普遍と辺境 -文明における思想家の精神的位置について-

1:序文 -普遍主義とは何か-

 構造主義的なアプローチとして、枠組みが何を生み出し、何を目的としているかを考える場面がある。詳しくはアントニオ・グラムシが始め、詳細をピエール・ブルデューが詰めた『再生産』にあるが、社会構造それ自体がある特定の思考及び嗜好を持つ、社会的に好ましい人間を生み出しているというのがグラムシ→ブルデューの論点であり、これらは複数の理論において参照がなされている。

 そうした前提を置いた上で、アラン・ド・ブノワ(Alain de Benoist)が2004年に公表したテキスト『人権を超えて——自由の擁護のために』(Au-delà des droits de l’homme: Pour defender les libertés,)のインターネット上に存在する翻訳文を一部引用させていただく。


ひとは時々にヨーロッパが世界にもたらしてきたもの、ヨーロッパをもともと特徴づけているものについて自問する。おそらくは最もよい答えは、それは客観性の観念である、というものである。以下の残りのすべてはそこから派生してきたものである。人格の理念と人格の自由、特殊な利益と区別されるものとしての共通善、公正さの探求としての正義(いわば報復とは真逆のものである)、科学の倫理と経験的所与への敬意、世界について思考し、自分自身で事物の意味を問いかける人間の能力を讃える、信仰から解放されたものとしての哲学、距離の精神と自己批判の可能性、対話の能力、真理の概念それ自体。


(※この記事の執筆者・文乃綴による強調の追加※)というのは、この客観性の堕落態である。客観性が特殊な事物を出発点にして獲得されるものであるのに対して、普遍主義は恣意的に措定された観念を出発点に特殊性を規定しようとする。存在から義務を演繹しようとするのではなく、反対の方向に進むのである。普遍主義は事物を客観的に取り扱うことを事とするものではない。奇矯な抽象から出発して、そこから帰結するのは、事物の自然本性に対する知である。それは主観性の形而上学による倒錯した体系の誤りを象徴するものである。


 そのまま上記引用文を要約すれば……欧州が世界に齎した最たるものは客観性の観念であり、特定特殊の利益ではない共通の善、公正さの探求としての正義、或いは真理それ自体も、これらの概念はまず第一に客観性から派生している。その上で普遍主義とは何かと言えば、恣意的に措定された観念を出発点に特殊性を規定しようとする。

つまり、客観性とはまず特殊な何かを出発点にして獲得されるのに対し、普遍主義は出発地点が恣意的であり、恣意的なものから特殊性を規定する。演繹法ではなく出発点ありきの帰納法的な思考であるという。……こうした記述から始まり、アラン・ド・ブノワはいわゆる”人権”と呼ばれる概念が政治的に恣意的に運用・定義された普遍主義の産物であることを述べていく。

彼、アラン・ド・ブノワはフランスにおける極右と目されており、民族主義シンクタンク『GRECE』のリーダーとされている。

 現代において自明とされてしまう論理が多数ある状態にあって、その自明自体を疑うこと。客観性の徹底、普遍主義の否定を述べるわけだが、では何故この”恣意的な出発点から特殊性を規定しようとする”普遍主義的な思考が生まれ得るのかについて述べていく。

(恐らくだが、アラン・ド・ブノワはどこかでこのテキストのような記述を行っていると思うのだが、何せ未邦訳の範囲があまりに多い。仏語勉学者にとっては当然の範囲であったなら申し訳ない)

 人権概念や民族の定義。或いは恐らく彼が言う”特殊性の規定”の範囲の中にあるであろうLGBTの定義等について、これは発信され大きな社会運動に結実しつつある地域でも賛同する集団とどちらでもない集団(これが中間的な層だろう)と反対する集団とがあり、普遍主義と言いつつ、普遍の語彙が示す少なくとも”全て”の範囲の中にこうした普遍主義的概念は入っていないように思われる。であるにも関わらず、これら概念が普遍的なものとして流通し、或る種自明、或る種論議無用といった態度を取りながら流通する――先のG7において、駐日アメリカ大使がLGBT法案可決を主張したように――のは何故なのか。

これは勘違いして貰っては困るのだが、アラン・ド・ブノワは人権それ自体を否定しているのではなく、人権概念が普遍主義から始まり恣意的に定義され押し付けられることへの是非を説いているものであり、それはこのテキストについても同様である。即ち、LGBT周辺の議論それ自体を全否定するのではなく、普遍主義的な開始地点から自明・論議無用という空気を伴って流通していく過程についての是非を説いている。

また、執筆者の目的をここで明かすならば、普遍主義的アプローチの出発地点と、それに対比すべき辺境的思考が存在し得るということを述べていくのがこのテキストの目的である。


2:普遍主義の故郷

 人権、自由、民族とは通常その文言自体が何か固定的な意味合いを指すように考えられがちであるが、実際にはそれら概念は固定的ではない。現実の問題として人権を条文に掲げている憲法を持つ国家であれ人権侵害は起こるものであるし、人権概念について裁判で争われる場面もある。これは民族という概念にしてみても同一で、そもそも民族とは血を指すのか文化を指すのか、或いは血と文化の組み合わせを指すものなのか? これは時代が進んでいく毎に曖昧になっていく。血で定義するのであればこれはナチス・ドイツが声高に主張していたにも関わらず、ナチス的な思考が生まれる土壌であったドイツ帝国それ自体が移民国家であり(フランスのユグノーの末裔はWW2時点で同国に存在している)当時のイタリアの指導者であったムッソリーニでさえ

「ナチス・ドイツが述べる民族などどこにも存在しない」

と皮肉を言っているのが現実であった。

 しかし、ナチス・ドイツが主張した民族純血主義が開始されたその時点で既に破綻していたにも関わらず開始され、そうした思考が最終的にホロコーストを生じさせたという事実は非常に興味深い。彼らナチス・ドイツの民族理論は実態に合わせたものではなく、あくまで理論上のものであり、彼らはそれをとして法律的に民族を定義し(ニュルンベルク法)運用したのである。

現在の英米圏で起こる性の定義や民族の定義が即ちホロコーストである、という主張をするのは非常に乱暴であろうが、その過程が”恣意的な出発地点から導き出された帰納法的結論”であったということは全くの事実であり、同一ではないが韻を踏んでいる……と表現するに値するであろう。

 つまり普遍主義的アプローチとはそもそも国家や団体、集団のを出発地点として定義されるものであり、そうした論理が自明・論議不要の態度を取るのは他でもない、出発地点それ自体が権力を持つ何らかの勢力によって発せられているからである。その理論に反対することそれ自体が、出発地点となる権力への反対の意を示すことになる――これが仮にナチス・ドイツであれば、同国家の民族定義に逆らうということはナチス・ドイツという国家それ自体に逆らうということになる。


3:普遍主義の対比的概念としての”辺境”

 しかし現実の問題として、そうした普遍主義的アプローチから開始された概念は実際には「全ての~」の意味合いとしての普遍性を獲得することはなく、あくまで「広い範囲で~」支持を受けるという意味合いでの普遍性を獲得するのみに至るのは、他でもないこの普遍主義的アプローチから開始された概念の出生地においてさえ全面的な支持を得ているわけではないからで、現実にナチス・ドイツの民族定義も全般に受け入れられたとは言い難く、反対者は亡命をしてでもこれらナチス・ドイツの普遍主義的概念を受け入れなかったのである。

これは現在の英米における普遍主義的概念にも同一のことが言え、性定義や民族定義に反発する勢力は現地にも存在し、では何故そうした普遍主義的概念が他でもない「広い範囲」の支持を受けると吹聴するのかと言えば、これは英米から見た海外に支持を受けており、それはアラン・ド・ブノワの住むフランスやドイツその他欧州国家。或いはアジアであれば日本、韓国、台湾といった西側先進国に該当するであろう国家の中に支持層を持つことから、である。

つまり、現代における(それこそアラン・ド・ブノワが非難するような)普遍主義とは殆ど国際主義と同義であり、ナショナリティの枠組みを超えたグローバル範囲での支持を普遍主義として解釈するべきであろう。

 二十世紀とはナショナリズムと国民国家の時代であり、近代的な国家を保有しなかったにも関わらず、或る種のナショナリティ……ナショナリズムを持った集団が何らかの政治的行動に出る場面も多くあったわけだが、現代においては普遍主義=国際主義集団と、それぞれの国家に在所を置くナショナリズムとの対立が起こっているという実態を指摘せねばなるまい。

普遍主義=国際主義とは「世界に支持を受ける」という、いわば売り文句と呼べるものが付随するが、実態としては国際主義的な世界の人々に支持を受ける……正確を期すならば”進歩的な人々に支持を受ける”ということになる。

 ここで再度言明せねばならないこととして、民族の定義とは本来非常に曖昧で、確固たる定義はなく、あくまで主流派の定義があるのみであるという事実がある。それと同様に、ナショナリズムなるものが国家の産物であるというのも、あくまでそれは国民国家形成に至る十九~二十世紀の発想であって、現実には既存の国家の枠組みを超えたナショナリティ……ナショナリズムを持った集団は存在する。それは現に独立運動を行う英国におけるスコットランドやスペインにおけるバスク・ナショナリズム。我が国であれば沖縄等、複数存在する。

で、あれば……国際主義とそれを支持する集団とは一種のナショナリティ、即ちナショナリズムを有するナショナルな集団であると定義するべきではないだろうか?

そうした時に、普遍主義=国際主義とは対比的な、対置される概念とはナショナリズムであり、このテキストにおける普遍主義に対する辺境。言うなればなるものとなる。つまり、国際的な連帯……複数の国家が同一の行動をとる(べき)という発想、国家の枠組みを超えたという一点から団結する進歩的人々とはそれ自体がナショナルな集団であり、過去にナチス・ドイツが恣意的な出発点から民族を定義したように、彼ら進歩主義的集団が恣意的な出発点から性や人権、或いは社会生活それ自体を定義しようと試みるというのはあり得る話であり、実態として徐々にそれは浸透しつつある。

 これはいわゆるポストモダン哲学にも同一のことが言え、ポストモダン哲学とは実態としては進歩主義を内包した集団が進歩目標を失った(いわゆる”大きな物語”)が故にその状況にアプローチをかけるというのが主題にある。しかしこれは前提として進歩主義があり、進歩主義的アプローチが困難になったという前提(モダニズム=近代進歩主義を否定)を共有する集団にとっての哲学である。ということは、ポストモダン哲学という枠組みそれ自体にコミットメントするということは、進歩主義的世界観その枠組みに参加することそれ自体を指すということになる。これは一神教を否定したマルクス主義が他でもない一神教を内包した思想となったのと同様である。そして、ポストモダン哲学がそうした恣意的出発点(=この場合、進歩主義的アプローチの困難性)から始まっている以上、それは国際主義=普遍主義=進歩主義の集団その権力に対しYes/Noを突きつけるニュアンスを伴うことにもなる。

 それに対し、アラン・ド・ブノワのアプローチとはこの国際主義=普遍主義=進歩主義アプローチを「恣意的な出発点から発せられる客観性の堕落態」と定義しているため、普遍主義(複数国家連帯)に対し辺境(フランス国家)の位置から反対意見を述べるということになる。

即ち、普遍主義とは普遍主義=国際主義=進歩主義の形態を取るのに対し、これに反対する意見を述べる場合辺境=ナショナリズム=反動主義の立場を取るということになり、こうした図式からナショナリストが取るべき手段というものが明示される。加えて言えば、国際主義の連帯というのは或る種有無を言わさぬ……それは先述したように、自明・論議無用の態度を取るのに対し、それに反対する場合には客観性を持ち、現実問題としての形態を思考しなければならなくなる。

 そしてこれは面白い話になるのだが、国際主義に対抗する辺境的位置にある思想家は同時に「自らが辺境的位置にある」という自認を持つ人々と連帯することが可能となる。それは何故かと言えば、辺境=ナショナリズム=反動主義の人々はあくまで個別の事案として概念を議論するという立場を取り、相互の国家のナショナリティを否定することをしない(それは客観的ではない)ため、普遍主義=国際主義=進歩主義に対抗し議論するという点において協調姿勢を取るのは理論上、全く矛盾しないのである。

それ故にアラン・ド・ブノワは複数国家の右派と連絡を取るし、ロシアの極右思想家アレクサンドル・ドゥーギンとの交流もあり、グローバリストが国家間の交流を担うのと同様に、ナショナリストがナショナリスト同士で連帯する、いわば辺境同盟が成立するのである。


4:辺境連立の構築に向けて -辺境位置を自認せよ-

 一連の前提を置いた時に、既にナショナリストなる人種は(グローバリストがそうであるように)国家の枠組みから外れた一種の概念であり、ナショナリストが常に国家を擁護し、熱狂的・国粋的な主張を行うというスタイルそれ自体が陳腐化したものであるということが良く理解出来るであろう。民族=国家であるというテーゼはあくまで旧世紀の産物であり、現実には自らが帰属するものの定義それ自体が個々人によって別個である可能性すら検討可能である。そして、そうした議論を可能とするのは、恣意的な出発点を排除し、客観性を持つためにこそ、自身の立ち位置(即ち――辺境位置)を持たなければならないということになる。何故ならば、少なくともこの普遍主義=国際主義=進歩主義のいわばは意図的にか無意識にかはともかく、個々に存在するナショナリティを無視し、文化侵略を企てるのだから、我々ナショナリストは断固たる決意をもって『文化防衛』を行わなければならない。そして、英米普遍主義が存在するように、同時に英米にも辺境は存在し得る。そうした認知抜きに、現代のナショナリズムを語ることは不可能であろう。

 世界に開く論理的な、客観的目線を持つナショナリストこそが、二一世紀のナショナリストなのである。





最後に:引用させていただいたテキスト

Open Library of Project Kumārajīva様

アラン・ド・ブノワ『人権を超えて――自由の擁護のために』(1) 序文 ①

https://ameblo.jp/kumrajva/entry-12481282641.html

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