第18話 アビガイルのパン屋さん
店内に入ると、カントリー調の柔らかな色合いがいっぱいに広がっていた。
淡い茶色の壁紙に木製の棚やカウンター。布巾の敷かれた木製のトレーが棚に置かれて、その上にたくさん並べられた、色とりどりのパンにプレッツェル。
午後の遅い時間だからか、店内の客はまばらだ。私たちが入るのと入れ違いになって、
「わぁぁ……」
思わず私の口から感嘆の吐息が漏れた。
カウンターの向こうに立つ、頭に三角巾を付けた恰幅のいい
「Pot sa va ajute.」
「Buna ziua, doamna Widdowson.」
私に続いて入店したパーシー君が、カウンターの女性にぺこりと頭を下げると、彼女の表情がパッと明るくなった。
「Poate casa domnului Reston? Oh, a devenit mai mare!」
「Da, a trecut mult timp.」
頭に手をやりながら再び頭を下げるパーシー君の、その表情はどことなく恥ずかしそうだ。
なんとも親し気に声をかける女性の様子が気になって、私は後方のパーシー君を見上げる。
「パーシー君、親しそうだけど、知り合いなの?」
「こちらのウィドーソンさんハ、パーパの古いご友人なのですヨ」
はにかんだ笑みを浮かべつつ、私に語り掛けるパーシー君だ。
聞けば、この「ブリュタリア・ルイ・アビガイル」の店主であるアビガイル・ウィドーソンさんと、パーシー君のお父さんは、幼少期から共にパン作りを修業した仲らしい。
同じ市内で暮らす人々であるとはいえ、どこでどう縁が繋がっているか分からないものである。
「なんだかんだ言ってさ、パーシー君って顔広いよね」
「伊達にボクも、小さい頃から伯爵家デ働いていたわけではありませんカラ。色々なお店に顔が売れているんですヨ」
感心した私が零した言葉に、大仰に肩をすくめるパーシー君。その仕草はどことなく自慢げだ。
私とパーシー君の話す日本語を理解してかせずか、カウンターに肘をついて様子を見ていたアビガイルさんがにこにこと微笑みながら声をかけてくる。
「Ce sa intamplat cu prietena ta? In cele din urma ai un iubit?」
「Nu, nu. Ea este clientul meu. Sunt un calator din Japonia.」
アビガイルさんの言葉に、即座に、強い口調で返すパーシー君。顔の前で手を振る動作を見るに、彼女の発言を否定したようだが、それにしたって慌てているのが目に見えて分かる。
首を傾げつつ私は問いを投げた。
「パーシー君、何をそんなに慌てて否定したの? 私のこと何か言われてた?」
「サワさん、あなた本当ハ分かって言ってたりしませんヨネ? 『そちらのお嬢さんはどうしたの? 彼女?』ッテ聞かれたら、あなたならどうしマス?」
「あー……」
返された答えを聞いて、私は全てを理解した気がして頷いた。
つまり私は、パーシー君の彼女だと、アビガイルさんに問われたわけだ。それを彼女ではなく、クライアントだ、と否定したのだろう。
恋愛対象として見られていないことを話したのがつい先程。別に今更否定されても傷つく要素は微塵もない。
「Calator din Japonia? Este neobisnuit, nu a fost de ani de zile? Bine ati venit acasa la magazinul meu. Te rog, uita-te bine la asta incet.」
「あー……ごめんパーシー君、今あの人はなんて?」
アビガイルさんが私に話しかけた言葉の理解が及ばず、私はパーシー君を見上げた。
フーグラーに転移してきて、ドルテ語にあふれた世界に身を置いてほぼ丸一日。直接話しかけられたことも一度や二度ではないわけで、頻出単語はなんとなく聞き取れるようにはなってはきたが、まだまだ覚束ないのが現状だ。
「カラトゥル ディン ジャポーニア」くらいだろうか、今ので理解できたのは。
「『日本からの旅行者とは珍しい、何年ぶりでしょうか。ようこそ私のお店へ。ゆっくり見ていってください』……とのことデス」
「ありがとう。んっと、ムルツメスク」
翻訳してもらった言葉を聞いて、私は改めてアビガイルさんに頭を下げた。
にっこりと笑みを浮かべて頷いたアビガイルさんが、両腕を大きく広げて声高に主張し始める。
「Brutaria lui Abigail este pasnica, politicoasa si mereu pregatita. Gustul si calitatea sunt cele mai bune. Va rugam sa cumparati cu incredere.」
「Va multumim pentru promovare. Ce recomanda azi?」
大仰に腕を広げるアビガイルさんに、苦笑しながらパーシー君が言葉をかけると、すぐさま腕を戻したアビガイルさんがカウンター傍の棚に手を伸ばした。
指し示されたそこには、プレッツェルのような緩くリボン状に巻かれて焼かれたパンと、丸型でところどころに松の実らしき種が埋め込まれたパンが、トレーの上に並べられている。
「Covrigei de branza sunt coapte. O alta covrigi recomandata este painea cu nuci de pin.」
手を伸ばすアビガイルさんが、ぱちりとウインクした。
「Multumesc. 今日のおすすめハ、そこにあるチーズのコヴリッジと、そこにある松の実のパンだそうデス。コヴリッジは焼き立てだそうですヨ」
「へー……どっちも美味しそう」
アビガイルさんにオススメされた二種類のパンの傍に寄って、私はそれらをじっと見つめた。ちょっと感じ始めた空腹にビシビシ来る、よく焼けた小麦色。
思わず手が伸びそうになったところで、私ははたと気が付いた。手を止めてパーシー君へと振り返る。
「ちなみにパーシー君、その……パン、どうやって買えばいいの?」
「エッ」
問いかけられたパーシー君の目がハッと見開かれた。そのまま数秒、時が止まる。
そそくさと後ろを向いたパーシー君は店の入り口の方まで行くと、そこに積まれていた紙袋の一枚を取ってきて、申し訳なさそうな顔つきで私へと手渡した。
「ハイ、そうですネ、説明してなかったですネ、すみまセン。
お店の入り口に紙袋が据えられているノデ、それに自分で取って入れるんデス。パンを入れた紙袋をカウンターに持っていけバ、お会計してくれマス」
「紙袋? ……これ?」
「はい、それデス。
パンごとの値段ハ、ここに値札が付いていマス。この『
「はー、安い……」
その、物の安さに感心しながら、私は改めてパンに手を伸ばした。おすすめされた、焼き立てのチーズのプレッツェルを二本。あとはその下の、カスタードクリームがたっぷり詰まったタルト型の菓子パンを一つ、紙袋へと入れる。
パーシー君はパンを選ぶ私の後ろで様子を窺いつつも、パンを買おうとする動きは見られない。先程店に入る前に「買いましょうか」と言っていたはずなのだが、自分の分は買わないつもりだろうか。
「うん、こんなところかな。パーシー君は買わないの?」
「ボクはいいデス……その分、お夕食でしっかり食べますカラ」
問いかける私に、そっと視線を逸らすパーシー君だ。確かに夕食でしっかりと食べるつもりならば、今ここで買う必要もないだろう。
私はどうにも焼き立てパンの魅力に抗えそうにないので、ここで買ってしまうけれど。安いし。
ともあれパンを入れた紙袋を、カウンターのアビガイルさんへと差し出した。もう片方の手には鞄から取り出した「みるぶ」、買い物で使う会話を拾い出す。
「えーと、買い物編、買い物編……あったこれこれ。
「Multumesc. Doua covrigeti de branza, o trusa de crema de lamaie. Este de patru sute de cupru in total.」
「400クプル……でいいよね。これで大丈夫かな」
「みるぶ」と入れ替えるようにして、鞄から財布を取り出す。財布の小銭入れを開いて、中から100クプル銅貨を四枚、カウンターの小皿に置いた。
日本の10円玉と間違えてはいない、はずだ。支払われた小銭の内容を確認して、アビガイルさんが小さく頷く。そして紙袋を私へと返してきた。
「Da, multumesc. Aveti grija si aduceti-o.」
「ムルツメスク……あれ?」
お礼を言って、受け取った紙袋の中をふと覗き込んだ私は思わず目を見開き、声を上げた。
二本買ったはずのチーズプレッツェルが、何故か三本入っている。一緒になって紙袋の中を見たパーシー君も首を傾げた。
「……三本ありますネ」
「あれ、でも私は二本入れて……会計も二本分で……」
「Asta e langa el, un cadou de la mine. Va rugam sa mancati impreuna.」
揃って首を傾げる私たちに、アビガイルさんが声をかけた。それを聞いたパーシー君が思わず顔を上げてそちらに顔を向けると、笑顔のアビガイルさんと視線がぶつかる。
状況を理解したパーシー君が、小さくため息をついた。
「ボクの分で、お店からのプレゼントだそうです……Multumesc, doamna Widdowson.」
「Sunteti bineveniti. Ai venit impreuna cu ea.」
紙袋を片手に持って店を出る私と、ドアを押すパーシー君の背中に、アビガイルさんの朗らかな声がかかる。
「ブリュタリア・ルイ・アビガイル」の可愛らしい木製のドアをパタンと閉じると、途端にパーシー君が顔を真っ赤にした。両手で顔を覆いながら力なく歩き出す。尻尾もしゅんと垂れて、非常に恥ずかしがっているのが一目瞭然だ。
「ボク、もう恥ずかしくてあのお店行けまセン……」
「えっ、なに、私とパーシー君、そんな風に見られてたの? なんで?」
がっくりと肩を落としながら足を踏み出すパーシー君の発言に、困惑しながら隣に駆け寄る私。
買った焼き立てほかほかのパンを食べることも忘れて、私達は翡翠色の空が菫色に染まりゆく中、ヘルトリング通りをホテルに向けて歩いて行ったのだった。
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