三島由紀夫の墓に行ってきた
文学者・三島由紀夫の墓は多磨霊園にある。
多磨霊園というのは、かの有名な東郷平八郎の墓が出来て以来、著名人が埋葬される場所として知られるようになり、文学者であれば三島由紀夫以外にも大岡昇平であるとか(鉢の木会で三島と喧嘩別れになったことを考えれば実に皮肉)その他にも江戸川乱歩や岡本かの子、有島武郎や田山花袋、菊池寛、中島敦、舟橋聖一、堀辰雄、向田邦子、横光利一と多種多様な作家の墓があることで有名であり、恐らく知っている作家の墓をまわるだけでも一日潰れてしまうであろうことは確かである。先に東郷平八郎の話題を出したように、軍人や政治家の墓も数多く、山本五十六や渡辺錠太郎、井上成美や加藤健夫などが居るかと思えば、スパイであった新聞記者リヒャルト・ゾルゲや暗殺された左派政治家・浅沼稲次郎などもおり、仏となれば政治信条は関係ないという、ある意味で非常に我が国らしい霊園となっている。
この多磨霊園に至るまでの道程もまた不思議なもので、西東京というのは横軸(東西)の移動が容易であり縦軸(南北)の移動が難しい側面を持っており、中央線・小田急線・京王線沿いであれば良いが、ここから外れると途端に移動が難しくなる上、いわゆる奥多摩と呼ばれる地域とは別に多磨という駅があり、今回の多磨霊園に一番近い駅がこの多磨駅になる。奥多摩駅に行くと山しかない。しかも多磨駅とは別で京王電鉄多磨霊園駅があり、名前として分かりやすいのはこの多磨霊園駅だが、多磨霊園駅は多磨霊園から少し遠い。つまり
:奥多摩駅=山
:多磨霊園駅=多磨霊園から遠い
:多磨駅=紛らわしい。一番多磨霊園に近い
という、普段これらの地域に行かない人間を嵌めようとしているかのような状態になっているのが多磨霊園周辺の交通事情なのである。関西人に説明すると阪神甲子園球場に一番近いのが甲子園駅で、実は甲子園口駅は遠いというアレによく似ている。
多磨駅は西武多摩川線によるワンマン運転を行っており、武蔵境駅に始まって是政駅で終わる道程を反復横跳びしている。明らかに不便そうに見えるこの立地だが乗降者は存外に多く、集合地点で他のメンバーと
「全員、三島の墓参りに来たのかと思った」
と言って笑っていたのだが、改札口を出て西口に行くと多磨霊園へ、東口はその反対側にあるこの駅で大半の乗降者は東口へと流れて行ったので、多磨駅周辺は郊外のベッドタウンなのであろう。
多磨霊園は非常に広い霊園で、宗派宗教も多様な上に、それぞれの遺族が墓を管理しているのか墓の状況も家によりけりで、中には墓のはずなのに草木が生い茂り参拝一つ出来ない状態になっているような場所もあった。……かと思えば、元から簡素な作りで、墓に至るまでの石畳のみが配置された墓もこれはこれで実に風流があり、哲学者などはこのような墓を求めるのではないかと考えてしまう。
ところで、三島由紀夫は小説『金閣寺』の中で、高倉天皇妃であり、類稀な亊の奏者であった”小督局”の墓について、登場人物にこのような会話をさせている。曰く……
「優雅の墓というものは見すぼらしいもんだね」と柏木が言った。
「政治的権力や金力は立派な墓を残す。堂々たる墓をね。奴らは生前さっぱり想像力を持っていなかったから、墓もおのずから、想像力の余地のないような奴が建っちまうんだ。しかし優雅のほうは、自他の想像力だけによって生きていたから、墓もこんな、想像力を働かすより仕方のないものが残っちまうんだ。この方が俺はみじめだと思うね。死後も人の想像力に物乞いをしつづけなくちゃならんのだからな」
「優雅は想像力の中にしかないのかい」と私も快活に話に乗った。「君のいう実相は、優雅の実相は何なんだ」
「これさ」と柏木は苔むした石塔の頭をぺたぺたと平手で叩いた。「石、あるいは骨、人間の死後にのこる無機的な部分さ」
「ばかに仏教的なんだね」
「仏教もくそもあるものか。優雅、文化、人間の考える美的なもの、そういうものすべての実相は不毛な無機的なものなんだ。龍安寺じゃないが、石にすぎないんだ。哲学、これも石、芸術、これも石さ。そして人間の有機的関心と云ったら、情ないじゃないか、政治だけなんだ。人間はほとほと自己冒瀆的な生物だね」
この箇所は三島自身が墓なるものについて語った記述として考えると大変面白い。この部分を読んだだけでも、彼の墓が一体どのようになっているのだろうと想像してしまう。
実際、多磨霊園には歌人の墓や記念碑などもあり、そうしたものには歌が丸ごと記載されていることがあって、石に刻まれた歌を読む前に
「死後に至るまで語らなければならんものなのか?」
と考えてしまったのは、三島由紀夫が『金閣寺』で記述したことを覚えていたからだろうと私は思う。
多磨霊園近くにあるフローリストヤマダという花屋があり、今回私達はここで三本の暗めの赤い薔薇を予約していた。一般的に墓参りでお供えする花に薔薇は選択されることが少ないもので、その棘が故人の手に刺さる……などと言われているようであるが、彼は『薔薇刑』という写真集も出しているし、何よりあれほど受苦を愛している人間というのも中々おるまい、と考えればやはり彼に相応しいのは薔薇だったのである。
多磨霊園の広さについては先述したが、次に区割りについて話をする。多磨霊園の区割りというのはちょうどパリ市街に良く似ており、直線と斜め四十五度の斜線でほとんどを構成するこの霊園はまるで住居地区のようでもあり、それぞれの人物の墓についても番地で区分けがされている。今回私達が向かった三島由紀夫の墓は10区1種13側32番にある。彼の本名は平岡公威と言うが、この墓は平岡家之墓とされ、元樺太庁長官であり、いわば平岡家が名家と認識されるようになった突端となる三島の祖父・平岡定太郎氏に始まり、その妻であり『仮面の告白』で幼少期の三島を育てた祖母・平岡なつの名前が刻まれ、その次には同様に『仮面の告白』で記述のある夭逝した妹・平岡美津子の名前があり、三島由紀夫こと平岡公威はその次、この後に三島の父である平岡梓や母である平岡倭文重、三島由紀夫の妻である平岡瑤子の名前が刻まれている……。
この三島由紀夫の戒名というのが『彰武院文鑑公威居士』というもので、この戒名は三島本人の意向を無視してつけられたものなのである。三島死後に父・平岡梓の筆名で書かれた『倅・三島由紀夫』にはこのような記述がある。
倅の遺言に「自分の葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」とありましたから、その通り行いました。しかし戒名については、倅は「自分は文を捨てた。文人として死ぬのではない。あくまでも武人として死ぬのであるから、その戒名にも必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要である」と申しておりましたが、遺族相談の上、いくら文の字を不要と申しても、これを削り抹殺することは却っておかしい、何といっても三島は文人として育って来たのだから、というわけで「彰武院文鑑公威居士」と武の字を上の方に出し、文の字は下の方に入れて倅の御勘弁を願うことにいたしました。
……と書かれている。この記述をどう思うかはともかく(私自身の見解は過去のテキスト『三島由紀夫とそのご先祖様、系譜について』に書かれているので気になる方は読んでみて欲しい)後世に言い訳をしないという態度を取った彼・三島由紀夫の墓がこのように本人からも微妙に外れたものとなってしまうのは、何か物悲しい気持ちが起きてしまうのも事実である。文の鑑……三島先生がですか? と思ってしまう。
ちなみに、谷崎潤一郎の戒名は『安楽寿院功誉文林徳潤居士』で、川端康成が『文鏡院殿孤山康成大居士』なのだそうですが、三島由紀夫に先に”文鑑”がつき、三島事件の次の年に追いかけるかのように死んでいった川端康成に”文鏡”というのはどうも……。
幸いと言うべきか、先日の憂国忌は偶然土曜日で、今回サークルの人間を連れて墓参りに行けたのもそうした事情があるが故であったが、墓には多数の花が(それも我々と同様に赤い薔薇も!)供えられており、先に墓参りをしたらしい老人の一団もそこにはあった。全員で一通り祈りを捧げた後にその場を後にした。
その日はそこから、随分前から予約していた末げんで食事をとった。
新橋というのは昔から歓楽街で有名で飲み屋が多い街であるが、末げんの辺りだけは光が少ないため、非常に独特な雰囲気がある。決して安い食事屋でもないため、大半のメンバーは気後れして話をすることができなかったが、私は二度目であったためベラベラと喋り、キリンラガービールが置いてあるのが嬉しくてこれを飲んでいた。帰りには新橋から私の家辺りまで出ている都営バスに乗り、市ヶ谷駅前を通って帰宅している……。
今年はこの記事を、毎年やっている憂国忌向けテキストとして提出させて頂きたい。また年内には先生に関係する小説を一つ公開出来ると思うので、お待ち頂ければ幸いである。
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