フォトジェニックの疎外:『響け! ユーフォニアム』について

:序文

 『響け! ユーフォニアム』という作品がある。

 京都アニメーションがアニメ化した、高校における吹奏楽部を題材にとったこの作品は、主人公である黄前久美子が北宇治高校に入学し、三年生になってからは吹奏楽部部長として活動する部活モノの作品である。世間一般的には、二年生編の内容の一部が抜粋されて劇場アニメ化された『リズと青い鳥』の方が有名かもしれない。

 この作品は京都アニメーションにとっては悪い意味で転換点になった作品でもあり、京都アニメーション本社が放火され、多数の死傷者を出した事件の原因にもなっている。犯人は京都アニメーション大賞に幾度か応募しており、事件直前にも宇治周辺のいわゆる同作の聖地を巡る動作を実行している。

無論、このテキストは同事件の犯人を擁護する意図を持たず、犯罪は法廷によって処罰されるべきであるという立場を崩さないが、理論としては遠くない、この事件につながる要素が幾つかあることを明示しておきたい……。



:美的空間

 作品『響け! ユーフォニアム』は先述のように高校における吹奏楽部をテーマにした部活モノであり、内実としてはスポ根モノに近い。吹奏楽の清らかなイメージと裏腹に、経験者が語るようにその中身は体育会系であり、厳しい上下関係や厳しい練習が付随するものであるとされる。その中で黄前久美子は様々な生徒同士の諍いを仲裁したり、或いは自身がその当事者になったりしながら学年を進めていく……という構成になっている。

この作品の登場人物とはやはり大半が吹奏楽部の部員であり、途中離脱したりする生徒が居てもやはりそれは経験者・関係者である。複数の生徒によって構成される物語は吹奏楽部というグランドホテルで展開されるグランドホテル形式の物語と表現することも可能で、あくまで黄前久美子というのは一生徒でしかない。

 この作品について……私はアニメから入り、その後に原作を購入した。まず一アニメファンであり、その後に読者の立場になった私の見解として、この作品を語るとするならば、この作品には冷徹なまでの美的空間への意識が存在している。

あくまで"空間"という括り方をするのは、この作品において生じる感情というのは、醜い感情や諍いも含まれているからだ。

 [引用始]

一年生で、一人だけA編成で。そんなみぞれに言葉をかけなかった理由。それを考えたときに、久美子のなかに真っ先に思い浮かんだのは、希美が告げたものよりももっと醜いものだった。

先輩、本当は嫉妬してたんじゃないですか?

 [引用終]

 このように、作中に登場する人物には嫉妬や嫌悪感情といったものが付随することも多くあり、部活内部で生じるインシデントとはドロドロとしたものであることがかなりあるのに対し、では北宇治高校吹奏楽部はどのような演奏を行うのかと言えば――それは美的なハーモニーであり、黄前久美子が一年生の時には全国大会まで進出する。それほどまでに美しい音色を奏でる、最終的な場面。一年時のフィナーレとしての大会、二年時としてのフィナーレとしての大会、三年時の感動的な最終編のフィナーレとしての大会において、彼ら彼女ら北宇治高校吹奏楽部は美しいハーモニーを奏でる。……つまり、この作品において生じるインシデントや、醜い感情、諍いは全て最終的な「美しいハーモニー」によって集約・終結させられるのである。

 しかし、この作品を読んだ時に生じる違和感、問題点というのもまた同時に、その集約地点。「美しいハーモニー」について回るものなのである。

つまり、端的に言えば――人間は常に美しいわけではない、ということである。

 例えばこの作品には、部活動の方針が変わり、全国大会を目指すハードな吹奏楽部に生まれ変わる際に、二年生の生徒が受験勉強のために部を離脱する場面がある。これはある意味で、ハードな部活動に対するアンチテーゼのようにも思えるが……果たして、そうだろうか?

つまるところ、この場面において部活動から降りるこの生徒もまた”美しい”のである。言い換えれば「潔い」と言ってもいい。部活動の和を乱すわけでもなく、ただ淡々と老兵の如く去っていく彼女の後ろ姿は、あまりに美し"過ぎる"のである。……他の場面を引用してみよう。

 [引用始]

そのまま力任せに引っ張っていく夏紀に、奏が最後のあがきを見せた。扉にしがみつき、奏は滝に向かって吠える。その瞳は烈しく燃え、唇は忌々しげにゆがんでいる。怒りによってぐちゃぐちゃに乱れたその顔を、久美子は可愛らしいなと思った。

 [引用終]

 この場面は、二年生時の編成を決めるオーディションで、自身より腕に劣る先輩に忖度してオーディションでわざと下手に演奏した一年生の久石奏に対し、本来の演奏をしていないと当事者である先輩の夏紀が割って入り、オーディションの中止を強制するシーンでのものである。――そうした経緯から見れば、このシーンは嫌味たらしく忖度する後輩・久石奏とそれを力づくで阻止する先輩・中川夏紀とそれを見つめる黄前久美子という構図を取るが、その情景を見ながら主人公・黄前久美子は、怒り吠える久石奏を「可愛らしい」と感じる。端的に言えばこの作品における構図、作品構造の矛盾は全てこの一場面に集約されるものだ……つまり、喧嘩・諍い・衝突、それら負の感情は全て美しさ・可憐さのハーモニーに集約され、醜さが醜いままに放置される・取り置かれることを拒絶する、神経質なまでに構築され尽くした"美的空間"としての北宇治高校吹奏楽部――それこそが、作品『響け! ユーフォニアム』の本質である。

 醜さは存在していた――けれど今は、何一つ存在していない。何故ならそれは"ハーモニー"だから。それこそが、『響け! ユーフォニアム』なのである。響け! という言葉さえ或る種暗示的だ。即ち、この作品に登場する人物とは皆が皆、ハーモニーを醸し出すために”響いて”いるのであり、響かない存在は居ない。仮に過去そうであったとしても、最終的には”響く”ようになる……。



:美の独裁・美のディストピア空間

 つまり、この作品はどのような過程を得たとしても――"響く"ことこそが既定路線となっている。なってしまっているのである。問題なのは美しさそれ自体ではなく、その美しさを生み出す過程であり、この作品の登場人物は吹奏楽にコミットメントし、調べへと到達する。この構図が常に付き纏う。二年時には全国大会へ出場出来なかったのだが、その経緯とは傘木希美と和解し、美的ハーモニーを奏でる吹奏楽部の中でも"浮いてしまう"程に美的な演奏を奏でる突出した奏者・鎧塚みぞれが居たからであり、それは作品内でも描写されている。つまり、美しさ故にハーモニーが阻害されたのであり、それは結局のところ”響いて”いるのである。

 そうした神経質な美しさはスポ根モノでありながら、いわゆる日常系と呼ばれた作品郡にもかなり近い。それは『らき☆すた』にせよ『けいおん!』にせよ『ゆるキャン△』にせよ、登場人物は殆どが美少女とその関係者であり、"醜い存在"はその介在を許されない。

解説として話をするが、

(実際、塚本秀一という男子生徒キャラは原作者から「格好良すぎ」と言われているぐらいである)

そうではなく、仮に醜い何者かが存在していたとしても、それはあくまで美しいハーモニーに参加するための過程なのであって、最終的には"美しくなる"という作品構造の非・自由性について私は述べたいのである。

この作品において、何かしらの問題を抱える人物(先に出した久石奏や鎧塚みぞれ等)が現れたとしても、彼女たちは最後にはその美的演奏。美的ハーモニーへと到る。つまり、過程は様々でありながら、決着点は常に同じ場所に存在しているのだ。だが実際の吹奏楽部でそのように、都合良く物語は進むであろうか? 当然ながら、そうはならない。実際には部活内のドロドロを見て失望して退部する生徒も居るだろうし、退部した末に吹奏楽部や、吹奏楽それ自体を憎むような生徒が出てきてもおかしくはない。思春期の男女にとって人間関係のいざこざとは人生経験が浅い故に大きな翳を残すことであろう……しかし、この作品『響け! ユーフォニアム』には、そうした問題決着は絶対に起こらない。仮に起きていたとしても描写はなされない。一番人間間の問題が巨大化した三年生編に至っても、具体的に誰かが、遺恨を残したまま退部した……という話は出てこない。これは作品として寧ろではないだろうか?

 この作品に登場する人物は、その全てが美的ハーモニー・美的結末に奉仕しているのだ。それは先述のように、退部したり演奏をやめる生徒にさえも同様のことが言える。彼ら彼女らは常に美しい。しかし、その美しさを現実の空間(即ち――吹奏楽部)に代入して描写しているのがこの『響け! ユーフォニアム』という作品なのである。そういう意味では、日常系に近いと言いつつ、この作品が=日常系と表現出来ないのは、スポ根モノであるという部分もそうだが、現実的な舞台設定・時代背景を有しているのも理由になるだろう。しかし、この作品において展開される美なるものは、最終的に美に繋がるが故に、美的でない者を徹底的に疎外する構造を持っている、であり、なのである。ここに介在するものは常に美になるのだから、逆を言えばこの空間を伝達される読者が仮に美しくない存在であった場合、か、かの二択を常に迫られるのである。政治に例えれば自由民主主義は複数の政党とその立場によって自らの立場を代弁してもらうことが可能であり、代弁者が居なければ立候補が可能になっているのに対し、独裁体制とは体制を支持するか、体制を支持するフリをするか、体制に不支持で弾圧されるか亡命するかという極端な選択を迫られることになるわけだが、そうした意味で『響け! ユーフォニアム』とは独裁体制そのものであり、読者は美的であるか、疎外されるかの極端な選択を迫られるのである。

 そうした意味で行けば日常系においても読者・ユーザーは疎外されることになるが、同時に日常系とは非日常的(美少女で埋め尽くされた)空間において展開される日常である以上、これはSF作品で未だ誕生していない月や火星の入植地で暮らす人々を描いたものと同様の、非現実的な空間における物語であり、それは実際に月・火星に暮らす人類が居ないのと同様に、この非日常的日常空間では端から数として数えることが出来ない状態になるが、『響け! ユーフォニアム』の場合は共学高校の吹奏楽部という、非常に現実に近い空間を定義し、現実に近い諍いを作品内部で展開しながら、実際には全く非現実的な(美の独裁・美のディストピア)空間を表出させてしまっているのだ。



:フォトジェニックの疎外

 こうした美は悲惨な結末を惹起させる。三島由紀夫の小説『金閣寺』において主人公・溝口は美そのものである金閣寺に包まれていながら人生に破綻を来し、やがて美そのものである金閣寺を"炎上"させるに到る。

[引用始]

隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で人生に触れることは不可能である。人生に対する行為の意味が、或る瞬間に対して忠実を誓い、その瞬間を立止らせることにあるとすれば、おそらく金閣はこれを知悉していて、わずかのあいだ私の疎外を取消し、金閣自らがそういう瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを知らせに来たのだと思われる。人生に於て、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔わせるが、それはこのときの金閣のように、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことを金閣は知悉していた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまうのである。

-三島由紀夫『金閣寺』-

[引用終]

 私は自身の作品(『アイドル声優だった私が、アイドル声優をやめるまで』)でも記述したように、この京都アニメーション放火殺人事件に嫌な陰影を見出してしまっている。つまり、犯人が社会から疎外感を覚え、『響け! ユーフォニアム』を愛憎半ばに親しみ、その聖地巡礼を行いながら殆ど自殺同然に京都アニメーションを"炎上"させたのは、他でもない『響け! ユーフォニアム』という作品に介在する美的空間が、醜さをコンプレックスとする犯人を疎外してしまったが故に起こってしまったのではないか……? という推察をしてしまいそうになる。

 こうして疎外は果たして『響け! ユーフォニアム』に限定された話題なのであろうか? ――私は、そうは思わない。

近年流行しているInstagramやTik Tokなどの画像・映像発信サイトにおいては、いわゆる"映え"が重視され、女子高生や見た目を繕った男性たちが自身を含む存在を美的なフレームワーク(青々と晴れた砂浜で手を繋いでジャンプする等)に自身をはめ込むことで、自身や自身の生活それ自体を美として定義しようとする或る種の欲を持っている。その空間(Instagram・Tik Tok等)では美的なものこそが権力を持っている以上、醜いものや美しくなれないものを常に疎外する。中年男性が自撮りを上げていても怪しいばかりであるし、Tik Tokには冴えない和室で撮影を行いユーザーを「和室勢」として揶揄する言説が存在している。

 しかし、そうした美的空間とは実際には美的でも何でもないのではないだろうか? これらの媒体が流通することで美的でないと相対的に評価されたものを合法的に(人々の意志によって)排除すること。そのために美が道具的に用いられているような印象を私は覚える。実際には美なるものというのは、醜さが美であることもあれば、醜い感情が醜いままに美しい何かを得ることもあり得る。

 そうした施策(美的空間の実現)は現実公共施設でも実践されている。

 例えば公園のベンチはホームレスが寝転がることが出来ないように間仕切りを設けたり、一人分しか座るスペースがないように区切られることが多くなった。座るスペースのある生け垣は減り、街中ではベンチそのものが消失しつつある。しかし、現実としてホームレスは存在しているし、ホームレスを消失させることは困難だ。だが一般的市民はそれを感知しない。つまり、ホームレスが苦しんでいたとしても自分たちには関係のない話であり、視界にさえ映らなければそれで良い……と思っている節がある。これは例えば入国管理局に閉じ込められた人々への無関心にも似たところがあるだろう。誰かが苦しんでいたとしても、自分に関係のない人々であれば、体制の反逆者であった場合や、同情出来ない困窮者が苦しんでいても、同情する必要もなければ救済する必要もない……これはいわば広義の意味合いにおける”美的空間”と呼ぶことが可能であろう。



:結び

 私自身、三島作品の熱狂的な崇拝者であり、美について検討することが多くあるが、同時に私は非人間的な美を肯定しようという気持ちにはあまりなれない。実際に、三島作品における美とは人間を狂奔させるものとして定義されるが、狂奔の末に美を破壊する人間、醜い自我、醜い人間の存在を彼は大いに肯定しているのである。無論、作品が疎外を即座に生じさせるとか、故に焚書するべきである、と述べるつもりは毛頭ない。しかし、美的空間という定義。その概念の非人間性は告発されるべきであろうと私は考えるし、文化表象に表れる美的空間は或る種の政府方針のプロパガンダ的な効果を持つ可能性も検討しなければならない。

 繰り返すが、私は京都アニメーション放火殺人事件の犯人を擁護しない。しかし私は、美に引き摺られる人間本質の部分において、彼に同情する。犯罪者に同情することができない社会こそ――不自由な社会そのもの、なのである。

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