シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』冨原眞弓訳

 この記事を読んでいるということはWikipedia『シモーヌ・ヴェイユ(哲学者)』のページに目を通すぐらいのことはしていると思うので、同記事の記述と『重力と恩寵』の記述を前提として記事を書く。もし良かったら双方を開いてこのテキストを読解してみて欲しい……。


 シモーヌ・ヴェイユとはユダヤ人であり、また両親は不可知論の視点から自身の子にはユダヤ的なものから遠ざけて教育をした。

成長していく毎にシモーヌ・ヴェイユは病苦に見舞われ、頭痛(私自身偏頭痛持ちなので、この苦しさを思うと同じように辛くなる)を含む多数の苦しみに晒され続けている。

その上で彼女の思想、或いは『重力と恩寵』という書物それ自体を端的に表すならばそれは”個人の屈従”であり、屈従するという意味ではロシア人的に見えるが、ロシア人は絶対的に”個人”たり得ず、また西側の世界における人々は”個人”たり得ることは出来ても”屈従”することは出来ないため、この書物に通底するテーゼは一般的な市民には実現不可能に近いものとなる。


 もし仮に、これに近いものを出すとすれば、それは小乗仏教における苦行僧、托鉢僧のような、社会から離脱した宗教者であり、そういう意味でシモーヌ・ヴェイユ個人が社会に求め得る回答とは仏教寺社における”出家”だったように感じ取られる。実際のところカトリック教会には修道院があり、様々な事情からシスターとなる人々が居るため、本来であればそのような場所に収まればよかったのではないかと感じられるが、彼女の生まれはフランス・パリであり、その後も共和政下のスペインにおける無政府主義者であったり、ニューヨークやロンドンのようにカトリシズムと距離のある場所を巡ることになったのは、ある意味では宿命的だがある意味では非常に不幸であったと言える。


 ロシアの思想家ニコライ・ベルジャーエフは神を感知し得る民族としてユダヤ人とロシア人という二種類の類型を挙げ、双方に異なるメシアニズムを抱いたという話をどこかの書物でしていたが、シモーヌ・ヴェイユの宗教思想はまさしくそのユダヤ的メシアニズムに通底する部分があり、また”屈従”という要素だけで捉えれば非常にロシア的だと言える。

ロシア思想の根底にあるのはロシアの風土それ自体の厳しさであり、ロシア人たちはこの自然の驚異に晒され、死を予期する場面に遭遇することが多く、常に原罪感に苛まれ(それ故に『罪と罰』は彼らの精神に強く根差す)彼らは宗教的な回答を求め続ける宿命に置かれている。

それに対しシモーヌ・ヴェイユの思想というのは”個人”と”屈従”を結んだものであるため、ロシア人たちは共通の原罪感(=今苛まれていることの元凶)を求めるが故に人間の同質性(=リーチノスチ)を志向するが、シモーヌ・ヴェイユは個人として不幸(それは頭痛や戦争、病苦や劣等感)に屈従する姿勢を取る。そのため、屈従のみをとればロシア的だが、個人を取れば思想的には非ロシア的となる。

逆に”個人”を例にとった場合、一般的な西側欧州人とは個人として成立する近代哲学の理念をひいており、個人単位での活動・思想を実行するが、反面これは”抵抗”や、シモーヌ・ヴェイユが阿片だと言った”革命”に繋がるため、屈従とは距離が保たれる。

そのため、”個人”とは非常に西側欧州的でありながら、”屈従”をとった場合、途端にこれは非西側欧州的な思考方法となる。


 真にクリスチャニズム(それはアブラハムの宗教全般に通底する)を徹底する場合には、これは清貧(※1)の立場を取ることとなり、またこれはドストエフスキー『白痴』にあるように、知性においても劣る人こそが清貧、窮極の持たざる者であり、キリスト教の原理に則った理想的な信者だ(※2)と言うことになる。

そうした時にシモーヌ・ヴェイユとは紛うことなき知識人であり、教養人であったため、信仰それ自体と知性という矛盾した要素を内包することとなる。この相克に対し彼女はこのように回答する。


自身のおこなった悪の反動としての苦しみがある。償いの苦しみ。われわれが欲する純粋な善の影としての苦しみがある。贖いの苦しみ。必然の分別なき戯れとむすびつく苦しみもある。償いの苦しみと贖いの苦しみもまた、この偶然の分別なき戯れによってもたらされる。偶然性こそが苦しみの還元できぬ特性の一部をなすからだ。

~シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』133P 15 悪~


知の源泉たる苦しみと享楽。蛇はアダムとエヴァに知識を差しだした。セイレーンはオデュッセウスに知識を差しだした。これらの物語は、快楽のうちに知識を求める魂は滅ぶことを教える。なぜか。快楽におそらく罪はない。そこに知識を求めないならばという条件つきで。一方、苦しみのうちになら知識を求めても許される。

~シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』151P 16 不幸~


 ここに面白い類似がある。アナキズムの理論家として知られるロシア人ミハイル・バクーニンは『神と国家』において、旧約聖書のアダムとイヴを誘惑した蛇を「人類史上最初の自由主義者」であると主張している。つまり、知性と清貧からの逸脱とを同一視し、またスペイン内戦の経験から、自由と個人を称揚しながら他方における暴力に鈍感な無政府主義者に対する反発は、既にこの理論の上で展開されたものだと考えることが出来るのだ。……バクーニンはこの理論から悪魔と同一視される蛇を称揚し、ある意味で露悪的な、無政府主義者を悪魔と同一視する論法を取るのに対し、シモーヌ・ヴェイユは「苦しみの中にのみ知識を求めても許される」と言う。しかし実際にはこれは”相当苦しい言い訳”であり、知識を得た後にポルトガルにおいてキリスト教に遭遇した彼女が現状の矛盾に対して何とか解答を出そうとした結果の結論ではないか? と感じられる。

つまり、キリスト教的な救済でさえ、その救済を真剣に求めれば求めるほど、彼女は知性を活かし、その”知性”自体が救済を遠ざけるものであると認識せざるを得ない状態となる。彼女が『重力と恩寵』においてヤハウェを弾劾するのは、そうした感情から発せられたものであろう。


 ヤハウェ、中世の教会、ヒトラー、これらは地上的な神々である。彼らのおこなう浄化は想像上のものにすぎない。

 現代の誤謬は超自然的なものを欠くキリスト教に由来する。世俗主義がその原因であるが、まずは人文主義を嚆矢とする。

~シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』143P 15 悪~


この記述からも、知性の基礎となる人文主義、人文主義の基礎となる世俗主義に対する攻撃が見える。彼女の思考方法はデカルト的(それは個人が前提にあるからだろう)と言われているが、デカルト的な近代哲学理論は彼女に内面化されていると同時に、侮蔑の対象ともなっているのではないだろうか?

またヒトラーを地上的な神々であるとし、世俗主義と結びつけているのは面白い指摘であるように思われる。エンツォ・トラヴェルソの書籍において、ファシズムの指導者やその支配体系とは世俗化した市民宗教であるという指摘が存在するからだ。


 彼女の異端性とは知性に端を発するが、同時に彼女の思考方法の基礎と言えるのは不可知論に並んで”二元論”が存在すると言わざるを得ない。

彼女がグノーシス主義から影響を受けたとされるのはその二元論的思考方法からであり、常に相対的・対比的存在をおいて、それ~の反対を思考する方法は正しくグノーシス主義的な思考方法だが、クリスチャニズムを内包する論者がグノーシス主義に走り現世の穢れを認識する光景は……その……他人事とは思えない。かく言う私自身がキリスト教的な思考方法を肯定出来ないが故にグノーシス主義的な反語世界観に入ったため、この部分については言及し難い痛々しさがあると、半ば告白するように説明しなければならないだろう……。


 思想家で言うとアルベール・カミュが彼女の、シモーヌ・ヴェイユのテキストに強い影響を受けたとされているが、アルベール・カミュの思想とは”個人の抵抗”であるため、止揚されているようで、シモーヌ・ヴェイユの神学的思考が捨象されているようにも思われる。ただ、彼女のこの思考方法を引用しながら、コミュニストであり冷戦期には毛沢東主義に接近したサルトルとカミュが対立し、議論を交わしたその中身は、シモーヌ・ヴェイユが革命主義者であるレフ・トロツキーと交わした議論に非常に似通っており、個人を所在地に置くヴェイユ=カミュに対し、集団と革命を所在地に置くトロツキー=サルトルの類似を指摘することが可能である。


 ――と、長々と論説を述べてみたが、総体としての彼女の書物『重力と恩寵』について個人的な感想を述べるのであれば

「あなたはそれでいいかもしれないが、全人類があなたのようだと文明は成立しないじゃありませんか」

というもので、これは仏教における解脱と輪廻転生にも同一のことが言える。他でもない仏教思想が意外にも破壊的で、ニヒリズムにも引用されるように、輪廻転生・解脱の論理を前提とするが故に実存、現実の対象への破壊を制止しないのにも良く似ており、仏教思想はそれ故に現実を破壊するが、”個人の屈従”であるシモーヌ・ヴェイユの場合、自己(=彼女の現実)破壊に結実した。

とは言え、確かに彼女の思想は誠実であり、晩年の拒食症でさえ彼女の誠実な思考の表れのようにも思え、仏教思想が生を称揚し、アヒンサー(非暴力)を唱えることを知って欲しかったと感じる……が、彼女は彼女の理念を徹底した末に早逝したのだから、こうした願望も彼女の人生の冒涜になりかねないであろう。


書物としての『重力と恩寵』とは、思想書というよりは聖書の記述に近い詩的な箴言集であり、意味合いを程々に受け取って、後は山尾悠子の小説のように、テキストそれ自体のテンポを楽しみ読むのがもっとも良い受容の仕方ではないか? と感じる。



死せるオレステスを悼んで泣くエレクトラ。われわれが神は実存しないと考え、なおかつ神を愛するならば、神はその実存を現わすだろう。

~シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』38P 4 執着を断つ~



※1:清貧の思想を表す典型的な作品事例として『フランダースの犬』がある)

※2:マタイの福音書19:23~30

そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

そのとき、ペテロはイエスに言った。

「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」

そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座について、イスラエルの十二の部族を治めます。」

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。

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