プライディズム(リアリズムの対義語として)

 フランシス・フクヤマが『IDENTITY』という本の中で”テューモス”なる概念を上げて現代政治を語っている。




《引用開始》

テューモスとは、尊厳の承認を渇望する心の働きである。「アイソサミア(isothymia=対等願望)」はほかと平等な存在として尊敬されたいという要求(=demand)を、また「メガロサミア(megalothymia=優越願望)」はほかより優れた存在と認められたいという欲求(=desire)を意味する。現代の自由民主主義諸国は、最低限の尊厳を平等に認めると約束し、おおむねその約束に従って行動しており、それは個人の権利、法の支配、参政権として具体化されている。しかし、民主主義国に暮らす人が実際に平等な尊敬を得られる保証はない。とりわけ、社会の周縁に追いやられてきた歴史を持つ集団の人々は、尊敬を得るのがむずかしい。国全体が尊敬されていないと感じて人々が攻撃的なナショナリズムへ向かうこともあれば、信仰を持つ人たちが自分たちの宗教が軽んじられていると感じることもある。したがって、アイソアミアは今後も平等な承認への要求を駆り立てるだろう。この要求が完全に満たされるときが来るとは考えにくい。


もうひとつの大きな問題がメガロサミアである。自由民主主義諸国は、かなり首尾よく平和と繁栄をもたらしてきた(最近は以前ほどではなくなってきたが)。これらの豊かで安全な社会に暮らすのは、ニーチェの言う「最後の人間」、「胸郭のない人間」であり、こういった人間はものを消費することで得られる満足感を飽くことなく追い続けるが、自分の核に何かがあるわけではなく、自分が目指したり、そのために自分を犠牲にしたりする高い次元の目標や理想を持たない。そしてこのような生き方は、すべての人間を満足させはしない。メガロサミアはほかから抜きん出ることを目指す。大きなリスクを冒し、とてつもない闘いに加わって、目覚ましい成果をあげることを求める。そうすることで、ほかの人よりも自分のほうが優れていると周囲から認められるからだ。これは、リンカーン、チャーチル、ネルソン・マンデラのようなヒーローを生むこともあるが、カエサル、ヒトラー、毛沢東のように、国を独裁と不幸へ導く圧政者を生むこともある。

《引用終了》





 この理屈それ自体は面白い。

政治学の人間らしい規模感の大きい話のように思う。

 しかし、この論法には一つの大きな問題がある。

 それは経済における南北問題である。

南北問題とは何かと言われれば、北側に位置する国家が工業化を進展させて先進国の仲間入りを果たす中で、赤道直下或いはその周辺の暑い地域では経済発展が起こらず、途上国として扱われているという実情に対する端的な表現である。

この南北問題の論点として非常に面白いのが、例えば同一国家内部(北フランスと南フランス、北イタリアと南イタリア)においても南北で経済格差が生じているという語り口が存在しているということである。

これは仮に、EUをEUという一つの国家として見做した場合に、例えばドイツやフランスのような北の先進国に対し、EUの最末端周縁部分としてのスペインやギリシャは経済格差が生じているという議論を行うことも可能だ、ということになる。


 私がこのフランシス・フクヤマのテューモスの問題に対して議論が不足していると感じるのは、この南北問題……ひいては、風土性に纏わる経済問題を意図的か無意識にかはともかく捨象しているのではないか?(思想領域に話を導引して現実の風土性を無視している)という部分にこそある。

つまり、国家やその集団にアイソサミア・メガロサミアという一種並列に存在する思考があったとして、ここで曰く「攻撃的なナショナリズム」に走る場面があるとした場合、そもそもの地域・風土の問題から

「現代の自由民主主義諸国は、最低限の尊厳を平等に認めると約束し、おおむねその約束に従って行動しており、それは個人の権利、法の支配、参政権として具体化されている」

という、括弧付きの自由民主主義を実現出来ない地域(仮に実現した場合、大規模な混乱が予想される地域)においては、そうした状態は再現出来ない=結果として、自由民主主義に触れた「が故に」攻撃的なナショナリズムに転換される可能性を検討していないのではないだろうか。

こうした事例を語ると、どうしてもイラクやリビアにおける政変をイメージしたくなるし(実際それは念頭に置かれている)それは仕方のない話ではあるが、これらは決して途上国とその周辺に限った話ではない。

(私は具体的な事例としてロシア連邦や中華人民共和国、そして南米諸国家を挙げることが可能であるし、読者によっては他の地域が思い浮かぶ可能性もある)


 例えば仮に日本国内を引用事例として挙げる場合には、日本本州本土と沖縄・北海道という軸が表出するであろう。

 つまり、日本国家内部において「平等ではない」=アイソサミアが満たされていない地域が存在している。そうした自負・自意識を強調される場面が存在した場合、既存国家内部において、フランシス・フクヤマの言う「攻撃的なナショナリズム」が成立し、国家から離脱する等の事態が生じることは十分に検討し得るだろう。

(この場合、スペインのバスク独立運動やイギリスにおけるスコットランド独立。そして無論、典型的な事例としてイタリアの南北格差を挙げることが可能である)


 そして、仮定として引用された日本内部における南北問題は、パースペクティブを変更すれば(先述のように)EU内部におけるスペイン・ギリシャとドイツ・フランスの経済格差という問題を論ずることが可能になる。

これら一連の南北問題を根本的事由とする経済格差、そして経済格差の内部解消の困難さを理由にした「国家としての現実主義」は、はたして「攻撃的なナショナリズム」を身に纏った南側にとって、どのように映るのであろうか?

無論、経済的軍事的リアリズムというのは非常に強固なものであるが、そのリアリズムに従った結果、常に精神的抑圧を受ける集団が、ある固定の地域に存在し続けた場合、それは「攻撃的なナショナリズム」に転換する可能性を否定出来ない。


 問題となるのは、経済的軍事的リアリズムはあくまでその地域を含めた「総体としての認識」であるということであり、つまりそうした末端(人間的に、ではなく国土としての先端である)の人々にとって「それ(日本国家)は我々の総体ではない」という認識が立った場合には、その末端集団は独立を企図するであろうし、あくまでこれはリアリズムではなくテューモス(=尊厳の承認を渇望する心の働き)の問題なのであるから、経済や軍事といったリアルな要素はあくまで、批判に使い得る材料でしかない。

そして少なくとも我が国が民主主義国家である以上、地域が民主主義的な帰結によって独立を選択しようとする場合、これを否定するのは「政治的少数者への弾圧行為」になり得るのである。


 こうした現実主義(リアリズム)に対立する語彙として私は誇り主義(プライディズム)という概念を提唱する。

これはアイソサミア・メガロサミアという二語と似ているようでかなり違う。そもそも現実主義(リアリズム)という言葉自体が既存のものであり、そしてこの語彙に対義語がないが故に、便宜的に定義されるものだからである。


 現代において現実主義(リアリズム)を振り回す人間のもっとも愚かしいところは、自分自身が帰属する「総体」に対する無謬性・無批判な態度を固持し、そこに変動を加えないという、メガロサミアの観点から優越しているという前提を崩さないことで、末端周縁部の人々のアイソサミアを侵害しているということにある。

仮にそうした末端周縁部の人々がリアリズムではなくプライディズムを優先して政治的行動を取った場合に「現実として」彼らは困るかもしれないが、それは同時に「総体としての我々も現実として困る」のである。


 これらの論点は、無論パースペクティブを変更し得るだろう。

 例えばEUにおいてはスペインやギリシャが離脱した場合の問題点を検証することが可能であるし、またG20。大国同士の連合とその会話については、ナショナルな風土性(ロシアは寒く、中東は砂漠があり暑く……)に対し、経済的な支援と援助が必要であり、そしてそれは場合によっては「真正面から国家のプライディズムを否定した上で」実行されなければならないのではないだろうか。

これは現実に事例がなかったわけではない。

前世紀における日本やドイツは実際に、そのような過程を経て、自由民主主義国家としてのアイデンティティを獲得し、ナショナルなプライディズムをかなぐり捨てることになったのである。


 もしこのプライディズムを、アイソサミア・メガロサミアという軸に似たような論理展開で話をするのであれば、実経済や実戦争(正規戦)はリアリズムが支配するが、そうした実経済や実戦争を引き起こす根本的なものはリアリズムではなく、プライディズムなのである。

そして、リアリズムをプライディズムが追い越す瞬間があるのであれば、それはリアリズムの領域でプライディズム・テューモス(=感情の領域)を解決出来ない瞬間なのである。


 そして、実戦争によって国家のプライディズムをへし折るというのは、少なくとも21世紀国際政治では許されたことではない。

(イラクにおいてアメリカが実行しただろう、とも言えるが、ではイラクは今や立派な先進国グループの国家であり民主共和制が根付いた地域になったのか、と聞かれれば、明確にそれはNoであろう)

 これは逆方向に、パースペクティブを縮小した場合に、末端周縁部の政治的動向を冷笑的に見ることに対する明確な非難たり得る。

つまり、仮に日本であれば沖縄や北海道が末端として優れた経済活動が出来ていないのであれば、それを支援し目を向けるべきは「総体である我々」=日本国家なのであって、彼らの自活を推奨するべきではない、ということである。

(と、言うより自活を許したらそれはもう独立したようなモンであり、フォークランドみたいになってしまう。それでいいのか? 英国の相手はアルゼンチンであったが、日本の相手はそうじゃないんだぞ?)


 少なくとも、一種のリアリズムから個々の地域のプライディズム・テューモスを否定するべきではないであろうし、そしてリアリズムは場合によってはそうした末端周縁部のプライディズムに寄り添う姿勢を持たなければならない。

一種の国際問題についても同様であり、仮に紛争が起きた場合、その地域のプライディズムがどのように否定され、そして何故リアリズムとしての発展を目論むことが許されない(=プライディズムが実戦争の引き金を引いた)のかを考察しなければならないのであろう。

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