第29話 フーグラー市立中央大学
観光するにあたって、現地のリアルな情報を持っている人員が多数いる現状、すっかりその役目を果たせないでいる「みるぶ異世界」を、私は鞄の中から取り出した。
刊行日が十年ほど前とは言え、それは地球での話。この古本に載っているドルテの情報は二十六年も前のものだから、どこまで役に立つのか私にも分からない。
しかし、情報が古いというのは悪いことばかりでもない。
「グロリアさん、デュークさん、この『みるぶ』に載っているフーグラー市内の観光名所で、今も存続しているものって何がありますか?」
「フム? そうネ、ちょっと貸してチョウダイ」
「みるぶ異世界」の52ページ、フーグラー市についての解説を行っている最初のページを開きながら差し出す私の手から、グロリアさんがひょいと古本のガイドブックを取り上げる。
中身を見ながらぱらり、ぱらりとページをめくって都合八ページ分、記載されている情報を確認したグロリアさんが、「みるぶ」を私に返してくる。
「53ページの市立資料館が現在改装中デ入れないノト、56ページのカフェーナ・デボラが十年前に閉店したノト、58ページの
それ以外はどこのお店や施設モ、まだまだ現役ヨ」
「えーっ、市立資料館入れないんですか!? ちょっと楽しみにしてたのに……」
グロリアさんの言葉に、私は肩を落とすほかなかった。
フーグラー市の市立資料館はフーグラー城と並んで古都のメインの観光スポットとして紹介されており、フーグラー市の興りだとかアータートン家の所有する宝物だとか、アータートン領の主要産業品だとかを一アルギンの入場料で見ることが出来ると、1ページまるまる使って紹介されているくらいの場所なのだ。
正直、一昨日に「みるぶ」を読み込んでいた時から、ひそかに行ってみたいと思っていた場所だったのだが、改装中とは何とも間の悪い。
パーシー君が申し訳なさそうに耳を伏せながら腕を組む。
「建物の老朽化が目立ってきておりましテ……三ヶ月ほど前から改修工事ガ始まっているのですヨ。大陸暦1887年八月末ニ、工事が終わる予定ということデス」
「今が……えー……」
「1887年6月2日デス」
「ダメじゃーん……私は七月末でアータートン領から離れないとだから……」
改めてがっくりと肩を落とす私だ。改装工事が終わる前の月にフーグラーを離れないと、私は旅行者ではなくなってしまうわけなので。
デュークさんが慰めるように、私の肩に優しく手を置いた。
「大丈夫デスよミノリ様、改装工事が終わるノハ八月ですカラ、どこかの都市デ一ヶ月お過ごしにならレテ戻ってくれバ、その頃にハ工事が終わっていマスヨ。
ホラ、あれデス、アノー……『くうふくはあばれまわるくまのごとし』でしたカ……」
「あばれまわるくま??」
多分、何か慣用句を言おうとしたのだろうけれども全く意味が伝わらなくて、思わずデュークさんの顔を見上げつつきょとんとする私だった。隣でグロリアさんとパーシー君がくすくすと笑っている。
そこでようやく自分が何かを勘違いしていることに気が付いたらしいデュークさんが、緑青色の鱗に覆われた頬を赤く染めつつ俯いた。可愛い。
顔を伏せながらちらりとグロリアさんの顔を見上げたデュークさんの背中を、グロリアさんがぽんぽんと叩く。
「デューク、『禍福は糾える縄の如し』ヨ」
「別の慣用句と間違って使わなかったダケ、上出来だと思いますヨ、デューク様。
「ジャポネーザのコトワザむずかしいデス……」
恥ずかしさのあまりに顔を覆いながら、デュークさんが呻くように呟いた。
とはいえ無理のないところではある。生粋の日本人でも日本の諺を全部正しく使えるとは自信を持って言えないし、私だって知らない諺はたくさんあるのだ。
ぶっちゃけた話、グロリアさんとパーシー君の日本語力が異常に高いだけである。
ともあれ、市立資料館に行けないなら別の場所に行くしかない。幸いにして先程グロリアさんが挙げた喫茶店と、夜のお祭り以外はまだやっているそうだし、それだけ年数が経過しても残っているなら間違いなく見どころはあるだろう。
私は「みるぶ」54ページ、ページの上半分を占める風景写真を指さした。
「グロリアさん、この『フーグラー市立中央大学』って、一般の人も中に入れるんですよね?」
「
それニ、市立資料館ほどではないけレド大学内にも資料館があッテ、昔のフーグラーの写真トカ、市役所やお城の模型トカ、飾ってあるのヨ」
「へー……いいですね、行ってみたい」
大学が市民に解放されているというのなら、ちょっと見学してみたくはある。異世界の大学の中なんて、なかなか見られる機会はないだろうし。
そしてついでに、市立資料館の代わりに大学の資料館も見られれば御の字だ。
私が興味を示したことを確認したグロリアさんが、顔を上げているものの所在なさげにしているデュークさんの肩を、ポンと叩いた。
「それじゃデューク、貴方現役の学生なんだカラ、ミノリサンの案内をよろしく頼むワネ」
「マーマ……確かに私ハ
「デューク様が頼りにされているのですヨ。
ボクは大学に行ったことがないですカラ案内は出来ませんシ、奥様は大学内を自由に歩けませんカラ」
「えっ、それってどういう……」
トントン拍子に話が進んでいて、すっかり置いてけぼりになっている私に、助け舟を出したのはアサミさんだった。
「奥様が日本語研究をされていることは、ミノリさんもご存知のこととは思うけれど、奥様はアータートン伯爵第二夫人の肩書の他に、中央大学の研究員の肩書もお持ちなの。
中央大学で日本語を研究しながら、伯爵夫人としての外交もこなされているってわけ。研究員ならって思うかもしれないけれど、研究員だからこそ大学にいる間は研究に時間を費やさないといけないのよ」
「職場にいる間は職務に就いてください、って感じですか……それは確かに、グロリアさんには案内は無理ですね」
納得した私の言葉に、肩を竦めつつグロリアさんがため息をついた。心底からがっかりしているようなため息だ。
日本の職場も大概のところは、「職場では仕事に集中してください」というような就業規則が定められているから、そのこと自体にさして違和感があるわけではない。
問題はグロリアさんの職場が、まさにそのフーグラー市立中央大学であるということだ。
「そうなのヨ。大学で研究させてもらってるお陰デ
雇われ身分の悲しいところダワ」
「いえ、仕方ないです……仕事ってそういうものですし。
デュークさん、私からも案内をお願いします。頼りにできるのがデュークさんだけなので」
「それハ……いえ、ハイ、そうですネ。精一杯務めさせていただきマス」
そう、心に決めたように口にして、深々と私に向けて頭を下げるデュークさんだった。
グロリアさんと別れてレストン家を出て、レーマン通りからヴェーベルン通りに入り、しばらくまっすぐ。
フーグラー市立中央大学は、このヴェーベルン通り沿いにある。
住宅地を過ぎてしばらく行くと、確かに学校や会社らしい建物が多くなってきた。グロリアさんによると、ヴェーベルン通りはフーグラー市の学業と産業発展の中心になる通りらしい。
「フーグラーで最大の学術機関ハ市立中央大学ですガ、グートシュタイン地区ノ市立電機大学はマー大公国で最も電気技術ニ優れた大学だと言われていますシ、エクヴィルツ地区のリンドリー高等学院ハ国内の私立校でも五本の指ニ入る程に優れた教育ヲ施していマス。
フーグラー市は学業の面デモ、名ガ知られている街なのですヨ」
「へー……やっぱり古くからある街なだけあるってことか。その最高学府に所属しているって、デュークさん結構凄い?」
パーシー君の解説を聞きながら感心しきりの私が、羨望の眼差しをデュークさんへと向ける。日本で言ったら阪大とか京大とかそういうカテゴリに相当するだろう。そこに在籍しているというだけで凄さを感じさせられる。
恥ずかしそうに顔を赤らめながら、先導するデュークさんが口を開いた。
「そんなニ、凄いものデモございまセン……私の所属ハ社会学部ですシ、法学部に進むことハ出来ませんでしたシ」
「なんで? 伯爵家の次男なら、法律の勉強は大事なんじゃ」
「マー大公国ノ大学の法学部ハどこも非常に狭き門デ、貴族の子弟デモなかなか入学できないんデス……長男であれバまだしも、なんですガ。
アァ、着きましたよミノリ様。コチラがフーグラー市立
目線を逸らしながらデュークさんが足を止めたそこには。
精巧な構造をした石造りの門がドーンと建ち、大きな扉が広々と開け放たれていた。
門の左右に控える守衛さんが詰めるであろう守衛所も、風格を感じさせる立派な造りをしている。
そして門の向こう、大きく幅を取った道路の向こうに聳え立つ、荘厳な佇まいの講堂と思われる建物が目を引く。石材の色こそ地味ではあるが、その建物の装飾や屋根の作りは圧巻の一言だ。
「わー……すっごい……!」
「目の前にあるあちらの建物ガ、奥様も仰っていました中央大学のシンボル、大講堂デス。
フーグラー市立中央大学は今のフーグラー城ガ出来たと同時に創設サレ、大講堂はその時代に建てられたものデス。築年数は百五十年を超えマス」
「百五十年……!」
その歴史の凄さに圧倒されていると、先頭を歩いていたデュークさんが私とパーシー君の傍を離れ、門の横に立つ守衛さんのところに行っていた。
「Ce fel de afacere este la universitate?」
「Am venit pentru vizitarea obiectivelor turistice. Sunt student al acestei universitati.」
「Inteleg. Daca exista ceva, sunati la garda la fata locului.」
何やらやり取りを交わしたのちに、こくりと頷くデュークさんと守衛さん。
そのスムーズなやり取りに小さく目を見張っていると、戻ってきたデュークさんが親指をくいと敷地内に向けた。
「手続きは済みまシタ、行きまショウ」
「いいんですか? あの、入るのに何か書いたりとか」
「デューク様ハこちらの学生でもありますからネ。あれで大丈夫ですヨ」
驚きに目を見張る私の隣で、苦笑するパーシー君が私の背中に手を添える。
さすが、対外折衝担当として私に付けられただけのことはある。
その立場の強さに感服しながら、私は市立中央大学の敷地内、正門から伸びる中央通りを歩き始めたのだった。
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