塹壕で花譜をききたくない -市民的共同体と塹壕の類型人について-

:::可憐で都市的で、けれども”臭う”、治安の悪い女の子・花譜

 私は花譜の曲が好きだ。SNSで検索してみると、どうやら二年ぐらい前から聴き続けているらしいということが分かる。

花譜の楽曲に触れたのは、そもそも現代のVOCALOID楽曲に触れようと思った際に、私の年頃の人間には聞き覚えのない複数の音声ソフトの名前が見つかり、そのうちの一つである可不を妙に気に入った……というところからだった。

(正確にはCeVIOだ、という指摘は受け付けないし、この文面においてはVOCALOID及びボカロと呼ぶつもりでいる)

 最初、花譜という存在を知り、その3Dモデルを見た時には本当にびっくりした。何故なら”可愛くなかった”から……早とちりしないでほしい。私は花譜を可愛いと思っているのだ。けれども(今でも)ただ一つの3Dモデルとして見た時の花譜というのは”可愛くない”と思う。とくに目の中に炎のようなものがある辺りがデザインとしてイマイチで、たんに可愛い3Dモデルを欲するのであれば有名な複数Vtuberのモデルを見た方が余程可愛いと(今も)思う。

 しかし、花譜というシンガーの歌う楽曲の中身を知り、歌詞を把握し、モデルと共に放映されるMVを見ると徐々にその認識は変わってくる。これはカンザキイオリ期の花譜に顕著だが、花譜というのは

みたいなイメージを持っている。例えば『過去を喰らう』の歌詞では以下のような一節がある。


愛した理由も忘れちゃって 過食気味の胸で泣いちゃって


……仮にも美少女キャラのモデルを有するキャラクターが

「過食気味の胸で」

と歌うのが私にはやたらと強く印象に残った。それ以外にも例えば『畢生よ』では、先の一節のような”治安の悪い”歌詞が長く続く。


僕らはやりたいことやるために 描き続けた未来

偉大さに欲望し続けて数年 爪も髪も手入れ不足だ

奪う側と奪われる側 与える側と与えられる側

気付くまで何度失った 思い返すほど無様だ


爪と髪という、乙女であれば最初に手を付けるであろう美容の入口においてそれを放棄しているという歌詞で、歌全体が世界の構造を述べている中で”爪と髪”という、目の前にある小さな実在する要素を語ることで異質さを滲ませる構造を取る。そうした「治安の悪い」イメージに重ねるように、彼女はMVと歌の中に”東京”という空間、その都市性を滲ませる。

 そもそも『過去を喰らう』のMVで用いられる背景は新宿全般であり、また『私論理』においては渋谷であることからも花譜という歌い手が内包する都市性は察知することができそうだが、彼女がもつ都市性の要素はそれだけではない。例えば『私論理』の歌詞においては全体をもって非常に都市的である。


今更もう遅いよ 誰もが踊ってるキラーボールの幻が蠢く街 アイドンノー

さぁ声を振り絞って スクランブル交差点 君とだけは交わらない

どうしてよって君が惑う声が聞きたいの

「歩けど歩けど人で群れるのになんで一人と踊らなきゃならないの?」

ハイファイに混ざるビル街の この先君と私は出会える? No


二番の歌詞はさらにあからさまである。


ヘイ! ハチ公前のたまり場でネタを探してるユーチューバー

お決まりみたいに現れるお化粧バッチリ女子高生

流行りのファッションどーだい? 一昔の見た目でドンストップ

にっちもさっちも量産型のエモさが売りに出てます


 ……こうした都市性と治安の悪さを重ね持った花譜というバーチャルシンガーがMVにおいて渋谷・新宿といった都市を背景とすることで偏在するようになり、この少女は都市部に揺蕩う、上京してきた女性たちの負の情念を歌として具現化する一つの重なりとして表出する。

 ここまで読み取ることができて、初めて私は花譜というキャラクターを可愛いと思うことができるようになった。いや、これも正確ではない――可愛さの偏在を見出したのだ。

つまり、花譜はモデルにおいても歌においても普遍的な可憐さではなく、場面毎に偏在する”強烈な可憐さ”と”信じられないほどの朴訥さ”とを身に纏うキャラクターなのである。それ故に、MVだけで見る、モデルだけで見る、歌だけで見る……そうした独立、分解された状態において彼女は可憐には映らず、ただバーチャルシンガーとしてされることで初めて、可憐さの偏在を見出すことが可能なのである。



:::JAM Projectとは軍歌ではないのか?

 話を変える。

 JAM Projectの名前を知らないオタクは、少なくとも同世代には居ないであろうと思う。思春期のうちに一度はハマらなければ情熱が足りないと言っても過言ではない音楽グループ。そもそもは元となる原作と乖離した楽曲が提供される音楽業界を憂い、アニメソングの精神を伝えるために生み出されたという話。

その曲調はアツく、情熱的で、かつ彼らが楽曲を提供する原作に寄せられたハードな歌詞が魅力的である。

地底から現れた爬虫人類(恐竜帝国)と戦うゲッターロボ、このOVA作品『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』で提供された楽曲『STORM』はJAM Projectの盛り上げ方の典型とも言える曲調と歌詞展開を持つ。


穏やかな海が 爆音でうずまく 炎が上がる

黒煙の空で 死神がほほえむ 大地が割れる

叫びまどう人々の中を かきわけ俺は急ぐ 迫りくる敵へ 走る

熱き怒りの嵐を抱いて 戦うために とびだせゲッター!

明日の希望を取り戻そうぜ 強く今を生きる人間ともの腕に


 また、絶望的なシチュエーションで展開されるので定評がある作品『マブラヴオルタネイティヴ』に提供された楽曲『未来への咆哮』はこのような歌詞となる。


立ち上がれ 気高く舞え 天命さだめを受けた戦士よ

千の覚悟 身にまとい 君よ 雄々しく羽ばたけ

闇の時代を告げる 鐘が遠く鳴り響く 戦う友よ今君は 死も恐れず


きらめく星のうちに 浮かぶお前の面影

二度と逢えない愛ゆえに なおいとしい

背中合わせの世界 重ね合えない現実

涙と共に捨て去れ なにもかも


私はこれらJAM Project楽曲を聴いていると

「絶望的なシチュエーションにおいて」

「自らの身命を問わず戦う」

「使命を帯びた戦い」

という複数の要素が、本来架空の世界における戦いを描写しモチーフとしているはずのこれら楽曲が、現実に存在する戦争に際し作り出された軍歌やプロパガンダ楽曲に近い構造を持つように感じられてならない。

例えば第二次世界大戦時に日本で作り出された軍歌『加藤隼戦闘隊』の歌詞にはこのような一節がある。


過ぎし幾多の空中戦 銃弾うなるその中で

必ず勝つの信念と 死なばともにと団結の

心で握る操縦桿

干戈交ゆる幾星霜 七度重なる感状の

いさおの陰に涙あり ああ今は亡き武士もののふ

笑って散ったその心


この歌詞に存在する精神性、その想定される状況は現実であるにも関わらず、架空の世界における戦闘における精神性、その想定される状況と非常に似通ったものとなる。……ここまで来ると妄想だが、JAM Projectの『未来への咆哮』や『STORM』などといった楽曲は、もし仮に我が国が再度戦争状態に突入して、高卒以上の若年層を徴兵するようになれば、徴兵制度を説明するパワーポイントや従軍者を見送るパレードなどで使用しても全く違和感がないだろう。『STORM』なんて、ゲッターの部分をイーグルに変えればそのまま航空自衛隊のテーマとして用いることが可能なのではないか、とすら思う。



:::塹壕で花譜をききたくない

 という話をした後に、花譜の歌詞に戻ってみる。彼女の楽曲は、繰り返すがカンザキイオリ期に顕著な都市性が介在する。『過去を喰らう』にせよ『私論理』にせよ『畢生よ』にせよ、その歌詞は都市が平和な状態にあり、その中にある孤立やシニカルな視点、それらに覆いかぶさるようなな、観測対象としての架空の美少女……がある。これらを考察した時に私が直感的に考えたのはこの一言に集約される。

「私は塹壕で花譜をききたくない」

だ。そして私はどうも、この一言が冗談や洒落でなく、市民生活と対置される塹壕という空間の定義として、その精神性を探る上で有益な視点ではないか? という気がしているのだ。

 例えば現実の第二次世界大戦において日本軍は連合国向けにプロパガンダ放送をした。『東京ローズ』の名で知られる彼女らは英語話者の女性で構成され、英語によって連合国兵士の士気を削ぐ目的で、郷愁を煽るような放送を行った。第二次世界大戦のみならず、各地で起こった近代的戦争においてはこの東京ローズに似たようなプロパガンダ放送が行われることが多々ある。名前をあげるだけでもウィリアム・ジョイス(ホーホー卿)、枢軸サリー、ソウルシティ・スー、ハノイ・ハンナ、南京の鷲などがある。その文章の中身は色々あるだろうが、ハノイ・ハンナを事例としてあげてみたい


G・I・ジョー(米軍兵士の総称)のみんな、ご機嫌いかが? あなたたちの殆どが、何の説明も受けないまま、このロクでもない戦争に連れて来られたんじゃないかしら。訳のわからないまま戦争に行くように命じられて、ここで命を落としたり、大怪我を負って一生を台無しにするのって、意味がないじゃない。


 このような中身を朗読した後に、米国の反戦歌を流すような放送を北ベトナムは行った。それは先述したように、兵士たちの郷愁を煽るためであり、その効果的な、戦意を削ぐ手段として「戦場にいる兵士に故郷を思い出させ」かつ「戦場という空間の異常さを強調する」のである。

 私が

「塹壕で花譜をききたくない」

 と言った理由がここで理解出来るのではないかと思う。例えば花譜の楽曲『私論理』に登場する”スクランブル交差点”や”ハチ公像”は、戦争状態となった日本においては無事にそのままである保証はどこにもない。楽曲『過去を喰らう』においては


過食気味の胸で泣いちゃって


 とあるが、これも戦場では想像し難いシチュエーションであるし


夢や希望はなんだった? やりたいことはこれだった?

過去が僕らを待っている 貪欲な顔で待っている


 という歌詞も違った意味合いを持つようになる。徴兵された兵士にとって「夢や希望」を語り「やりたいことを考える」などというようなであろう。

「過去が僕らを待っている」

という歌詞さえも、塹壕に潜む兵士たちが過去に営んでいた市民的生活への郷愁と羨望を煽る意味合いに変化する。

二番の歌詞はさらに意味合いが意味深長に変化していく。


反抗期だと疎まれた子供たちは復讐に走り

意味にすがる腑抜けた大人たちは歌を歌いたがる

若さを強いて貪る惰眠 気づけば爪が剥がれ落ちる

雨が好きだった理由も 好きな歌も忘れ去った


 この歌詞は戦時下においてはもはやジョン・レノンの『イマジン』に等しい。いや、寧ろ『イマジン』よりもリアリティを持ち、そもそもが戦争を意識されていないが故に、尚のこと塹壕の兵士、彼らが所属する塹壕の共同体への強烈な攻撃たり得る。

『未来への咆哮』や『STORM』が従軍パレードで流される中、反戦左派団体などが持ち出すとすれば私はこの『過去を喰らう』だと考える。「意味にすがる腑抜けた大人たちは歌を歌いたがる」の部分は従軍パレードに対する最大の攻撃として機能することであろう。



:::市民的共同体と塹壕の類型人

 ここで私はエルンスト・ユンガーの理論を想起するに至った。

 彼の難解極まりない書物『労働者――支配と形態(Der Arbeiter. Herrschaft und Gestalt)』やその他書籍において、戦場における体験を基礎とした思想理論を展開する。空前の、人類が初めて体験する総力戦という異常な状況下においてユンガーは、塹壕の中にある単調な労働過程が凝縮されている即物的で機械的な戦争から、いわゆる左翼的な意味合いとは異なる、独自の”労働”観を抱くに至った。

塹壕においては上下の身分が塹壕の共同体の中で混合することで特権階級の意義が失われ、全ての兵士が労働者となって機能する。この徹底して即物的な塹壕という空間において市民も貴族もなく、ただ一つの類型人となる……。このユンガーの労働者及び総動員のビジョンで明示される塹壕の共同体・類型人に対置されるのは、先述した花譜の楽曲――その世界観の基礎にある、平和な市民的生活ではないだろうか。ユンガー的な世界観において逆説が機能を果たすことはない。銃を撃つのであれば、銃を撃つというただただ一元的な一つの行為しか残されておらず、銃を撃つという行為の逆説はただの銃後の、市民生活における妄想でしかないからだ。

 一連の連想ゲームにも似た――それは半ば妄想的な――思考の連鎖は、ユンガーの労働観、ひいては塹壕vs市民生活の対立、その対置を露わにする導引の役割を持ち得るのではないか……といったところで、このテキストの記述を終えたいと思う。

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