『洞窟物語』論:セカイ系のナショナリティ

 洞窟物語というゲームがある。

意図的にレトロ風に構築された2Dアクションゲームであり、全編が美麗なドット絵とチープな音源によって作成されたフリーゲームでありながら多数のやり込み要素を内包しており、非常にやりごたえのある作品……明らかにそのクオリティはフリーで遊べる次元を越えており、現在は任天堂ハードを中心に複数の移植がなされている。


 もっとも、今回のテキストで記述するのはゲーム『洞窟物語』のプレイアビリティや演出の美しさ……のような、ゲームオタクのような話ではなく(そんな記事は無限にネット空間に存在するだろう)あくまでその世界観についてである。

Wikipediaにある記述をそのまま引用してしまうと


暗い洞窟の中で突如覚醒した主人公。古ぼけた銃を手にし迷ううち、「ミミガー」と呼ばれる種族の村にたどり着く。村は「ドクター」と呼ばれる人間と、その配下の脅威にさらされ、ミミガーたちが次々と拉致されていた。そんな中、主人公の前へ、ミミガーの「スー」を探してドクターの配下が現れる。そして、「スー」と間違え「トロ子」を連行していった。

主人公は、スーがかくまわれていたという「アーサーの家」へとたどり着く。そこには「転送装置」があった。主人公は、転送装置による冒険を続け、スーの兄「カズマ」や「ブースター博士」と出会う。彼らによれば「ドクター」は戦争を始めるために赤い花を集めているという。ドクターとは何者なのか、そしてさらわれたミミガーは何処へいったのか。主人公は脱出手段を、そして失われた己の記憶を求めて、洞窟をさまよう。


 となっている。

 一般的にオタク的な人々はネタバレを忌避する傾向にあるが、このテキストは批評であるため、ストーリーそれ自体に踏み込んで解説してしまうと……この洞窟とは実際には宙に浮かんでいるもので、これは通称として

この”島”にはボロスという名の魔術師が封じ込められており、またミミガーと呼ばれる原住民が生息している。

地上のいくつかの国家がこの島を探索するためのロボットを大量に派遣するが、このロボットが原住民であるミミガーらを虐殺したため、ミミガーらは赤い花と呼ばれる、彼らにとっての麻薬のようなものを摂取し対抗。このロボットたちは全滅する。

そこで再度、主人公であるロボットと、もう一体のロボットが”島”探索のために派遣されるが、彼らも”島”の奥地で敗北し、意識を失う……派遣から十年後、主人公のロボットが洞窟の奥で目を覚ますところからゲームはスタートする。


 この”島”というのが構造として非常に面白く、外から見るとこれは一種の『要塞』のように見え、内部には洞窟を含む多数の要害を内包しており、主人公はこの島の中に居る主人公らを害するモンスターと戦い、後半になると空中浮遊機能を手に入れ、敵との戦いに挑む。

つまり、洞窟物語とは実際には”島”物語であり、”島”内部に存在する洞窟を攻略し、最後には”島”それ自体の周縁部を通って、”島”が実際には空中に浮遊するものであることをプレーヤーに理解させる。

最初はただの洞窟から操作を始めるため、プレーヤーはこの主人公が探索する空間を地下だと考えるのが自然であるが、実際にはこの洞窟は”島”の内部であり、内部の要害と、そこに住むモンスターや原住民と戦闘を行うことになる。

原住民ミミガーは本来温厚で会話も成立する生き物であるが、先述した”赤い花”を摂取すると凶暴化し、摂取したら最後には死んでしまうとされている。


 この『洞窟物語』のストーリー設定の面白みはやはり、洞窟という地底にあるとイメージされる空間が、実際には宙に浮いた”島”と呼ばれる一種要塞的な空間であり、ファンシーな原住民(ミミガー)や、その他モンスターもファンシーな見た目をしている(とくに序盤は)ことが多いのに対し、ストーリーそれ自体は陰惨で、ギャップがある。洞窟の実態としての”島”、ファンシーなビジュアルに対する”陰惨なストーリー”はそれぞれが対比的である。


 別の作品の話をする。

いわゆるセカイ系と呼ばれ、ゼロ年代コンテンツを代表する作家として知られる上遠野浩平が書いたライトノベルにナイトウォッチ三部作と呼ばれるものがある。

これは

『ぼくらは虚空に夜を視る』

『わたしは虚夢を月に聴く』

『あなたは虚人と星に舞う』

の、共通した世界観を持つ三つの作品の総称である。

ナイトウォッチ三部作に共通するストーリーはどのようなものかと言えば、各作品で登場する日常世界(それは我々が生きている世界と大差ないものである)が実際には仮想空間であり、現実に該当するのは宇宙空間を漂う船である……という風に、日常世界と非日常世界を逆転させた構図を持つ。実際に我々が日常と定義する世界を非日常とし、SF的な非日常(戦闘空間)を日常とする形で逆転させている。

ではこのシミュレートされた日常空間は何のために存在するのかと言えば、戦闘空間において戦闘を展開するパイロットたちが発狂しないように作られたものである……とされている。実際にはこのパイロットたちは”ナイトウォッチ”と呼ばれる戦闘機に乗り、人類の天敵とされている”虚空牙”と戦闘を行っている。


 何故、洞窟物語とナイトウォッチ三部作のストーリーを解説したのかと言えば、この二つの作品には共通点が存在するからだ。

つまり、洞窟物語においては洞窟が実際には宙に浮いた島であり、ナイトウォッチ三部作においては日常空間が実際には宇宙空間に浮いた船である。

洞窟物語における主人公たちはロボットであり、先に派遣されたロボットたちとは区別される。先に派遣されたロボットは”キラーロボット”と呼称され、ミミガーたちを虐殺している。

それに対し、ナイトウォッチ三部作における虚空牙は人類の天敵であり、仮想空間としての日常世界に入り込んでまでパイロットたちを殺害しようと試みる。

この二作品の共通点として敢えて等式化すれば、キラーロボット=虚空牙である。

そして、ナイトウォッチ三部作における人類とは、実際には宇宙空間に浮かぶ船に内蔵された受精卵であり、播種船(Embryo space colonization)であり、これを防衛するために人類は一騎当千のパイロットに戦闘を託している。

洞窟物語におけるミミガーたちは、摂取すれば死亡するという”赤い花”を摂取した上で尚、キラーロボットたちに対抗している。

これらの要素を三つに分解してみよう。


1:島的空間

@洞窟物語

”島”

@ナイトウォッチ三部作

播種船(Embryo space colonization)


2:侵略者の存在

@洞窟物語

キラーロボット及びロボット

@ナイトウォッチ三部作

虚空牙


3:非人道的な抵抗

@洞窟物語

ミミガーと赤い花

@ナイトウォッチ三部作

ナイトウォッチとパイロットのために生み出された日常空間


があり、これら三つの要素は日本人が抱くナショナリティの神話に還元することが可能である。

日本国家とは島国であり、島とは海をもって外部と隔絶した一種の閉鎖空間である。

これが例えばロシアやドイツ、或いは中国のように、多数の国家と国境において隣接する国家の場合、言語を異とする他者は同じ地平に存在していて、自然な形で浸透し存在し得るのに対し、島国の場合は海を隔てているため、大陸国家の人々とは”他者”に対する感度、思考方法が異なる。

無論、かつてのソビエト連邦や今の中華人民共和国のように、社会体制上の観点から擬似的な島的空間を構築することはあれど、原則をもって大陸国家にとっての他者とは前提として”同一地平線上の存在”であり、他方島国人にとっては”海を隔てた存在”である。

 昨今何かと話題が出がちなロシアの右派論客アレクサンドル・ドゥーギンは

「地政学とはたんに国家政策を規定するのみならず、国民の思考方法を規定するものであり、ランドパワー(大陸国家)の国民はランドパワーの、シーパワー(海洋国家)の国民はシーパワーの思考方法を取る」

と述べているが、風土的に言っても島国と大陸国によってかなり異なる部分が生じるであろうし、ナショナリティの源泉を風土性に求めるというのは右派の立場として全く不自然ではないと考えられる。

そうした観点から作品を鑑賞した場合、これは作品それ自体にナショナリティ=風土性=地政学的立場を見出すことが可能であり、現実にグローバルな評価を得ているそれぞれの作品が、実際にはナショナリティの神話を纏った国家主義的産物であると思考することが出来る。

 また同時に、フランスにおける極右と称される思想家アラン・ド・ブノワは

「人権とは実際には英米が規定した人権概念であり、普遍的概念でもないにも関わらず、これらは普遍的なものとして流通している」

とし、普遍主義を否定するナショナリズムを展開している。


 話を戻そう。

 先に出た要素。即ち

「島的空間」

「侵略者」

「非人道的抵抗」

という概念はそれぞれ、日本国家とそれに纏わる歴史に物語を還元することが出来る。それは例えば元寇かもしれないし、或いは第二次世界大戦かもしれない。

洞窟物語における”赤い花”を神風特攻のメタファーと捉えることも可能になり、また他方ナイトウォッチとは零式艦上戦闘機であると考えることができる。

島的空間を、外部から隔絶され、外部の存在を確かに視認しながらも、一つの共同体として”浮遊”している空間と捉えた場合、それは例えば『宇宙戦艦ヤマト』におけるヤマトや『機動戦士ガンダム』におけるホワイトベース、『伝説巨神イデオン』におけるソロ・シップ、『無限のリヴァイアス』におけるリヴァイアスをそれぞれ”島的空間”として定義することが出来るであろうし、そう考えた時にまた『新世紀エヴァンゲリオン』は、日本を舞台に侵略者(使徒)を非人道的兵器(エヴァ)によって迎撃するナショナリティの物語であると還元することができる。


 また、セカイ系と称される物語の類型についても言及が可能となるであろう。

Wikipediaにおける記述を引用するならば


「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。

(中略)

つまりこの時期にはセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。


とあるが、つまり少年少女の閉じられた関係性から、社会領域をすっ飛ばして、世界それ自体の存亡に結びつく一種の世界観を総称として”セカイ系”と言い表している。

しかし、先に述べたように島国の人々にとって他者とは”海を隔てた存在”であり、島の内部と外部によって世界それ自体を解釈する……ということはつまり、少年少女の閉じられた関係性それ自体を”島”に還元すれば、少年少女の世界の破綻=島国の破綻であり、これは容易にナショナリティに還元され得る。


 このテキストの目的とは、グローバルに評価を得、戦後民主主義を前提として発展してきた日本のアニメコンテンツが、他でもない日本国家のナショナリティからの逃亡をなすことなく、寧ろを明らかにすることであった。

それは同時に、戦後民主主義的論壇における”非日本的言説”や、日本国家のナショナリティを積極的に否定し、英仏普遍主義的な観点から作品批評を行うことの限界をも指摘し得るものである。

実際には、戦後民主主義と呼ばれる一連の思想体系でさえ、戦前の皇国教育の裏返しであり、これがキリスト教・一神教に対する共産主義のアプローチと同じ構図を取ることによって、共産主義が一神教の思考方法を内包したのと同様に、であり、ことの証明でもある。


 もし仮に、普遍的な思想(それは実態として英米と、それに追随する欧州人たちの思想である)を奉じ、そうした観点から作品を構築するのであれば、まず最初に自らに介在するナショナルな思考方法(それは地政学的なものかもしれないし、風土的なものかもしれない)からの脱却を図るべきであろうが、それらは実態としてはドン・キホーテ的な、無謀な試みとなるのではないか? と考察する。

その困難さは、ナショナリティを脱臭されたように見える一連のコンテンツに内在するナショナリティからしてみても、明らかであろう。

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