第40話 失われし魂を求めて
暗闇の中に溶け消えていったアレクサンドロスとヘファイスティオンの背中に視線を送っていた側近の一人が両手を強く握りしめていた。あまりにも強く握り締め過ぎたため、その爪は掌に深く食い込んでしまっていた。
隣にいた同僚が、その指の一本一本をゆっくりと解きほぐして言った。
「落ち着け、エウメネス。手から血が滴っておる。これ以上、両手が傷ついたら、武器が持てなくなるぞ」
取り残された側近の一人プトレマイオスが、若き側近たるエウメネスにそう注意を与えた。
「何、構いません。武器が持てないのならば、ペンを持つだけのことです」
ちなみに、エウメネスは武にも秀でていたが同時に文にも優れ、アレクサンドロスは、エウメネスには武官としてよりも文官としての将来を期待していた。
「それにしても、王は、ヘファイスティオンをあまりにも優遇し過ぎです。幼馴染として仲が良いだけならばまだ構いません。昨年など、プトレマイオス殿をその座から外して、あやつを側近護衛官に抜擢したのですよっ」
アレクサンドロス王の側近護衛官(ソマトピュラクス)は、定員七名のマケドニア軍におけるエリート中のエリートであった。王の側近護衛官は、近衛騎兵部隊と近衛歩兵部隊の中から選ばれることになっていた。アレクサンドロス三世が即位してから三年の間は、その七名の構成員に変動はなかったのだが、一年前に、七名のうちの一人がプトレマイオスからヘファイスティオンに交代になったのだ。
その理由は、王の影武者であるヘファイスティオンを傍に置くからとのことだったのだが、それだけならば側近護衛官にする必要はない。
特に、若手将官の中には、側近護衛官から外されたプトレマイオスを慕っている者が多く、この人事に対して納得していない者が実際多かったのだ。
その中の一人にレオンナトスがいた。彼は、アレクサンドロスとヘファイスティオンと同い年で、彼も王の幼友達だったのだが、まさしく同年齢ゆえにこそ、自分よりも優遇されているヘファイスティオンに対しては、他の側近以上に強い負の感情を抱いているらしかった。また、それを隠すことさえしなかった。
「くっ、かまうもんか、俺も入って行くぞっ!」
感情が高ぶったレオンナトスは我慢の限界を越えて、王たちを追って敷居を越えようとした。しかし、闇に足を踏み入れようとした途端、まるで透明な壁に阻まれたように、闇の中に一歩たりとも入ってゆけないのだ。
年長者のプトレマイオスが、年若のレオンナトスの左肩にそっと手を添えて言った。
「我々は、ここで、親愛なる王の帰りを静かに待とうではないか」
アレクサンドロスとヘファイスティオンは、闇目も効かない状況の中、何も語らず示し合わせずとも、同じ歩調、同じ歩幅で二人歩を進めていた。この程度のことは目をつぶっていてもできる。二人は産まれた時から一緒なのだから。
やがて、緑の輝きが二人の視界に入ってくると、自然に二人の歩調も速まった。その速度も完全に同調する二人であった。
暗闇回廊の果ての壁に掛けられていたのは、緑色の輝きを自ずから放っている石板であった。
これが、師アリストテレスからその持帰を依頼されていた<エメラルド・タブレット>であることは間違いようがなかった。
アレクサンドロスは、その翠玉板に近付こうとした。
「待て、アレク」
ヘファイスティオンは、幼き頃から二人だけの時にだけ使う愛称で友を呼び、その動きを制した。
「俺が、先に調べる。餓鬼の頃とは違うんだ。興味だけで動くな。こういうカナリアは俺の役目だ」
そう言ったヘファイスティオンが先にエメラルド・タブレットに近付き、板を調べ始めた。
しかし、触れてみても、軽く中指の中節骨で叩いてみても、さらには匂いを嗅いでも、単に緑色に輝いている板という以外に変わった所は特に認められなかった。気になった点があるとしたら、板の真ん中辺りに欠けた箇所があるくらいだった。安全だと判断したヘファイスティオンは、アレクサンドロスを呼び寄せた。
「ここで、俺たちが、どれだけの時間を費やして調べようが、何が分かるというものでもない。とりあえず目的の品は見つかったのだ。この板を厳重に梱包し、まずはメンフィスにまで運んでから、アリストテレス先生の許に送り届ける算段を整えよう」
ヘファイスティオンはアレクサンドロスにそう提案した。
「ちょっと待てよ、分からないかもだけど、とりあえず、俺もじっくり見てみたいんだけど」
そう言ったアレクサンドロスが翠玉版の真ん中の欠損部に顔を近付けた。
まさにその瞬間であった。
板の欠落箇所と呼応したように、アレクサンドロスの左目から緑の輝きが放たれた。あたかも、その目から出た太い光線と板の欠損部分が結び付けられたようになり、アレクサンドロスの身体が板に引き寄せられたのだ。
ヘファイスティオンは、反射的にアレクサンドロスの身体にしがみついた。しかし板への引力に抗うことは容易くない。
「だ、ダメだ、ひ、引きずる込まれる、ヘ、ヘファイスティオン、後のことは、た、頼むぅぅぅぅぅぅ」
アレクサンドロスの叫びに抗うかのように、ヘファイスティオンは、能う限りの力で王の身体を後方に引っ張った。
突然、板への引力が消え去り、逆に、斥力が働いたかのように、ヘファイスティオンはアレクサンドロスの身体を抱えたまま後方に吹き飛んでしまった。
そして、アレクサンドロスの目からは緑輝は消え、エメラルド・タブレットの輝きは和らいでいた。
「おい、アレク、大丈夫か?」
返事はない。頬を軽く叩いてみた。反応がない。
ヘファイスティオンは、王の身体を調べてみた。特に外傷は無いようだ。
それから手首に手を当ててみた。反応あり。首に手を当ててみた。脈動を確認。心臓に耳を当ててみた。鼓動あり。
にもかかわらず、だ。アレクサンドロスの肉体から生命の気配が認められないのだ。まるで、肉体から霊魂が抜け出てしまったかのような……。
ま、まさか、この翠玉板にアレクサンドロスの魂が吸い込まれたのか?
「ぁあああああぁぁあぁぁぁああああぁあれぇぐぅぅぅぅぅうぅぅ」
ヘファイスティオンは言葉にならない絶叫を迸らせていた。
影武者の自分が、王をこのような状態にさせてしまい、このままおめおめと戻れるはずはない。
ヘファイスティオンは、衝動的に、奥歯に仕込んでおいた毒袋を噛み切った。しばらくすると、全身が麻痺し、体温も低下し、それに伴って意識が徐々に保てなくなってきた。
「アレク、貴様を独りにはさ……せ…………ぬ………………よ……………………」
ヘファイスティオンの意識はここで途切れた。
一体どれくらい時間が経過したかは分からない。が、ヘファイスティオンは意識を取り戻した。
自分が死に切れなかったことを、徐々に明朗になってきた頭が理解した。
戻ろう。
パニックになって、瞬発的に自決を試みてしまったが、アレクサンドロスの肉体そのものは未だ温もりがあった。身体は生きているのだ。
そして、理屈は全く理解できないのだが、自分は幼馴染の魂が翠玉板に吸い込まれるのを直感した。この翠玉板を欲していたアリストテレス先生ならば、王の状態を元に戻す何らかの方法を見つけ出せるかもしれない。
ヘファイスティオンは、大地に伏せていた王の身体を背負い、光が漏れ出ないように丁寧に板を包んだ後、持参した鞄にそれを入れると、暗闇の回廊を取って返したのだった。
暗闇が揺らいだようになると、そこから、動かぬ身体を背負った人影が姿を現した。
「「「「「「「「王っ!!!!!!!!!」」」」」」」」
アレクサンドロス王の側近たちが近寄ってきた。中には、涙ぐんでいる者もいた。
ヘファイスティオンは、背負って連れ帰ってきた王の肉体を静かに床に横たえた。
「ぁ、あにざぁぁぁあまっ!」
側近護衛官の一人ペイトンが泣きながら駆け寄ってきた。ペイトンはアレクサンドロスとヘファイスティオンよりも一つ年下で、幼い頃から、自分や王を兄のように慕っていた。そして、気持ちが昂ってしまったのか、ペイトンは幼年時代の呼び方をしてしまっていた。
ペイトンは、ヘファイスティオンに抱きついてきた。感情を剥き出しにして自分の胸で泣いている年若の幼馴染に対して、いったい何と言葉を掛ければよいのか。
「兄さまぁ、よ、よがぁたぁぁ、無事にお戻りになられて、本当に、よかったぁぁぁ」
そこに、プトレマイオスとエウメネス、そして、ヘファイスティオンとペイトンを除く、五名の側近護衛官が近付いてきた。
「王よ、無事のお戻り何よりでございます」
一同が一斉に頭を垂れた。
えっ? 何を言っているのだ。
アレクサンドロスの影武者であるヘファイスティオンが、王と容貌が酷似しているのは確かである。しかし、側近が二人を見間違うことはない。簡単な見分け方があるからだ。
アレクサンドロスは「一眼は夜の暗闇を、一眼は空の青を抱く」と、右目は黒、左目は青だと民衆に知れ渡っていた。しかし実は、左右の瞳の色違い(ヘテロクロミア)は、影武者たるヘファイスティオンの方の特徴で、王の双瞳は、力を使って緑の輝きを帯びる時以外は、黒曜石のような黒であった。
ヘファイスティオンは、床に横たえた王の肉体に視線を送った。アレクサンドロスであるはずの男の左目は、まるで鏡の中の自分を見ているかのように――
青かった。
ヘファイスティオンは毒に侵され、肉体的な死を迎えていた。
魂が抜け、肉体的には生きていたアレクサンドロスの身体は、今、ヘファイスティオンが動かしている。こう言ってよければ、アレクサンドロスの肉体にヘファイスティオンの魂が入っているのだ。
それでは、アレクサンドロスの魂は? エメラルド・タブレットに吸い込まれてしまった……。
ということは、自分のこれからの目的は、アレクサンドロスを元に戻す方法の探求であろう。
まずは、アテナイで新たな学園リュケイオンを運営しているアリストテレス先生に連絡をとろう。
だが、師に全てを委ねるのではなく、自分でも動くべきだ。
王は、エジプトのナイル川デルタ地帯の西部に、自分の名を関した「アレクサンドレイア」という都市の建設を予定していた。そこに、あらゆる国から優れた学者を募り、古今東西の書物を集め、独自に研究を推進する<ムセイオン>を建設しようとヘファイスティオンの魂は考えていた。
全ては、アレクサンドロスの
失われし<魂>を求めるために。
(了)
失われしモノを求めて 隠井 迅 @kraijean
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