第24話 ナイル氾濫

 ナイル川の主流を形成しているのは、ハルツームで合流する二つの支流である。

 一つが「スッド」と呼ばれる大湖沼から流れ出す<白ナイル>で、そしてもう一つがエチオピア高原から流れ出ている<青ナイル>である。

 ナイル川の毎年の規則的な氾濫の原因は、エジプト暦における<シェムウ(収穫)>の後半期から<アケト(氾濫)>の前半期にかけて、青ナイルの源付近で発生する季節風(モンスーン)であった。この季節風が吹くとエチオピア高原に大雨が降り注ぎ、その雨のほとんどが青ナイルに流れ込み、その結果、増水した青ナイルがナイル川主流を氾濫させるのだ。

 氾濫の規模は毎年異なるため、ナイル川の水量を予測することはエジプト人にとっては重要事であった。そのため、知識階級である神官は<ナイル・メーター>を用いて、その年の氾濫の規模を予測していた。

 ナイル川とヘリオポリスの太陽神殿までの距離は徒歩で三時間なのだが、ナイル川と太陽神殿は地下トンネルで繋げられており、さらに神殿最下層から地下通路に螺旋階段付きの深い縦穴が掘られていた。その階段の数が目盛りの役割を果たし、階段の残り段数で水位が測れるようになっていた。かくして、ヘリオポリスの太陽神殿はナイル川から離れた場所に位置していながらも、ナイル川の水位の変化を知ることが可能だったのである。


「今年は例年よりも時期が早く、しかも水位も高いですね」

 そう太陽神殿の<ナイル・メーター>担当の神官達が語っていたことは、同じ神殿にいながらも、<研究奴隷>として書庫から出ることがほとんどなかったプラトンには知るべくもないことであった。

 エジプトの一般大衆もナイル川と共に生きる民衆の知恵として、岸辺からナイル川への下り階段を<ナイル・メーター>の代わりにしていた。その階段の段数が普段よりも減っていることにも、アテナイ人のプラトンは気付きようもなかったのである。


 海の民であるアテナイ人であるプラトンは、船の操舵に関する一通りの知識と技術を基礎教養の一つとして習得してはいたのだが、川で船を操るのは生まれて初めての体験であった。

 ヘリオポリスの太陽神殿からギザのネクロポリスに移動する際に、何度か目にしていた<ペレト(種蒔き)>と<シェムウ(収穫)>の時期のナイル川は雄大さを感じさせるものではあったのだが、ナイル川の流れそれ自体は実に緩やかで、船での移動に何ら困難さはないようにプラトンには思えていた。もちろん、<アケト(氾濫)>の時期のナイルの増水のことは知識としては知っていた。とは言えども、ヘリオポリスからナイル川河口の港町までは船に乗れば一日で到達が可能なのだ。狼星の日直後で<アケト>が始まった事は気掛かりではあるが、見たところ、ナイル川の流れは多少速く感じられる程度だし、この位ならば、船も<もつ>だろうとプラトンは判断したのである。

 しかし――

 刻一刻と時が刻まれてゆくにつれ、ナイル川の水位は次第次第に増してゆき、上流から下流へに行くにつれ、川の流れは急から激流に変じて、人為の及ばぬ自然の猛威にプラトンは為す術がなくなった。

 操舵の利かなくなったプラトンの乗る船は暗礁に乗り上げ、船は横転し、プラトンは川に投げ出されてしまったのだ。

 プラトンは必死で泳ごうとした。しかし激流のせいでそれも思うようにできず、そしてさらに、衣類は水を吸い込みアテナイ人を水底に沈めようとする。

 ほんの数瞬前まで自分が乗っていた船が木端微塵になる様子をプラトンは横目で捉えた。

 一瞬の諦念が脳裏を過った時、前方に浮かぶ木の板に必死でしがみついた。しかし同時に、その広い額に硬い固形物がぶつかってきて、プラトンの意識は遠のいた。

 消えゆく意識の中、この板だけは決して離すまいとプラトンは強く念じたのだった。


 意識を取り戻した時、プラトンは船底にいた。それがアテナイ行きの船であることを知らされた時――

 安堵したプラトンは再び意識を失い、深い眠りに陥ってしまったのだった。

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