美の解釈と自己理解について

 三島由紀夫が自分自身の顔について面白い話をしている。


 私は自分の顔をそう好きではない。しかし大きらいだと云っては嘘になる。自分の顔を大きらいだという奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとってゆくのは賢明な方法である。

三島由紀夫『私の顔』


 このテキストは『生きる意味を問う』という文庫本で読むことができるので、気になった人は買ってみても良いかもしれない。とは言え、今回のテキストにおいてはこれはほんの導入に過ぎない。かなり個人的な、美や自己についての考え方を述べるつもりでいて、この文言はほんの些細なきっかけに過ぎないものだ。

 先の三島の文言は、私自身のナルシズムに関する導入となったものである。

そもそも三島由紀夫の作品というのは『仮面の告白』にせよ『金閣寺』にせよ、美に晒された充足していない自我が、その美に対してどのようにして応対するべきかを考えるような内容で、前者は半私小説であり、後者はモデル小説であるにも関わらず、主人公のビジョンというのはよく似通っている。その上で、三島由紀夫という人間が最後にはボディビルディングによって肉体改造を果たし自決することや、『仮面の告白』の主人公である”私”が、筋肉を持つ男性の悲劇的死に惹かれていく様子を重ねて考察するに、彼は自分自身を悲劇的死に相応しい肉体を持つ人物に仕立て上げた上で、理想とする死に方を演じてみせたようなフシがないこともない。これは今度『金閣寺』の中身にも繋がってくる。『金閣寺』の主人公の父は地方にある寺の住職で、その死に方は「死に方の模範を示すようなものだった」と表現されている。

 つまり、恐らく三島由紀夫というのは何らかの美しい人物のビジョンというものがあり、そしてそれは決して自己と分離された、遠くにあるものだとは感じていなかったし、必要であればそうなってみせる用意があり、そして実際にそうなって見せたものと考えられる。……万人が三島のような死に方をするべきだ、という話では決してなく、私は今回語ろうとしているのは、自分自身が思い描く美の具体像と、今の自分自身がかけ離れていたとして、だからと言って美を諦める・放棄する理由にはならないということなのである。

 勿論、物理的に不可能な美のビジョンというものもある。骨格レベルで違うと言う話で、例えば漫画に出てくる獣系の人類になりたいとして、現実にああいったものは存在しないわけであるから、これは実現の対象にはなり得まい。しかし、漫画でも映画の登場人物でも小説の登場人物でも何でも良いのだが、この世には美的なものというのはゴマンとある。無論、世間の人が美しいと言っているから自分も美しいとは思えない……というような事例もあるのだろうが、そういった事例で一つ一つ”美的”なるものを弾いていったとしても、恐らくあなたの手元には自分が美しいと思った対象が多数残り、その中にはきっと、自分が近づき得る・模倣可能な美のビジョンというものがあるのではないかと思う。

 そうした時、あなたは自分を磨いてその美のビジョンに近付こうとするか、或いは美を放棄し無視する生活を選択するかの二択を迫られることとなる。大抵の人間は不思議なことに後者を選ぶことが多いが、個人的にはこれは”パスカルの賭け”のようなもので、基本的に美に近付こうとする方が優位で、美を放棄しても損をするか、良くて”得をしない”という二択になる。

 パスカルの賭けというのはフランスの哲学者ブレーズ・パスカルが理性によって神を肯定しようとした時、仮に神が存在しているということに賭けたとしても何も損をせず、寧ろ「神は存在する」という立場をとり、教えに従った方がより豊かな生活を送ることができるという一種の説話であるが、美のビジョンとはパスカルの賭けにおける神そのものなのである。

つまり、あなたは美のビジョンを持っている。そして、あなたは理性と知性から自分自身を美しくないと思うことができる=あなたは美のビジョンを持っているということになる。ただ、現状手に持っている美の具体例があなたにとって非現実的な対象しかないというだけのことで、恐らく世界にはあなたが近づき得る美のビジョンは存在するのである。

 なぜ世間の人々が美のビジョンを保有しようとしないか、或いは美の追求がきりのない、餓鬼道的な、無間地獄のようなものだと錯覚してしまうのかと言えば、人々は実際には具体的な、確固たる、自分が想定する美のビジョンというものを持っておらず、専ら世間知によって。誰かが美しいと言っているから、テレビによく映るから、みんなが好きだと言っているから……という、相対的な評価によって美を決定している。だから世間の人々は、現実的な実際に自分が到達し得る美のビジョンを得ることなく、美を放棄するか無限に世間の流行に従うような餓鬼道的な美の追求を行うようになってしまっている。言ってしまえばこれも男女関係なく起こる現象だ。

そして、世間知による相対的な価値判断は美のみならず、ありとあらゆる面において人間に不利に働く。相対的な地位は常に変動し、青天井の上限知らずであり、相対的な他者による価値判断を肯定し続ける限り、人間は無間地獄の餓鬼道に落ちる。

 しかし、あなた自身による価値観から定めた美のビジョンへとひた走るのは非常に良い行いである。そもそも、目標を設定してそれを目指して努力するという行為自体前向きなものであり、無論それは過程で様々な工夫を求められるというところから、計画性を身につけることも、問題に対処する能力を身につけることもできる。――言い換えれば、自己を理解するというのは、自己が目指し得るビジョンを把握し、理解するということであり、自分自身に納得がいっていないというのは何らかのビジョンをあなたが有しており、そして何よりも自己を嫌悪する態度それ自体がナルシスの発露であることの証明となるのである。

 重要なのは、そうしたビジョンのモデルを多数知ることであり、そしてそのビジョンの評価に他者の相対的な目線や評価をできる限りで持ち込まないことである。

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