第23話 狼星の日の逃亡

 払暁――

 普段ならば、東に面した窓から入り込んでくる光は黄金色なのだが、差し込んできた光輝は藍白かった。

 太陽神殿で、パピルスに神官文字(ヒエラティック)で書かれた文書に目を落としながら、「『エジプトはナイルの賜物』とはヘロドトスも巧く言ったものだな」とプラトンは考えていた。


 エジプトでは、国民のほとんどが農業に携わっており、それ故にエジプトの暦は農業と密接に関わり、ナイル川で規則的に起こる増水が暦の基準になっており、狼星が地平線に東現する日こそが一年の始まり、エジプト暦の元日であった。

 狼星は、太陽を除けば地球上から見える最明の恒星である。この天体が、あたかも太陽を率いるかのように東の地平線から昇り、太陽に先だって夜闇を切り裂く光こそが、ナイル川の氾濫の始まりを告げるのだ。これが「伴日出」あるいは「日出昇天」と呼ばれる現象で、この日を基準にして、エジプトの暦は作られ、洪水と洪水の間の三百六十五日の間が一年で、この一年の巡りは「狼星周期」と呼ばれていた。ちなみに、狼星が東空に輝くのは、後世の<グレゴリオ暦>で六月二十三日がそれに当たる。

 エジプトの神話では、狼星は豊穣の女神イシスの星であり、狼星イシスが落とす一粒の涙がナイル川の氾濫を引き起こすと考えられていたそうである。

 エジプトの一年は、そのナイル川の増水の時期に合わせて三つのの<季>に分けられていた。

 一年の最初の季は<アケト(洪水)>である。ちなみに、このアケトがエジプトの語源で、土地が水に沈む時期である。この時期に、メンフィス周辺で次第に水嵩が増して、やがてナイル川流域一帯が水面下に沈む。その氾濫期が四ヶ月ほど続いた後に、水が退き始めて水量も元に戻る。

 そして第二季が<ペレト(種まき)>で、十分に水を吸った新たな大地が現れ、畑を耕しそこに種をまく時期である。実際には、農耕作業は水か完全に引かないうちから始められ、かつ速やかに行われたそうである。何故ならば、水を含んだ軟らかい土地は夏の強い日差しのせいで、瞬く間に乾いて固くなってしまうからである。ペレトこそが農民にとって最も忙しい時期であり、その後、水を吸って豊かになった大地に蒔かれた種は、冬の穏やかな陽光を浴びて見事に成長する。

 最後の第三季が<シェムウ(収穫)>である。農民達は一族総出で、豊かに実った作物の刈り入れに励む。この収穫作業が、シェムウの季節の作業の大半を占めるのだが、少なくとも、新たな狼星が輝く<五デカン>以上前に作業が終わるのが常であった。この後、ナイル川の水位は最も低くなり、作物が刈り取られた後の耕地は干上がてしまう。そしてエジプトの農民達は次の<イシスの涙>を待ち焦がれるのだ。

 こうした一つ一つの<季>は四ヶ月から成り、一月は三十日、一季は百二十日から成り、季ごとに守護神がいた。

 一つの<月>は三つの<デカン>によって成り、月にはそれぞれ神々の名が付けられており、その十二神が順繰りで月の守護当番を務めていた。<デカン>とは週のことであり、十日が一デカン、そしてデカンごとにも三人の守護神がいた。ちなみに、デカンのうちの一日が休日にあてられていた。

 <日>は、太陽神の顕現、すなわち日出から日没までが<昼>、日没から次の日出までが<夜>であり、それぞれ<昼>と<夜>は十二等分、一日は二十四等分されていた。ちなみに、一時間ごとにも二十四人の守護神がいた。当然、季節ごとに昼夜の長さは変動し、一時間の長さもまた変化する。一般庶民は、日出・日入を基準とした自然の時間に従って行動していたのだが、神官に関しては、天文学的知識に基づいて正確な時間を計測していたという。

 エジプトの一年は三百六十五日から成っていたのだが、三つの<季>を合計しても三百六十日にしかならない。それ故に、年末に足りない五日間を足して一年は三百六十五日にされた。これらの五日間が<閏日>で、三つのいずれの<季>にも属しておらず、またどの<月>にも属さないため、<季>の守護神も<月>の守護神の加護もない日で、この五日間は「エパゴメノス」と呼ばれていた。エパゴメノスの間は守護神のいない危険な災いの日とも考えられていたのだが同時に、オシリス、ホルス、セト、イシス、ネフテュス五柱の神の誕生日として年末の祭日にもなっていたのである。


 エジプトはちょうど「エパゴメノス」の時期に入り、<研究奴隷>の研究・調査も五日間の休みに入っていた。エパゴメノスは神事であり、これはエジプト人のみならず外国人の奴隷にも適用されるものであった。プラトンは、この休みの期間を利用して、体力と精神力の許す限り神殿の蔵書を総確認をしようと決意し、太陽神殿の書庫に引き籠っていた。

 もうすぐ狼星の輝きをもってして新たな一年が始まる。

 エジプトがシェムウという収穫期にある時、<研究奴隷>の仕事は、実った農作物を刈り取るような集積された資料の筆写・整理であり、そうした作業は主としてヘリオポリスの太陽神殿で行われる。プラトンは、課された作業と同時並行させながら、太陽神殿の書庫に収められている蔵書の全てを暗記し終えていた。だがしかし、プラトンは、このエパゴメノスの五日間を利用して、暗記漏らしがないかどうかの確認作業に従事していたのだった。

 五日の休日の間、昼夜の別なく書物に目を落としていた。根を詰め過ぎたのか、さすがに瞼が重くなってきた。アケトの時期の調査・研究はギザ・ネクロポリスで為される予定になっていた。ピラミッドの調査は肉体を駆使しての作業になるので少しは休もう……と思った矢先であった。

 プラトンの周囲察知の明敏な感覚が、書庫に近付いてくる正体不明の気配を捉えたのだ。

 神官の気配ではない。神官ならば、どんなに忍び歩きをしても足音や衣擦れの音を完全に消すことなど不可能だ。

 この足音の仕方、これは隠密のそれである。ペルシアか、シケリアか、アテナイか、それともスパルタか? 何れの手の者かまでは分からない。しかし、名門貴族の出で、これまでの人生において何度か似たような経験をしてきたプラトンの明敏な感覚が<危険>を告げていた。

 誘拐か? それとも暗殺か? 睡魔に捕らわれつつあったプラトンの意識は完全に覚醒した。しかしプラトンは、疲労と眠気のせいで睡魔に襲われた振りをすることにした。

 机に突っ伏すプラトンの背後に闇から溶け出したかのような全身黒装束の一人の男がプラトンの口を布で塞ごうとした。

 その瞬間――

 プラトンは黒尽くめの男の背後に回り込み、その喉を裸締めして意識を刈り取った。

「まだまだ錆びついてはいないみたいだな」

 プラトンは独り言ちた。

 若かりし頃に鍛え上げたレスリングの技術を数十年ぶりに使ったプラトンであった。

 黒装束の男の手には、プラトンの足と書棚を繋ぐ鉄鎖の錠を解除する鍵が握られていた。

 プラトンは書庫内を自由に歩き回れる程度の長さの鎖によって、まるで鎖付図書のように、本棚とプラトンの足は結び付けられていたのだった。

 プラトンは黒装束の男から鍵を奪い取ると、自分の足から外した鎖を隠密の男の足に結び付けたのだった。


 ヘリオポリスの太陽神殿からナイル川まで徒歩で三時間ほどを要する。自由を再び手に入れたプラトンは払暁のヘリオポリスをわずか一時間で駆け抜けた。

 プラトンは、ピラミッドに刻まれた聖刻文字(ヒエログリフ)の暗記を終えたら時機を見て逃亡する計画であった。この点に関しては後ろ髪が引かれる思いも抱いているのだが、逃亡の好機などそう頻繁に訪れるものではない。

 ヘリオポリスから、地中海に面したナイル川河口の町まで、普通の徒歩移動で六日を要する。しかしこれは、適時休憩をとりながら昼にのみ移動した場合の日数である。昼夜を問わず走った場合、三日、いや二日での到着も可能であろう。

 しかし、プラトンはナイル川を下ることにした。徒歩や徒走では追手を振り切れない可能が高い。

 元日の夜明のナイルの岸辺に人気はなかった。

 岸から、数段、階段を下り降りたプラトンは、そこにあった船に飛び乗り、ナイル川に漕ぎ出でたのであった。

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