第2章 ヘルメス・<ディス>メギストス

第14話 ヘルメス・トリスメギストス

 エジプト人の若き主人は、自国エジプトの神話についてギリシア人の奴隷プラトンに語り出した。 

「<クムヌ>で信仰されているエジプトの神話では……」

 古エジプト語で<クムヌ>と呼ばれた町は、ナイル川上流<上エジプト>に位置し、ここをギリシア人は<ヘルモポリス>と呼び、トート神を祀る<万能>神殿があった。そして、この神殿の所有財産は<下エジプト>のヘリオポリスの太陽神殿に次ぐエジプト第二位の規模だったという。

 そもそも、クムヌとは<八の町>を意味していた。<八>という数字は、この都市において八柱神(オグドアド)、すなわち、男女一対の神々、水の神たるヌンとナウネト、空気の神たるアメンとアマウネト、暗闇の神たるククとカウケト、無限空間の神たるフフとハウヘトが崇拝されていたことに由来している。その創世神話では、世界は最初、ヌンという原初の海で満たされ、そこに原初の丘が現れたことから始まり、その古き世界は、四対の神々たるオグドアドによって創造されたと言われている。そして日出が毎日繰り返され、ナイルの水が絶えないようにしたのもオグドアドであった。さらに太陽神ラーが誕生する睡蓮を作り出したのもこれら八柱の神々であった。その後、八柱の神々が眠りにつき旧世界が終焉を迎えた時に、新たな世界を創り出す役割を担った創造神こそがトートであった。

 トートは<言葉>によって新世界を創造したと言われている。したがって、エジプトの文字である聖刻文字(ヒエログリフ)を開発したのも、言葉を司る神トートであり、それ故にこそ、トートは書記の守護者にもなっているのだ。

 そして<魔術>とは、言葉によって世界に関与する術であり、それ故に、<言葉>の神であるトートは<魔術>にも精通していた。また、トートは病を癒す<呪文>をも熟知しており、医術の神としての側面も有していたのである。だからこそ、トート神は<魔術>に関する書物を書き記し、その四十二冊の『トートの書』には、この世のありとあらゆる魔術的<知>が収められていると伝えられている。

 さらに、トート神は、楽器を始めとする様々な事物の発明者であり、すなわち、トートは<知>を司る神であり、ピラミッドの建設方法を人間に伝えたのもトート神だと語られている。

 ちなみに、トートの聖獣はトキあるいはヒヒで、トート神はトキやヒヒの姿で人前に現れることもあったそうだ。

 ――そういったエジプト神話における<知>の神トートについて、エジプト人の若者は誇らしげに語ったのだった。


 若きエジプト人の話を聞きながらプラトンは思った。

「その<知>を司る神トートというのはギリシア神話における……だよな」

 ギリシア神話において、主神ゼウスは妻ヘラに気付かれないように夜中に抜け出してマイアに会いに行った。ゼウスは、こっそりとマイアに会いに行くことで<泥棒>の性質を、ヘラに隠し通すことによって<嘘>の性質が備わるような神を創造しようとしたのだった。そうして誕生したのが、ゼウスの<伝令使>で、オリンポス十二神の一柱たるヘルメスであった。

 この<伝令>という性質が、死者の魂を冥界に導く<魂の導者>としての性質、冥界から死者の魂を戻す<反魂者>の性質までもヘルメスに帯びさせたのだった。例えば、オルフェウスが、死んだ妻エウリュディケを連れ戻そうとした際に、冥界に同行したのが、まさしく神ヘルメスだったのだ。

 また、ヘルメスは<音楽>の神でもあり、アポロンの竪琴やパーンの葦笛を作ったのもヘルメスだったと言われている。

 そしてさらに、ヘルメスには<知>の神としての側面もあり、火の起こし方、数や文字、天文学、度量衡を発明したのもヘルメスだとされている。

 ちなみに、ヘルメスの聖鳥はトキあるいはオンドリで、その星は水星である。

 このように発明者であること、また聖鳥がトキであること、そして何よりも<知>を司る神であること、このようにエジプト神話のトート神とギリシア神話のヘルメスには共通点が多く、それ故に、ギリシア人は、エジプトの神話のトート神とギリシア神話におけるヘルメスを同一視する傾向があり、プラトンもその一人であった。


 そして、西はエジプト、メソポタミアを経由し、東はペルシアにまで至るオリエント、その歴史の中に、エジプト神話のトート神、そしてギリシア神話のヘルメスの<知>を司る神としての性質を受け継いだかのような<ヘルメス>という名の人物が登場する。

 しかも三人も――

 第一のヘルメスは、天文学や<占星術>に精通していた。

 第二のヘルメスは、化学や<錬成術>に精通していた。

 第三のヘルメスは、医学や<神働術>に精通していた。神働術とは、祈りによって神に働きかける術のことで、こう言ってよければ、言葉によって自然に働きかける力、<魔術>のことである。

 これら占星術・錬成術・魔術こそが「全世界の叡智の三部門」であり、ギリシア神話の神ヘルメスと同じ名を持つ三者は、それぞれ一部門を専門的に研究していたと伝えられている。

 やがて、三人のヘルメスの叡智を合わせ持った者の存在が噂されるようになった。その伝説上の人物こそが<ヘルメス・トリスメギストス(三重に偉大なヘルメス)>である。

 しかし、この「トリスメギストス(三重に偉大な)」は、三部門が合わさった<三倍>という意味ではなく、そもそも叡智の三部門に精通していたことを意味すると考える者もいた。すなわち、ヘルメス・トリスメギストスという一人の賢者がいて、その人物の研究が後に三つに分けられれ、その一つ一つを三人の<ヘルメス>が受け継いだと語られているのだ。

 後者の伝承における、たった一人の賢者ヘルメス・トリスメギストスは、ソクラテス・プラトンの時代から遡ること千二百から千三百年前、エジプトの第二中間期・第十五王朝時代に現れたとされている。

 第十五王朝は、ヒクソスによって建てられた王朝である。

 ヒクソスとは、異国の支配者達を意味するエジプト語なのだが、ヒクソスがどのような起源を持ち、いかに形成されたかについては謎のままである。

 しかし確実なことは、東方より疾風の如く来襲した異民族が、戦車や複合弓といった新兵器を使用してエジプトを蹂躙、そして王朝を建設し、六代・百八年に渡ってエジプトを支配したという歴史的事実だけである。

 かくして、エジプト全土が麻のように乱れたこの時代に、<発明>の神ヘルメスの性質を継承したかのようなヘルメス・トリスメギストスという一人の賢者が登場し、彼こそが、新兵器をヒクソスの為に発明したと言われている。

 そして、ヘルメス・トリスメギストスの叡智とは、新兵器の発明のみに留まらない。この伝説上の賢者の叡智の精髄が書き刻まれた碑文こそが、<エメラルド・タブレット>だと幾つかの文献に記されている。


 ―― 師ソクラテスの遺言に従って、ヘルメス・トリスメギストスのエメラルド・タブレットについて、プラトンはある程度のことは調べていたのである。

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