那的な隙をアリストテレスは逃さなかった。彼は船尾に移動すると、帆の方に腕を伸ばしてた。瞬間、緑の光が輝き、再び強風が起こった。追い風を受けた帆船は加速し、出口で待ち構えていたペルシア兵を蹴散らしていった。

 かくして、アリストテレス一行はアッソスからの脱出に成功し、船はアッソス対岸のレスボス島に到着したのだった。

 島に到着したアリストテレス達は、レスボス島出身のテオプラストスの案内で、島の東岸・ミュティレネに潜伏することになった。


 ほどなくして、ヘルミアスが処刑されたという噂を風がミュティレネに運んできた。

 そして――

 夜空に輝く藍白色の狼星の下で、アリストテレスは独り友を想って涙した。 

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