第39話 決死の砂漠横断

 アケメネス朝ペルシア帝国の第二代目の大王(シャー)であったカンビュセス二世がエジプトを征服した後、エジプトは、ペルシアのシャーがエジプトのファラオも兼任する時代が約百二十年も続いた。

 そして、ギリシアの内紛であるペロポネソス戦争がスパルタの勝利で終結したのと同じ年のことであった。

 ペルシアの大王にして第二百代のファラオでもあったでダレイオス二世が崩御したのだ。その後、ダレイオスの息子であるアルタクセルクセスとキュロスの兄弟の間で、ダレイオス二世の後継者争いが起こり、その動乱に乗じて、エジプト人のアミュルタイオスがエジプトをペルシア人の手から奪還し、エジプト人による第二十八王朝を樹立したのだった。

 しかし、である。

 第三十王朝のネクタネボ二世の時代に、アルタクセルクセス三世によって、エジプトは再びペルシア帝国に支配されてしまった。

 だがその五年後、ペルシア帝国内部で内紛が勃発したのだ。

 大王アルタクセルクセス三世がその王子達諸共に、大臣のバゴアスによって毒殺されてしまったのだ。だがしかし、王子達の中でただ一人アルセスのみが殺されなかった。大臣はアルセスをアルタクセルクセス四世として擁立し、彼を傀儡の王としてペルシア帝国を裏から牛耳ろうとしたのである。しかし、アルタクセルクセス四世は大臣の手の中から実権を取り戻そうと画策していた。しかし、その策謀が大臣側に露見してしまい、結果、アルタクセルクセス四世もまた毒殺されてしまったのだった。

 そして、この後のペルシア帝国では、大臣バゴアスと、アケメネス家の傍流であるダレイオスとの間で政権争いが起こり、最終的にダレイオスが大臣バゴアスを権力の座から追い落とし、ダレイオス三世としてが帝位に就くことになったのだった。これが、アケメネス朝ペルシアの状況である。


 これに対して、アルゲアス朝マケドニア王国では、ペルシア帝国でアルタクセルクセス三世が暗殺されたのと同じ年に、カイロネイアの戦いで、マケドニアは、ギリシアのアテナイ・テーバイ連合軍に勝利し、その翌年に、スパルタを除く全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、マケドニアはその盟主となった。

 その翌年、それはペルシアにおいてダレイオス三世が即位したのと同じ年のことであった。マケドニアでは、ピリポス二世が暗殺され、弱冠二十歳のアレクサンドロスが、アレクサンドロス三世として王座に就くことになったのだ。

 ――すなわち

 ペルシアにおいてもマケドニアにおいても同じ年に新たな王が登場したのである。 

 そしてマケドニアの若王アレクサンドロス三世は、王座に就いて二年後には早くもペルシア遠征の途に出たのである。

 遠征の二年目には、イッソスの戦いで、ペルシア大王ダレイオス三世自身が率いていた十万のペルシア軍と直接対峙した。

 この戦いで、アレクサンドロス三世は、ロクセ・ファランクス(斜線陣)に騎兵を併用するという戦術を用いて、ペルシア軍を敗走させ、その勝利の結果、ダレイオス三世の母・妻・娘を捕虜にし、さらに莫大なペルシアの財宝さえも手に入れたのだった。

 さらに進軍を続けたマケドニア軍は、遠征先に次のような布告を出した。

「従うなら許す、逆らうなら奴隷にする」

 これが、東方遠征におけるマケドニア軍の基本方針であった。つまり降伏した都市には自治権を与えるなど寛大な対応をしたのだが、これに対して、抵抗した都市は容赦しなかった。

 たとえば、シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的に多かったため、アレクサンドロス三世の遠征軍は、然したる抵抗を受けることなく、都市を次々と無血開城させることができた。

 しかし、フェニキアのティールや、イスラエルのガザは徹底抗戦の姿勢を貫いたため、戦闘員は全員殺され、非戦闘員は全員奴隷にされてしまった。

 こうした破竹の勢いのマケドニア軍はそのまま南下しエジプトへの侵入を果たした。

 この時期のエジプトは、マケドニア軍侵攻の十一年前に、再びペルシア軍に支配されていた。こうした状況下、エジプトの民は、アレクサンドロス三世をペルシア帝国からの解放者として歓迎した。

 かくして、アレクサンドロス三世は、事実上、エジプトをその支配下に置いた。しかし、エジプトのファラオとして、神からも認められるためには神託を受ける必要があり、そのため、アレクサンドロスは少数の精鋭部隊のみを率いて、エジプト西部の砂漠に位置しているアメンの聖地、シワ・オアシス赴くことになったのだった。

 「シワ」とは、<ベルベルの犠牲の鳥>という意味で、この鳥は太陽神ラーの守護者である。それ故に、シワ・オアシスはアメンの聖地とされていたのである。

 ここでアレクサンドロスを「太陽神アメンの子」として認めるという神託が下り、マケドニア王はここにおいて初めて神からもファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名が与えられたのだった。

 かくして、エジプトの神にファラオとして認められるという王としての責務を果たしたアレクサンドロス三世は、東方向に向けて騎馬を全力で駆けさせた。

 シワ・オアシスからメンフィスまでは直線距離で約三千百スタディオン(一スタディオンは〇.一八キロメートル)なのだが、シワ・オアシスの東部には広大な砂漠が広がっている。そのため、無難に移動しようと欲する場合には、いったんシワ・オアシスから北上し地中海方面にまで出てから、東進するのが通常の移動方法であった。しかし、この場合の総移動距離は約四千三百スタディオンになる。砂漠を横断した場合との差は、千二百スタディオン(約二百キロメートル)にもなるのだ。

 アレクサンドロス一行は、神託を受けるために、メンフィスからシワ・オアシスに向かう時には、北上し地中海方面に出てから西進、そこから南下するという安全な経路を選んだ。このマケドニア軍の動向は、おそらくはエジプトの各地に潜伏していたペルシアの<王の耳>にもエジプト人の密偵にも監視されていたに違いない。

 そして密偵たちは、アレクサンドロス一行がその帰路にするであろう移動経路の各所で張り込みを続けていた。

 しかし、である。

 シワ・オアシスでの神託の受託がとうに終わっているはずなのに、待てども待てども、アレクサンドロス一行は姿を現さなかった。

 ありとあらゆる追跡者を巻く必要があったアレクサンドロス一行は、危険を冒し、砂漠を横断するという強硬手段に出たのだ。

 やがて――

 アレクサンドロス達は、密偵に気付かれぬまま、彼等の真の目的地たるギザのネクロポリスに到着した。 

 アレクサンドロスはピラミッドへの侵入を果たし、エメラルド・タブレットが収蔵されているというヘルメス・トリスメギストスの部屋に続く隠し扉を発見した。

 そして、アレクサンドロス三世は、幼馴染である側近護衛官のヘファイスティオンのみを連れて、通路と壁の<敷居>を乗り越え、暗闇の中に姿を消していったのだった。

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