プロパガンダとしての『天気の子』

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このテキストは新海誠作品『天気の子』公開直後に書かれたものであり、その後の新型コロナの流行等の問題が起こる以前のものとなります。

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 「天気の子」という作品を単純なエンターテイメントとして見る人の方が多数派だろうことは明白である。しかし、表現物がどのような効果を起こすことを期待して作られるか。また自分達がそれをどうリバース・エンジニアリングをするかと考える人間にとって、そこでの停止は危険だろうと思われる。


 主人公・帆高は色々な過程を経た後に拳銃を手にしている。そのために彼は警察に追われる身となり、また同時にヒロインも児童保護施設への入居を(精神的理由から)拒否している


(児童保護施設入居の精神的理由による拒否、第一ターニングポイント)


そう。つまり100%の晴れ女ことヒロイン「陽菜」は人柱的な、晴れを呼び起こす代わりに代償を支払うことが運命づけられていた少女であった。既に少女の身体は透明になりつつあり、人柱として天空へと捧げられることが暗示され、そしてとうとう主人公の前から姿を消す。

ヒロイン「陽菜」が天上へと連れ去られた後、東京はかつての夏そのもののような晴れになり、前日までの雨で土地が冠水してこそいるものの、陽菜の居ない晴れた東京で、主人公は警察に逮捕される。

しかし主人公はこう考える。つまり

「陽菜のためならば、雨が降り続けたって構わない。僕は陽菜を取り返しに行く」

陽菜が100%の晴れ女の能力を得たキッカケとなった、代々木の廃ビル屋上にある小さな神社の鳥居に向かうため、主人公は警察署から逃げ出し、警察官達の妨害や大人たちの協力を得ながら、新宿駅大ガード上の線路を走る。

線路上では連日降り続いた雨のために線路の点検が行われており、線路上を走る主人公を見た整備士たちは

「危ないぞ!」

と主人公に言い、大ガード上では主人公を目撃した人々が写真を撮ってそれらを茶化す。しかし主人公は、雨の上がった、晴れた東京の線路上を走り、光り輝くその場所へ向かい走る。


(二つ目のターニングポイント。)

「危ないぞ」

と言う人々、それを無視して光の元へと走る主人公、それを茶化す人々。


主人公は鳥居から陽菜の居る天上へと向かい

「世界がどうなろうとも僕は陽菜を取る!」

と高らかに宣言。陽菜は現世へと戻り、そして雨は再度降り始める。

そうして三年、雨は降り続き『東京は水没する』。主人公は保護観察処分となり、自身の出身地で高校を卒業し、また再度大学へ行くために東京を訪れる。


ここで、非常に……非常に不可解なワンシーンが挿入されることとなる。


かつて主人公たちは”晴れ女”の能力でもって晴れを呼び起こす仕事をしていたのだが、そこに一件だけ「晴れ」をまた呼び起こして欲しいと言う老人からの依頼が入っていることに気がつく。

この老人は主人公たちが活動していた頃にも依頼をしていて、その時は

「炊いた線香の煙を渡って彼岸から人が帰ってくるんだ」

と語っていた。その老人である。

その老人に対して主人公は

「晴れ女の仕事はやめたんです」

と言い、老人はこう返す。

「東京って言っても、200年前はこういう風に入り江になっていて、それを街にした。それがもとに戻っただけ」

と語り出す。

(この作品最大のターニングポイントである)

その老人との会話の途中、水没した東京では遊覧船のようなもので通勤が行われている描写がなされ、その後に主人公はヒロインである陽菜と出会い、東京は水没したものの、僕らの愛はこれからだ。END


これが「天気の子」である。



さて、この作品について私は

であると表現したいのだが、その理由について説明しよう。

東京という都市、そこに降り続ける雨。

と老人が語る中、雨は降り止まない。この雨とは一体何なのか?

この雨とは「経済的不況」の暗喩である。本来はそうではないはずなのに、不幸なそれが続いている。上京してきた青年も、雨の降り続ける東京で苦難を味わう。暗くどんよりとした東京。

その中で出会う少女「陽菜」は雨(経済的不況)を局地的・一部だけ晴れ(好景気)にすることが出来る。これは日本政府の経済政策の暗喩である。雨という不景気に対し、一時的に力を行使することが出来る。

ところがこの力には代償が伴う。ヒロインが死ぬか、或いは雨が降り続くかの二択を迫られるのだ(雨を不況の暗喩とした場合、これは理不尽極まりない二択となる。晴れで犠牲になるものとはなんだ? 政府か? 政府の資金か? それは二択として不成立なのではないか???)

そうして、主観者である主人公・帆高は雨の中でヒロインと生きていく(自由恋愛を選び不況を甘受する)かヒロインを死なせて晴れを呼び込むか(自由恋愛を犠牲にする代わりに経済を蘇らせるか)の二者択一から、前者を選ぶ。選んでしまう。

この二択は甚だしく理不尽な二択である。つまり、自由主義やリベラリズムの代償として不景気(雨)が存在しているということを暗示し、自由のためならば衰退することも甘受せよと言うのだ。

そして、一時的に晴れた(日本政府の暗喩たるヒロインの力で)東京で、周りから「危ないぞ」「なんだあいつおかしいんじゃねえの」と言われながら、新宿から国立競技場のある千駄ヶ谷方面へ向かい走っていく。このシーンを見た瞬間に私は考えたのは

「聖火ランナーの暗喩ではないか」

ということである。


そして、老人が口にするのである。

「昔に戻っただけ」

その風景では、船による通勤が試みられている。


老人が「昔に戻っただけ」と語り、東京の水没(日本全体の衰退の暗喩)を甘受し、そしてその原因とはなんと、主観者であり国民を暗喩する主人公が自由恋愛を選択したから、ということになる。

そう。この物語最大の問題点にしてターニングポイントとは、この老人の語り口なのである。

かつて晴れを求め、その意味を解説したはずの老人が突如

「昔に戻っただけ」

と居直りとも取れる開き直りを展開するのだ。しかし、そこで生きる若者たちは?

つまり、老人には

「昔に戻っただけ」

と言わせ、若者には

「自由恋愛を選んだんだろう?」

と、裏にある醜い二択をさも美しい物語であるかのように描いているのである。

さてここで奇妙な事実が存在するのだが

「天気の子」

の企画・プロデュースを行った川村元気とは

『東京2020 開会式・閉会式 4式典総合プランニングチーム(計8人)のメンバーの一人』

なのである。


東京オリンピックの関係者が企画・プロデュースした映画内において

「国家のセーフティネットを自主的に拒絶するシーン」

「国民に衰退を甘受させることを暗示する描写」

「若者には自由という果実を”与えたフリ”をする」

これをプロパガンダと言わずして何と呼べば良いのであろうか?


この作品にはまだ問題がある。神がかり的な力に依存し、それによって幸福が訪れるという描写がなされる。これは国家神道における神風を暗示するものと考えられるわけだが、神風特攻した人柱に対する回答とは

「現代的・西洋的ヒューマニズム・リベラリズムの観点から愛の一言で救済されること」

なのだ。

端的に言えばこれは神風特攻で死んでいった人々に対する冒涜である。

「諸君らは不幸だった、愛されるべきだった」

とでも言うつもりであろうか?

冗談にしてもタチが悪い。悪すぎる!


筆者による「天気の子」感想まとめ

・雨は不景気の暗喩

・それを一時的に和らげるヒロインは日本政府の暗喩

・国民を暗喩する主人公はヒロインを選ぶ代わりに雨を降らせることを選ぶ(不景気を甘受する代わりに自由恋愛を謳歌する)


……かつて。

かつて国家が自身に有利に作用するように映像作品を作り、そこに天才が加わることで恐ろしく強烈なプロパガンダとなった事例がある。

ナチス・ドイツ。

レニ・リーフェンシュタール監督作品「意志の勝利」である。

おめでとう。我々が愛し続けたサブカルチャーはとうとうプロパガンダの一手段として使用されるようになるに至った。

喜ばしい!

これからもアニメ産業は発展し続けるだろう!

新海誠と川村元気はグロテスクな結婚をした!

これは門出である!

おめでとう。おめでとう!


一つここでズルを言っておくが、私にはそうとしか見えなかった、というのが世間的に自明でそう見えて然るべきであるという話ではなく、一言でいえば


どの本にもなんらかの形でプロパガンダがひそんでおり、どの芸術作品にも意味と目的——政治的・社会的・宗教的目的——があり、しかも、われわれの審美的判断は、いつもわれわれの偏見や信条によってゆがめられています。

ジョージ・オーウェル『芸術とプロパガンダの境界』

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