歴史解釈としての終末論(二元論的”未達”としての黄泉)

 ;序文

 アレクサンドル・ドゥーギンが『The Fourth Political Theory<第四の政治理論>』において面白い記事を投稿していた。

 『多極世界の終末論』の題名で投稿されたこの記事では現在の世界の主要文明の宗教的背景から各地の終末論のビジョンを描き出すことで、それぞれの国家及び勢力が持つ世界観それ自体を論ずるものである。

 終末論と言えば胡散臭いが、実質的なロシア思想の祖といえるウラジーミル・ソロヴィヨフが晩年に黙示録的終末論に行き着いたように、ロシア思想は伝統的に終末論(と同時に生じる”救済”の論理)について述べることが多く、この『多極世界の終末論』とは、ロシア連邦が予てより主張する政治的多極化の要求・主張に沿いながら各地の終末論を述べることで、多極化する世界文明というビジョンを共有しようとする一種の思想的試みだと言うことができる。

 しかし実際の問題として、こうした終末論を起点にして語られる歴史及び文明解釈というのはロシア思想に触れている人間でなければ珍奇なもののように思えてしまうのも全くの事実で、前提となる文脈があまりに多い。本来であればこの記事でまず第一にロシア・メシアニズムとロシア人の宗教意識について述べるべきなのだが、これは来年同人誌に書く内容とかぶる(二千文字ぐらい書いて気がついた)ので今回は省略させて頂く。本気で気になる人は筆者に連絡を取って欲しい。場合によっては可能な範囲で解説をする。


 ;キリスト教世界と歴史及び『多極世界の終末論』

 ニコライ・ベルジャーエフのテキストにそのものずばり『キリスト教と歴史』というものがあるのだが、この中でベルジャーエフはこのように述べている。

キリスト教には、かの、それなくしては歴史哲学がまったく不可能になるところの、世界歴史の予定条件が与えられた。

人類の歴史の最初の頁を書き、最初の偉大な諸文化を創造し、あらゆる文化と宗教の揺籃であった東洋の諸民族は世界歴史から脱落したかに見える。東洋はますます静的になって行き、歴史のダイナミカルな力は完全に西洋に移される。キリスト教は歴史的動力学の生活の中にみちびき入れる。東洋は内面の世界に復帰し、世界歴史の舞台から退場する。東洋が非キリスト教的であるかぎり、それは世界歴史に参与しない。キリスト教を受けいれない東洋の諸民族は、世界歴史の激流の中にはいって行かない。これはまたしても、キリスト教が最大のダイナミカルな力であり、キリスト教から最後的に離れ、キリスト教に従わない民族は歴史的民族たることをやめるということの実際的な証明である。

 

 ここだけを抜粋すると随分なことを言われているような気がする(実際言われている)のだが、ニコライ・ベルジャーエフの理論を読解するのであれば

「キリスト教においてイエス・キリストが誕生し死去したことで、本来人間の想像の範囲にしかなかった形而上学的世界=天国・神の国への結節点をイエス・キリストという点を持つことにより実際的世界と形而上学的世界は結びついた」

「そしてキリスト教は終末論(=ヨハネの黙示録)を持つが故にキリスト教を信仰する民族のみが歴史(=歴史の開始地点と終了地点の間)を持つ」

この考え方は聖書のヨハネの黙示録にある

「アルファでありオメガである」

「最初であり、最後である」

というまさしく終末論を語る黙示録において明示されている文言からの影響が垣間見える。つまり、……本当か?

 しかし実際、ニコライ・ベルジャーエフの『キリスト教と歴史』のテキストを読めばドゥーギンが『多極世界の終末論』において展開する論理が理解可能になる。つまりそれぞれの文明圏において歴史の開始地点と歴史の終了地点を持ち、終末論の保有をこそ国家を歴史的な存在とする条件と考えた上で、ニコライ・ベルジャーエフが持っていたキリスト教の非常に原理主義的な態度から一歩進み出し、複数文明の神話と国民性の基礎となる宗教背景を分析し、それぞれの終末論を解釈することで、他でもないこの地球に存在するあらゆる文明が実際には同質・均一なものではなく、ということを明らかにするのがこのテキスト(『多極世界の終末論』)の目的だと言える。


 ;目的論的世界観にある西洋主義とその矛盾

 事前に把握すべき事項としてベルジャーエフのテキストが存在することを考えた上で『多極世界の終末論』を解釈する場合、それぞれの文明における終末論と、世界それ自体の解釈が文明圏における行動を定義するという理論へと連結が可能で、これはドゥーギンが過去に書いた『地政学の基礎』にある文明論としての地政学へも連結するということだ。

 しかし同時に言わねばならないのは、こうした一連の世界観。終末論を有し世界構造を解釈するそれぞれの文明が常に目的論的に解釈されているということである。

そもそも目的論自体、ギリシャ思想からの伝統としての側面が強く、ヘレニズムを経て東西に伝播したとは言え、この目的論的な世界解釈自体が欧州思想の伝統であって、少なくとも日本思想の伝統からすれば年数的に浅い、浸透し切っていない概念であるということをここで言明しなければならない。

 例えばアブラハムの宗教を基礎とした文明世界観が『多極世界の終末論』において幾つか明示されているが、これら全ては先に書いたようにイエス・キリスト(ムハンマド)の死から始まり、最後の審判によって終わるという終末論(=歴史解釈)を持つが、そもそも目的論的な形而上学の思考自体古代ギリシャのソクラテスとプラトンに萌芽があり、そして彼らはである。これが明確な矛盾として一つあげられるであろうし、「歴史開闢→終末」という世界観モデル自体、全世界に本当に共通するものではないのではないか? そうなった時に、西洋思想を批判し、他でもない米国の覇権主義への非難を強める彼自身が同時に非常に西洋中心主義的な態度を取っているという一つの告発が成立するであろう。


 ;未達領域の死と生一元論的世界観

 ニコライ・ベルジャーエフは進歩主義全般を詐欺と断じ、現在と過去を搾取し永久に訪れない未来(キリスト教の場合”千年王国”となり、共産主義の場合”労働者の理想郷”となる)に向かってそれらを蕩尽する実存的世界を無視した世界観だと主張する。実際のところ我々人類は死後の世界を本当の意味で感知することは絶対に出来ない。少なくとも現状の科学はそれを証明していない以上、天国も来世も輪廻転生も全ては未達の、形而上学的な、想像の領域にある世界である。

 過去の哲学者のうちフリードリヒ・ニーチェは”永劫回帰”を唱えることで絶対未達の領域に存在していたはずの死の概念をギリギリまで生に寄せ、現在の生と未達の死後世界とをニアリーイコールの領域にまで近付けたが、基本的に一般の宗教は(アブラハムの宗教にせよ、道教にせよ、ヒンドゥー教的世界観にせよ)である。ただここで言及しなければならないのはアブラハムの宗教のモデルもヒンドゥー教的世界観も、そして易姓革命を基礎におく中国の天命論でさえも、世界各地に存在する生死観は常にだということである。

 つまり、死後人間が輪廻転生する場合には、輪廻転生という一つの枠組みから現在の生の世界へと魂が戻されるという世界観を持ち、仏教はここからの離脱(いわゆる解脱)を求めるものとなる。ヒンドゥー教の輪廻転生とは生の世界(=現世)に常に生命を還元する生一元論的世界観であって、輪廻転生とは生一元論的世界を補足する枠組みに過ぎない。そこで現れた仏教も、最終的には解脱の先という未達領域を新たに再定義したというだけのことで、根幹の世界観は生一元論的なものである。

 これはアブラハムの宗教にも同一のことが言え、そもそもアブラハムの宗教が天国と終末論を有するようになったのはバビロン捕囚によってユダヤ人がペルシアへ渡りゾロアスター教の終末論を吸収したからだと言われており、天国の解釈はそれぞれのアブラハムの宗教は無論キリスト教の宗派によって別れ、様々な解釈が存在しているが、どちらにせよ敬虔な信者を優先して最後の審判が起こるという基礎線を外すことは稀ではないだろうか(申し訳ない。私もキリスト教の全ての宗派を把握しているわけではないので……)と考える。

 ただ、最後の審判により過去の全ての人類が蘇るという構図は死者全てを生の世界へと還元してしまうものであるし、仮に天国と地獄で分岐した場合において地獄は無論肯定されないのだから、と言える。


 ;生死二元論的世界解釈としての日本神話

 ここで日本神話のユーモラスな世界観について解説をするべきであろう。

 日本神話における生死は、オルペウスの神話にも相似したイザナギとイザナミの逸話に集約される。カグツチを産み死去したイザナミを追って黄泉の国へと渡ったイザナギは、醜く腐り蛆が湧いたイザナミの姿を見て逃亡し、ヨモツシコメとイザナミの追跡を振り切り岩によって黄泉と現世を区切り、イザナミと離縁したイザナギは、イザナミから

「お前の国の者を日に千人殺す」

と言われて

「それならば私は産屋を建て、日に千五百の子を産ませよう」

と返す。

つまり、日本神話とそれを基礎とする帝室、天皇家、天皇制とは終末論を持たず、かつ生なる現世と未達の死後世界としての黄泉が陸上で結節し、岩で隔てられているという解釈をする。

ニコライ・ベルジャーエフはイエス・キリストを形而上学と実際の結節点とし、歴史の開始地点であるが故にキリスト教=歴史というモデルを打ち立てたが、日本神話=日本帝室=天皇家=天皇制とは即ち『終わりのない日本の歴史』それ自体であり、『生死二元論を持つ文明』であり『終末論を持たない文明』なのである。それどころか、『千代に八千代に』と言うように、

 問題なのは――嘆かわしいことではあるが、現在の帝室も宮内庁も、そしてあろうことか大半の保守主義者や右翼であっても、国体としての日本神話と神道という一連の世界解釈を固定化し、日本列島の近代モダニズムを構築するという意志を持たないという点にある。


 ;終わりに

 この記事では意図的に言及を避けたが、実際には大陸から渡り日本にも存在する終末論として、いわゆる末法思想と呼ばれるものがあり、これは明確な終末論となる。が……我が国の確定的な多数派として末法思想を数えることの困難さや、そもそもの我が国の宗教思考とは諸教混淆シンクレティズムであることを考えれば、末法思想を一つの日本における国体解釈として提出することの困難さを理解してくれるのではないか?……と、考える。

 彼岸についても同様にこれは諸教混淆シンクレティズムといえる。(先祖の帰還、しかし絶対に現世には居着かないというモデルも興味をそそるものではあるものの……)

 また目的論的世界観についてもさらなる言及は可能であり、ひいては明治維新以後の開国以来、我が国は進歩主義や目的論のような非土着的な思考と土着的な肉体との相克に悩まされてきたという事実を認めるべきであろう。

 次なる時代の右翼に求められる姿勢とは、明治維新以後、結局確立されることがなかった日本近代ジャパンモダニズムの構築、或いは再構築であろう――と結論づけたところで、この記述を終了する。

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