第16話 ピタゴラスのバビロン捕囚

 十年にも及ぶエジプトでの<知>の探求の結果、ピタゴラスに、一つ目の<ヘルメス>の称号(魔術)が授与されたのと時を同じくして、アケメネス朝ペルシアのエジプト侵攻が始まった。このアケメネス朝ペルシア帝国こそが、当時のオリエント世界における最強国であった。


 ピタゴラスが<ヘルメス>の称号を獲得した時から遡ること約八十年前のことである。

 ペルシア国王カンビュセス一世と、メディア王の娘マンダネとの間に、王子キュロスが誕生した。この頃のペルシア王国は、未だメディア王国に属する小王国に過ぎなかった。王太子キュロスは四十歳の頃、父王の死に伴い、第七代ペルシア王キュロス二世として玉座に登った。

 ペルシア王国の内政を安定させたキュロス二世は、まず、母の祖国であるメディア王国に対して反旗を翻し、宗主国であったメディア王国を滅ぼした。

 次に、ペルシア王国が誇る一万人の精鋭部隊<不死隊>を率いて、小アジア西部のリュディア王国に侵攻、これを征服した。

 それからエラム地方攻略の後、新バビロニア王国をその支配下に置いた。

 さらに、キュロス二世は東方辺境を転戦し、バクトリアやソグディアナ地方もその勢力下に収めたのだった。

 かくして、東はヤクサルテス川、西は小アジアに至る空前絶後の大帝国アケメネス朝ペルシアがここにて成立し、キュロス二世は自らを「大王」「諸国の王」、すなわち「シャー」を名乗るようになったのだった。

 キュロス二世が即位した時代のオリエントの大国は、メディア王国、リュディア王国、新バビロニア王国、そしてエジプト王朝の四つだったのだが、キュロス二世の征服行為の結果、ペルシア帝国の支配下に入っていないのはエジプトだけとなってしまった。

 しかし初代シャー・キュロス二世は、オリエントの完全統一を成し遂げぬまま戦死してしまった。そしてキュロス二世の領土的野望は、その息子で、二代目シャーを継承したカンビュセス二世に受け継がれることになり、カンビュセス二世は、オリエントの完全統一を成就するためにエジプトへの侵攻に乗り出したのである。

 この時、エジプトは第二十六王朝の時代で、アマシス二世の死後にファラオになった、その息子プサメティコス三世の治世下にあった。しかし、抵抗むなしく、メンフィスは陥落し、エジプトもまたペルシア帝国の支配下に入ることになってしまった。第二十六王朝の滅亡はアマシス二世の死後わずか半年のことであった。

 かくしてエジプトでは、アケメネス朝ペルシア第二代シャーのカンビュセス二世がエジプトの王(ファラオ)を兼任する第二十七王朝時代が始まったのであった。


 新バビロニア王国は、カルデア人が建国したためカルデア王国と呼ばれることもあった。そしてアケメネス朝ペルシア帝国侵攻直前、カルデア王国の政状は最悪であった。

 カルデア王国の最盛期を実現させた第二代国王ネブカドネザル二世の死後、カルデアの政情は安定せず、アメル・マルドゥク、ネリグリッサル、ラバシ・マルドゥクとわずか六年の間に王が次々と入れ替わっていったのだった。そして、ラバシ・マルドゥクを暗殺し王座を簒奪したのが、王家の血統ではないナボニドゥスという素性すらはっきりしない男であった。

 カルデア王国では、太陽神マルドゥクが国家神として信仰されていたのだが、ナボニドゥスは自身が信仰していた月神シンを最高神に据えた。このことが、王国民、特にバビロンの神官達の反感を買った。アケメネス朝ペルシアのキュロス二世は、この住民感情を巧みに利用し、バビロンへの無血入城に成功した。

 アケメネス朝ペルシア帝国は征服地における信仰の自由を認めていた。バビロンでは、カルデア王国の時代と変わらず、マルドゥク神の信仰が許された。

 太陽の雄の子牛を意味するマルドゥク神は、元々はバビロンの都市神だったのだが、後にカルデア王国の国家神にまでなった。マルドゥクは、優れた能力を誇るが故に傲慢な神でもあったのだが、その一方で、勇敢さと知恵を併せ持った神でもあった。マルドゥクは、太陽神にして農耕・豊穣神、英雄神、呪術神・治癒神でもあり、このように多面的な神格を有していたが故に、さまざまな方面からの信仰を受けていたのであった。ちなみに、マルドゥク神の随獣は蛇龍ムシュフシュで、その守護惑星は木星であった。

 アケメネス朝ペルシア帝国のカンビュセス二世によって征服されたエジプトの民の中には、奴隷としてペルシア帝国の各地に強制移住させられ、捕囚にされた者もいた。ピタゴラスはギリシア人だったのだが、神殿で研究に従事していたため旧カルデア王国領に連行され、バビロン都市内の神殿奴隷にされたのだった。

 バビロンのマルドゥク神殿の中心部には、<エ・テメン・アン・キ>という名の聖塔(ジッグラト)が聳え立っていた。エ・テメン・アン・キとは、<天と地の基礎>という意味である。

 エ・テメン・アン・キは、現代の度量衡で言うと、底面九十一メートル掛ける九十一メートル、高さ九十一メートルの七階層から成り、上層ほど床面積が小さくなってゆく先細り構造の建造物であった。

 バビロンでは、地球から遠い順に、土星、木星、火星、太陽、金曜、水星、月という順に天体が並列しているという天文学的な思想に基づいて、建物や都市は建造されており、エ・テメン・アン・キも、その第一階層は土星、第二階層は木星、第三階層は火星、第四階層は太陽、第五階層は金星、第六階層は水星、第七階層は月という七曜に対応していた。そして各階層には<神室>が、そして最上階には<神殿>が置かれていた。

 バビロン市内の神殿で、カルデア数学、音楽、あるいは天文学や占星術の基礎を学び、そこで学識を認められた者だけがエ・テメン・アン・キでの研究を許される。まず第一階層の<土星>の秘儀を修めた者が、第二階層の<木星>に進み、各階層の秘儀を修めると、さらなる上層に進んでゆく。そして第七階層の<月>を修めた者は、最上階に設置された<神殿>への入場が許される。そこでマルドゥク神殿・神官長に認められた者だけが、<恒星天>、<地球>、そして最終段階である<裏地球>の秘儀の修得が許されるのである。

 ピタゴラスは、バビロン都市内の神殿の神殿奴隷として雑務に従事していたのだが、その神殿の神官に知識の片鱗を見せ示すことによって、隷属的な身分から解放され、そこでカルデアの天文学・占星術の基礎を修めると、十年かけてエ・テメン・アン・キにて<土星>から<裏地球>までの十の<天体>が象徴するカルデア占星術の秘儀の全てを修得した。

 かくして、ピタゴラスは、カルデアにおいて<ヘルメス>の称号(占星術)までも継承するに至ったのである。


 そして、<魔術>と<占星術>、二つのヘルメスの称号を獲得したピタゴラスは、こう言ってよければ、「ディスメギストス(二重に偉大な)」、ヘルメス・ディスメギストスとなったのだった。

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