第33話 幸福な日々
アリストテレス、クセノクラテス そしてテオプラストスの三人は、僭主ヘルミアスの援助を受け、高等研究・教育機関たる<アッソス研究所>を設立した。ここで、アリストテレス達が立ち去って以降、数学偏重になってしまったアカデメイアとは完全に異なる研究を始めることにした。
すなわち<錬成術>である。
ヘルメス・トリスメギストスの叡知の三部門のうち、<魔術>はエジプト、<占星術>はカルデアにて研究が続けられていた。
しかしながら、残り一つの部門たる<錬成術>に関しては、それは失われた<知>であり、その断片が、小アジア・イオニア地方のミレトスに伝わっているのみであった。そして、それを哲学的に考察したものが自然哲学、元素のアルケー論だったのだ。
アルケーに関して、タレスは<水>、アナクシメネスは<風>、ヘレクレイトスは<火>、そしてクセノパネスは<土>、このように自然を構成する四つの要素の内の一つを、それぞれの哲学者は<万物の根源>とみなしていたのである。
四人のうちの<土>のクセノパネスは、小アジアのイオニア地方のコロフォン出身であった。クセノパネスは二十五歳の時に故郷のイオニア地方を出るとシケリア島に渡り、島内各地を遍歴した。そのクセノパネスがシケリアで書き残した文献を研究の出発点にしたのが、シケリア島南部のギリシア系のポリス・アクラガス出身のエンペドクレスである。
エンペドクレスは、アルケーを一つに限定せずに、火・水・土・風の<四元素>だと考えた。これが、プラトンとアリストテレスの四元素論の出発点となり、アリストテレスは、熱・冷・乾・湿の四つの性質の組み合わせを置き換えることによって元素を転換させるという発想を得た。
大雑把に言うと、熱と乾の組み合わせで<火>、熱と湿の組み合わせで<風>、冷と乾の組み合わせで<土>、そして冷と湿の組み合わせで<水>が形成される。これが基本である。
しかしながら単に性質の置換だけではなく、熱と冷の比率、乾と湿の比率を変化させ、その上で構成要素の組み合わせを変えると、その結果、異なる自然現象が生じることにアリストテレスは気が付いた。たとえば、熱と湿の組み合わせで<風>が生じるのだが、熱冷の割合を熱低め・冷高めにした場合には「雨」が生じる。あるいは、冷と乾の組み合わせで<土>が生じるのだが、熱冷の割合を熱高めにした場合には「マグマ」が生じ得る。
ということは、とアリストテレスは考えた。
四元素の基本的な組み合わせを基本にしつつ、構成要素の比率を変えることによって異なる結果が得られるのではなかろうか。
アリストテレスは、ある要素と別の要素を組み合わせることによって、まったく別個の事象を生じさせる、すなわち、これこそが、ヘルメス・トリスメギストスの三つ目の叡知である<錬成術>だと直観したのだ。
あとは、各構成要素の比率の計算と、組み合わせ実験を繰り返し実証してゆくだけだ。そかし、その「だけ」こそが殆ど無限といってよいほどの組み合わせが存在する。
そして、この<錬成術>の実証実験にアリストテレスはすっかり夢中になり、結果、彼の<アッソス研究所>での研究生活は充実していた。
そして、アリストテレスの日々の生活をさらに充実させたのは――
ピュティアスの存在であった。
アカデメイアにおいて、研究と教育に専心していたアリストテレスは、四十歳近くになって、娘ほども年齢が離れている少女に、有体に言えば恋、初めての恋をしたのだ。
初めて女性に関心を抱いたアリストテレスの恋の仕方は、まるで十代の少年のように不器用なものであった。
研究の合間に、ふと集中力が切れると考えるのはピュティアスのことばかりで、ヘルミアスの命でピュティアスはアリストテレスの身の回りの世話をしていたのだが、何らかの事情があってピュティアスが研究所に来れない日には、アリストテレスは彼女のことばかり考えて研究が全く手につかなくなってしまう。そして、ちょっとしたことで、ピュティアスと手が触れると、もう我が世の春とばかりの気持ちになる。
クセノクラテスの目からみても、テオプラストスの目からみても、アリストテレスの気持ちは駄々洩れしていたのだが、四十近くになって初めて恋をしたアリストテレスには、どのようにしてピュティアスに気持ちを打ち明けてよいのか分からない。と言うか、ピュティアスに会えて、彼女と話せるだけでアリストテレスは満足し切っているようで、彼女と恋人になったり結婚したりするという発想は全くないようであった。クセノクラテスとテオプラストスには、アリストテレスのピュティアスへの接し方が、傍から見ていてやきもきして仕方がなかった。
そこで、クセノクラテスとテオプラストスはヘルミアスにこの件を相談し、一計を巡らすことにした。
ある日、アリストテレスは、ヘルミアスの居城に呼び出された。
「アリス、一つ君にお願いがあるのだが……」
「なんだい、ヘルミアス。君の頼みなら、このアリストテレス、なんだって引き受けるぞ」
「俺の姪のピュティアス……」
ピュティアスという名前が出ただけで、アリストテレスの心は弾んだ。
「め、姪御殿がどうしたのだ?」
「そろそろ、嫁に出そうと思っているのだよ」
アリストテレスは手が震えだし、我知らず、手に持つ杯を落としてしまった。
「はっ、は、ピュ、ピュティアスぅぅ殿も、みょ、妙齢のじょ、女性だしぃぃぃなぁぁぁぁ」
アリストテレスの声は震えていた。
「年齢を鑑みて、テオプラストスなど、どうであろうか? 君からテオプラストスに話してみてくれないかい?」
両の拳で机を強く叩きつけ、アリストテレスは椅子を押し倒し、そして荒々しく立ちあがった。
「ふ、ふざけるなっ! テオプラストスに嫁に出すのなら、俺がもらうっ! ピュティアスは誰にも渡さん」
アリストテレスは激高した。
静まり返ったその後で、ヘルミアスは部屋の扉の方に顔を向けた。
「だ、そうだ」
振り返ったヘルミアスがそう言うと、ピュティアスが頬を染め、俯きながら部屋に入ってきた。
「アリストテレスさま。私もお慕い申し上げております。末永くよろしくお願いいたします」
そう応えたピュティアスは顔を上げ、アリストテレスに微笑みかけた。
――かくして、アリストテレスの公私両面における、アッソスでの幸福な日々は二年の間続いたのだった。
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