思想の没我性に関するメモ書き
思想の始まりとは何であろうか。
無論、歴史学的分類学的観念から思想の始まりを論ずることはできるであろうし、そしてこの議論には際限がない。言うなれば『宗教の起源』論争と同様の性質を持ち、実存を考察するのに適していない。つまり、それは”ある”という仮定の下で話を進めていった方が良いだろう。
そのため、ここでは思想の始まりを「肉体を持ち思考する何者かが、その肉体の所在を開始地点として考えた物事」であるとする。
この思考。
本来の人間にとって思考は不可欠かと言われればそれは是であるが、非実学的思考が不可欠かと言われれば即座の返答は許されない。ただ言えるのは、こうした思想なるものの開始地点はある種の余暇・余剰から生じるものであると仮定した方が話がすんなりと進むような気がする。
ギリシア哲学の始まりとは、文明が高度に構築され都市が発展し、奴隷労働によって知識層に余暇が生まれたことを開始地点に置くことが可能であろうし、例えば宗教としては仏教の始まりは血族によって固定された階級(カースト制)のある程度の確立が知識層に思想するだけの余暇・余剰を与えたことを開始地点に置いても良いであろう。この地点から考察する場合、アブラハムの宗教(ユダヤ教)の起源が余暇・余剰の発生によって生まれたことの証明ができないという部分を差し置いて(後の課題として)考えることになる。
(ただ、キリスト教の発生その起源をユダヤ属州の発生によるユダヤ人の余暇・余剰の発生とそこに起因する運動であると捉えることは可能である。また、こうした前提を考えた時にイスラム教の成立の独自性を見出すことも可能であり、イスラム教の成立は実のところチベット密教に非常に近いものがあり、また過程としては日本における仏教の独自発展を見出すことも可能である。無論、これらの論点は比較宗教学の主たる題材であることを認めざるを得ない)
そうして思想が開始される。
思想を開始する、肉体を持つ何者かが、その肉体に端を発する思考を開始する。
これはつまり、アイデンティティ政治的な部分は変動させようがないという根本的な観念(考え方)が存在している。
つまり、ギリシア哲学者はギリシアに生を受け、このポリス(都市)の中で思考することを余儀なくされるという当然の事実であり、インド亜大陸に生を受けた場合にはカースト制やこの独自の気候を基礎に置かざるを得ない。
しかしここで問題が発生する。つまり、肉体は公に共有可能な資源ではないということだ。これはどういうことかと言えば、肉体を持つ何者(仮にこれを”ディオゲネス”としよう)かが思想を開始した時、その思想の根幹にある”ディオゲネス”のパーソナルな、個人の領域が存在している以上、その個人の領域を全的に共有することは事実上不可能であるということだ。
(これはSF的な論点になるが、思想を持っていた一個人の脳を機械学習によって再現したとしても、それは「思想を持っていた一個人の脳を機械学習によって再現したもの」という独自のアイデンティティが成立してしまうため、イコールの何者ここで言うならばディオゲネスたり得ないのである。これはあくまで「再現されたディオゲネス」であって、ディオゲネスそのものにはならない)
しかし思想が後世に残るためには、このパーソナルな、個人に纏わる領域が捨象されなければならない。その個人が保有している思想はその個人の死によって消滅するのであるから、思考が『思想』としての形を持つことはない。
つまり、思考が思想として成立する過程とは「思考がその肉体性を捨象すること」であると定義することが可能になる。
思想の始まりとはあくまで「肉体を持ち思考する何者かが、その肉体の所在を開始地点として考えた物事」であるが、その開始された思考が思想として変化していくにはその肉体性(肉体そのもの、肉体に纏わるもの)が捨象されなければならない。
この思考が思想として成立する過程を考える場合、歴史的事実がこれを証明する。つまり、キリスト教は本来ユダヤ人の宗教であったが、後世のある段階からはローマ・イタリア領域へ。そして欧州、白人層の主要な思想として成立し、ユダヤ人の問題であったという『肉体性が捨象された』ことになる。
インドにおける仏教も同様で、インド亜大陸においては現代においてもヒンドゥー教が優勢であるが、シルクロードを辿って中国、中国から朝鮮半島と日本へと渡って一つの勢力を築き上げているし、高い山を伝ってチベット密教が生み出され、また小乗仏教の概念は密林を伝って現代でも東南アジアで一定の勢力を有している。
逆にイスラム教はこの意味合いからすれば『肉体性を捨象し切れていない』という実態がある。つまり、イスラム教の教えは土地と風土の厳しい地域でのみ続き、存立こそしたが、先進国において主体的な地位を現時点で得ることができていない。これはイスラム教の教えそれ自体が厳しい風土の中で生き抜くための教訓であるがために、厳しい風土という肉体性を捨象できず、結果として厳しい風土以外では継続せず、そのために『途上国の思想』となってしまった。これは逆説的に、もしこれら厳しい風土が消失した場合にはイスラム教の教えは存続し得ないのではないか? という問いかけにも繋がる。
これらを前提において
思想の開始地点とは
「肉体を持ち思考する何者かが、その肉体の所在を開始地点として考えた物事」
であるが、この思想が思想としての形式を持つためには
「思想がその肉体性を捨象すること」
という過程が必要になるということになる。
ここで便宜的に、個人が始め肉体性を有しているものを”思考”とし、肉体性が捨象された思考を”思想”として置く。
この仮定を前提として置く場合……つまり、思想や理念が継続する条件に肉体性の捨象が前提とされる場合に我々が考え得るのは、自分自身の思考から如何にして『自分自身の肉体性を捨象するのか』を考えないことには、その”思考”は”思想”にならないということになる。
映画『Vフォー・ヴェンデッタ』の中で
「理念にキスはできない」
という言葉があるが、これはこの議論のそもそものタイトルである「思想の没我性」そのものを表す端的な文言として提示することが可能になる。
つまり我々は「思想にキスをすることができない」のである。
何故なら、思考が思想として成立したその時点で、思想は肉体性を捨象……つまり、肉体性を失っていなければならないからである。
これを前提として置いた場合、我々は過去の偉人の”思想”に触れることはできるが、その”思想”はあくまで”思想”であって”思考”ではないために、過去の偉人の肉体性それ自体に「キスをすること」ができないのである。
これらを前提として逆算するのであれば、自分自身の思考を思想として後世に残す最大要件として「自分自身の思考が持つ肉体性(=自分自身それに纏わる要素)を捨てなければならない」という要素が挙げられるようになる。
この現象を前提に置くと、十字架にかけられたイエスそれ自身や、自分自身の地位を捨てたゴータマ・シッダールタや、大乗仏教の創始者となるナーガルジュナの地位を捨てる(=肉体性を一部でも捨象しようとする)行いそれ自体を論理化することが可能になる。何故なら、思想を後世に伝えるためには肉体性が捨象されていなければならないから……である。
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