第四の文学
文乃綴
【三島由紀夫関連】
三島由紀夫と同性愛
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この記事はWikipedia『平岡美津子』の項目と、複数の批評作品の要素。また引用が存在します。ご注意下さい。
またこれらは筆者・文乃綴のツイート文をカクヨム用にまとめたものになります。
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1970年11月25日。かの有名な三島事件を起こして三島由紀夫は壮絶な死を迎えるわけですが、今年は49年目になります。来年には50年目ですね。ところで、1995年には地下鉄サリン事件が起きており、来年はなんと東京オリンピックの年です。何もないと良いですね!
さて、三島由紀夫のセクシャリティについて、これは概ねバイ・セクシャルであったと考えて良いでしょう。妻を持ち子供も設けておりますが、同時に自身で語っていた通りの同性愛傾向も持っていて、福島次郎が三島との関係について『剣と寒紅』で小説にし、長男・威一郎氏に訴訟されていたりします。
表向きは、三島由紀夫と交わした書簡を無断で引用していることを理由としていますが……まぁ、入手して読んでいない以上、厳密に踏み込んだ話は出来ませんね。
三島由紀夫が私生活をとにかく開陳したがる人間であったことも同様に有名だったわけですが、同時に”語り難い要素”を非常に巧妙に隠すことの出来る人物でもありました。しかし、本人曰く『一種露出狂的な』と言うように、実はそういう部分もチラと文字に微妙に、微妙に読めるようにしてあったりもする。
こういうところ、一ファンとしてはやっぱり”たまんないなぁ”と思うわけで、調べていて飽きない人物であり、生涯を費やす人も後をたたないわけです。私もそうであるか? と問われたらそれは、どうでしょうね……私は上手いこと距離を取っているつもりでいます。一番大事なのは自分の創作ですので……。
そうした三島由紀夫の”語り難い要素”としてあげられるのが、三島由紀夫の妹である平岡美津子との精神的距離感、その関係性であります。
三島由紀夫の妹、平岡美津子は第二次世界大戦終戦の年1945年は10月23日に腸チフスで没するわけですが、丁度この時期について三島由紀夫は「仮面の告白」の中で語っている部分があるので、ここに引用してみましょう。
妹が死んだ。私は自分が涙を流しうる人間でもあることを知って軽薄な安心を得た。
―三島由紀夫「仮面の告白」より―
え? と思うかもしれません。文乃綴が仰々しく語るわりにこれっぽっちか、当て推量かそれとも主観か? と思われるかもしれません。早合点はよしましょう。話を聞いて下さい。
三島由紀夫が幼少の頃、親から離され祖母の元に育てられたことは本人が「仮面の告白」で書いていた通りのようですが、さて妹はどうだったかと言われれば、彼とは反対に実の親の元で奔放に育てられたようです。
さてそこでこの平岡美津子と同級生だった湯浅あつ子(三島由紀夫「鏡子の家」のモデルになった人物)曰く、快活で奔放。思ったことをハキハキと述べ、きかん坊でいたずらっ子であった……と言います。少し湿ったいような感じのする三島由紀夫の青年期とは対照的のように思えます。
その平岡美津子が腸チフスで亡くなる途上において、彼女は兄・平岡公威に対し
「お兄ちゃま、有難う」
とハッキリと言い残したと伝えられており、彼自身は勿論家族皆がその死を大いに悲しんだ……とあります。
ここで
「おや?」
と思われたなら、その勘の良さを褒めてあげたいと思うわけですが、外から見ても明らかに衝撃を受けていて、そのような印象的な一言を残していながら、三島由紀夫は「仮面の告白」でたったあれだけしか”述べていない”のです。面白いと思いませんか?
ここからは三島由紀夫本人の弁や或いは文学に寄らない外縁部……つまりその親しい人々や批評家による考察を辿っていこうと思います。
まず、美輪明宏の発言。三島由紀夫の妻・瑤子氏を見た際に思ったことというのが
「妹、美津子にそっくりである」
というものなのである。面白いと思いませんか?
三島由紀夫と交流を持っていた講談社の編集者・川島勝がその著書
「三島由紀夫の豪華本」
で述べたところによれば……
たまたま私の家内がその妹の美津子と女学校時代の同窓だった。母倭文重からその話を聞いた三島は「あなたの奥さん、うちの妹と同級だったんですって……よかったらいちど遊びにいらっしゃいませんか」と言った。(中略)この日は夕方までお邪魔をした。庭続きに住む両親の平岡梓夫妻も招んで、瑤子夫人の手料理の歓待を受けた。(中略)三島は父親と同席のときはたいてい聞き役に回っていたが、この日はとくに妹美津子と家内を重ねて当時のことを思い出していたのか心なしか寡黙にみえた。
妙な話である。三島由紀夫の有名な作品において、或いは彼自身の書いたエッセイの中では、自身で”露出狂的”とまで言っていた三島由紀夫の開陳癖がありながら、妹の記述は少ないのに、少なくとも親しい間柄の人間にとっては『三島にとって妹は重要な存在だった』というのが分かっているのである。
これはつまり
「喋りたがりの三島由紀夫があえて述べなかった、しかし彼にとって重大な要素が存在する」
ということを”推測出来る”わけです。あくまで推測……なのがこの場合は大事ですね。
さて、三島由紀夫は同性愛を作品の題材としてとることが多いのは皆さんご存知かと思いますが、この同性愛にはゲイセクシャルのみならず、レズビアンを題材にとることもありました。例えば彼の遺作『豊饒の海』四部作の三作目「暁の寺」なんかが、そうですね。
また、妹・美津子をモデルにした作品や、或いは彼女そのものを登場させた作品もいくつかあり、例えば『朱雀家の滅亡』『熱帯樹』『純白の夜』等々、周りが薄々そうではないか、と思いながら実際には言い出せない。或いははぐらかされるといったことがあったようです。
さてそこで私は三島由紀夫の短編小説『家族合せ』を引用したいのですが、諸所の事実や或いは発言を参照していると、ギョっとするような描写がこの作品には存在するのです。というのも、この作品……「兄と妹による近親相姦」の要素があるんです。
さて、また話は外周の部分。つまり批評家の目線にたちもどるわけですが、要素を整理しましょう。彼、三島由紀夫は同性愛者であり、妹を大事に思っており、その死を大いに悲しみ、後の作品の中で彼女を蘇らせる場面があり、しかし表立ってはそれを言わない。言えなかったということ。
「仮面の告白」の中で三島由紀夫は祖母の手によって事実上の家庭内別居のような形で成長し、そして十代になって初めて妹と同じところで暮らすようになったわけです。ここで私は野坂昭如という作家の批評を引用します。
十二歳で三島は、九歳の妹を持った。はっきり異性を意識したろう。それまで、祖母の妹たちの、いずれも子沢山の中の、女の子たちと遊ぶ機会はあっても、祖母の傘のうちでしかない。妹であればこその、男としての愛し得ない障害の予感が、三島を昂ぶらせた、保護者の快さもある、活字でしかしらなかった女の、初々しいながら、すべての萌芽を妹はしめす。
美津子にしても、女の勘で、およその事情、兄の立場を理解、のみこんでいた。弟よりはるかに消息通だった。風変りな、気の毒な人とながめていたのが、一緒に暮してみれば、三島の、いち早く切り替えた、両親の膝下にあっての良い子面のせいもあり、けっこう活発だし、なにより頭が良い。妹の目からすれば、知らないことのない印象。梓はほとんど家をかえりみない、平岡家にとにかく、男があらわれたのだ。他人の期待にそって、そつなく役割をこなすことは、およそ父性を具体的に知らぬながら、三島にはできた。美津子の求めに、先んじて応対するなど、なつのそれに較べいかに容易なことか。妹の満足そうな表情に、三島も充足感を覚える。「お転婆」「おしやま」「あきつぽさ」「わがまま」「驕慢」のそのすべてが、好ましい。しかも、中等科へ入れば、才能を認めた教師の寵を受け、はるか年上の文芸部員が、対等のつき合いをしてくれる。(中略)そして肩肘張ったその疲れを、美津子が癒した。
-野坂昭如「赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫」より-
このぼかし方!
作家ですよねぇ。つまり、少年・平岡公威は兄妹の意識が薄いまま、いきなり三つ下の少女と同居することになったわけです。そしてその感覚が、彼自身に”宿命的不能”を齎した、ということです。
これはつまり、近親相姦的感覚が十全にあった……というような浅い話ではありません。そうした弱い性的願望の小さな小さな芽のようなそれを大津波のような自己嫌悪、自己否定が襲いかかったわけです。自身の性的機能の、その内包する凶器性をさえ自覚せざるを得なかったのです。
そうした、自身を制したいという感情と、彼の語るナルシズムと、近親相姦的な禁忌なる性的欲求……そうした意識のこじれた先に、彼の同性愛が存在するのではないか、という一つの考察が出来るわけですね。
これら諸所の考察は断定的に語ることのできる要素ではありませんが、日本戦後右翼のイコンたる三島由紀夫の人間味。その潔癖症とも言える脅迫的な性的観念のその根本には、近親相姦的な欲求に対する強烈な自制心が介在したのではないでしょうか?
さて、話は最初の「仮面の告白」に戻るのですが、実はこの作品における園子のモデルの一部には、妹・美津子との回想も含まれているのではないか? という考察が存在します。もしそうであれば、あの「仮面の告白」のヒロイン・園子の要素こそが妹の要素とも考えられるわけです。
「仮面の告白」をお読みであれば皆さんご理解頂けるかと存じますが、園子との断絶・別れが起こったその次の章の開幕で、妹の死が記述されるのです。園子のモデルと言えば三谷信の妹・邦子であると言うのは有名な話ですが、私が幾度となくあの作品を”自伝的小説”と呼ぶのは、そうした要素があるからです。
この上で「仮面の告白」の話を追記するなら、そもそも「仮面の告白」の導入シーン……私は生まれた時の光景を見たと思っていた、という部分について父・梓が
「適当なことを言って」
という趣旨の言葉を残していますが、これは逆説的に言えば
「この作品は自伝ではない」
ことの暗喩ともとれます。
また先述した三島由紀夫の短編小説『家族合せ』においては、導入シーンで妹が人形に家族としての名前をあてて”家族合せ”という遊戯をしている描写がなされるわけですが、これも”このお話はフィクションです”という入れ子的な暗喩とも取れるわけです。
はい。断定出来る要素は消失しました。
ここまで全て私や野坂昭如やその他の人物の妄想、でもいいんです。でも、面白いでしょう。語りたがりが語るのを忌避する要素、というわけです。
以上。
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