第13話 エジプトの奴隷
入室を知らせる鈍い扉の叩音の後に姿を現したのは、キュテーラ島の奴隷市場でプラトンを贖ったエジプト人の若者、否「御主人様」であった。
プラトンとそのエジプト人は顔と顔を見合わせた。しかし、どちらも声を掛ける時機を逸してしまったのか立ち竦んでしまい、その結果、場に気まずく重たい空気が漂った。だが先に沈黙を破ったのはプラトンであった。
「それで、私はエジプトで奴隷として何をさせられるのですか? 若き主人よ。ピラミッドのような巨大建造物を造るための<生産奴隷>ですか?」
プラトンの脳裏に、巨石を引き摺るエジプトの奴隷の過酷な労働の想念が再び蘇ってきた。
エジプト人の若者は、プラトンの言を聞いて、思考が停止したかのように目を点にした。しかしその数瞬後、腹を抱えて哄笑し出した。
「はははっ、あぁ、な、な、なるほど、ね。。そ、そ、外の方らしい話ですね、ははっは」
若者を笑いが止まらないようであったが、苦心しながら息を整え次のように続けた。
「たとえば、エジプトでは、暴虐で無慈悲なファラオの下、残虐なエジプト人が鎖で繋がれた奴隷を鞭打ってピラミッド建設のために死ぬまで働かせる。…………」
間を置いてから若者は続けた。
「というのは、完全な誤解です。よろしいですか、そもそもピラミッドとは、奴隷労働の結果でなく、エジプト全国民による労働の賜物なのです。我が国の大河ナイルは、毎年初めの<アケト>の季節に四ヶ月間のナイル川の増水期を迎えるのです。この時期にエジプトは農閑期に入るのですが、そうした農作業に従事できない時期に行う季節労働がピラミッド建設なのですよ。まあ、ピラミッド労働はファラオがエジプト国民に命じる労働であることに違いはないのですがね。しかしです。ピラミッド建設とは、強制労働というよりも、エジプトの国民が一致団結して参加する事業であって、ある意味、神聖なお祭りなのです。そ・れ・に・です」
若者はプラトンに片目を瞑ってみせた。
「ピラミッド建築に参加した場合、報酬として国からビールが配られるのですよ。だからみんな喜んでピラミッド造りに参加するわけなのです。『ビールがピラミッドを造った』と言っても、それは決して言い過ぎではないですね。そして、一日の仕事が終わるとみんなこう言うのですよ」
若者は右手で取っ手を握るような仕草をした。
「『この一杯のために生きているんだよなぁぁぁぁぁぁぁ!』ってね」
若者は、右手を口元にあてグイグイっと音を立てながら杯を飲み干す真似をして見せた。
今度はプラトンの目が点になる番だった。
「なんか喉が渇いてきましたね。とりあえずビールでも飲みながら話を続けましょうか」
若者が二拍手すると、家内奴隷らしき女性が、黄金色の液体がなみなみとがつがれた杯を二つ、部屋に運び込んできた。
アテナイにもビールはあるにはあるのだが、ギリシアは全体的に土地が痩せているため、麦の栽培には適しておらず、結果、ギリシアでは良質なビールは製造し難かった。そもそもの話、プラトンはビールという飲み物自体があまり好きではなく、したがって、初めて飲むエジプトのビールにプラトンは恐る恐る口を付けたのだった。
一口含んだ瞬間、強烈な酸味のせいでプラトンは噎せ返ってしまった。
「外の人には濃過ぎるかもしれませんね。水で薄めましょうか?」
若者は先ほどの女奴隷に水とハチミツ、そして果汁を持ってこさせた。
「水で薄めて、お好みでハチミツか果汁を混ぜるのもイケますよ」
そう言ったエジプトの若者はハチミツを入れて杯をよく混ぜた後で、容器に葦の管を差し込んでビールを吸い始めた。
ビールの摂取は水分やミネラルの補給、疲労回復にも役立ち、エジプト人にとってビールは不可欠な飲み物であった。エジプトの神話では、ビールを発見したのは男神オシリスで、女神イシスがビールを人間に与え、そして豊穣の女神であるハトホルがビール醸造の全過程を発明したと伝えられており、エジプト人にとってビールは日常的な意味のみならず、宗教的にも重要で、神殿儀式においてビールは神への供物として捧げられもしていたのである。
エジプトのビールに関する蘊蓄話にエジプトの奴隷話が続いた。
「だからぁぁぁぁ、巨大ピラミッドを建造させたファラオとはぁぁぁあ、奴隷をムチ打って使役する残虐な支配者っていうのは大いなる誤解なのですよぉぉぉぉぉ」
ほろ酔い気分になったエジプトの若者は、プラトンの背を強く何度も叩きながら続けた。
「しかしですね。奴隷に対して惨いことをしたファラオが皆無なわけでもありません」
若者は、葦を床に投げ捨てると、容器に口をつけ直接ビールを一口飲んで、舌を滑らかにした。
「たしか、今から千九百年ほど前、第六王朝の時代の話です。ペピ二世というファラオがいました。彼の王は六歳で即位し、百歳で亡くなって、その在位は九十四年、つまり、ペピ二世はエジプトでは長寿の代名詞になっているファラオなのですが、実は、このファラオを有名にしているのは次のような逸話なのです」
プラトンは水の割合を多めにしてビールを一口含んだ。
「ペピ二世は大のハエ嫌いだったのです。でも何故か、このファラオが食事をしようとするとハエが寄ってくる。で、ペピ二世が思いついたのは、奴隷の全身にハチミチを塗りたくるという方法でした。すると、ハエは甘い匂いに誘われてハチミツ塗れの奴隷の方に群がって、ペピ二世はハエに悩まされなかったそうです。以後、ハエ嫌いのペピ二世は宮殿の全ての部屋にハチミツ奴隷を立たせたそうです」
プラトンは感想を述べた。
「そんなハチミツみたいな甘い治世が九十年以上も続いたのか……。ハエもたかるが、何十年もの間、宮殿中でアリが大行進をしていたのでしょうね」
「さあ、アリに関してはなんとも。そこまでは文献には載っていませんでしたね」
「それでは、若主人、私はハエ除けのためにハチミツ塗れになって屋敷に立てばよいのですか?」
「鞭打って強制労働させるような非文明的なこともさせませんし、ハチミツ奴隷にもいたしません。そんなのハチミツを塗った紙を吊るしておけば事足ります」
エジプトの若者は、容器に水を注ぐとそれを一気に飲み干した。
「あなたには、あなたにしかできないことに使役させます」
若者の口調から先ほどまでの酔いに任せた軽口が消え去っていた。
「アテナイ人のあなたには、エジプトで<研究奴隷>をしてもらいます。ヘリオポリスの太陽神殿とギザの<ネクロポリス>で調査・研究に隷属してもらいます」
「しかしです。キュテーラ島には私以外にもギリシア人の、しかも私よりもイキのよい若者も大勢いたはずです。それにもかかわらず、何故に私がその<研究奴隷>として贖われたのですか? つまるところ、そこに合点がいなかいのですよ」
「神託が下ったのです。『地中海とエーゲ海の十字路で出会う全てが広い(プラテュス)アテナイ人が、我々の謎を解き明かす<鍵>になる』と。それがキュテーラ島で見出した広き者(プラトン)があなたなのですよ」
そう言ったエジプトの若者の口元に冷酷そうな笑いが一瞬張り付いたようにプラトンには見えたのであった。
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