第46話 病院で過ごす夜

 夕食を終えて、夜。

 もうすっかり日は暮れて、病院も消灯時間を過ぎているのに、私はなかなか寝付けなかった。


「はぁ……」


 暗い部屋にため息だけが漏れる。

 仕方がないのだ。宿を変えたと思ったら、即入院。レストン家のベッドに寝れないまま、フーグラーから出立。

 なんてこった。こんなことになるだなんて、思いもしなかった。

 何度目か分からないため息をついていると、病室の扉が開く音がする。と同時に、懐中電灯らしき灯り。

 細い灯りの中に、灰色の毛皮と鼻の長い顔が浮かぶ。


「サワさん、失礼しマス」

「パーシー君?」


 部屋に入ってきたのはパーシー君だった。

 ベッド横のテーブルランプのスイッチをひねると、仄かな灯りが点る。姿が映し出されたパーシー君の手には、懐中電灯ともう一つ、湯気を立てる大きなマグカップが握られていた。


「お休み前ノ、ホットミルクをお持ちしまシタ。こちらを召し上がったら、ゆっくりお休みくだサイ」

「……ありがとう」


 そっと渡されたマグカップを手に取ると、温かく、しかし熱すぎない温度が私の手に伝わる。

 ほっと息を吐きながらマグカップに口をつけようとすると、何だろう、ホットミルクにしては随分と香りが複雑だ。いろんな物が入っている香りがする。


「……これ、ホットミルク、なの?」

「ハイ。牛乳に、はちみつ、刻んだショウガ、シナモンが入っていマス。これを一杯飲んデ、眠りにつくト、体が温まって翌日の体調が良くナル……ドルテの、昔からの知恵デス」


 そう話しながら、パーシー君はにっこりと笑った。そのまま、ホットミルクに口をつける私を見つめている。

 温かい。甘い。それでいて、ちょっと辛い。新鮮な味わいだ。


「そっか……風邪をひいた時には身体を温める、考えることは一緒なんだね」

「多分、そうなのだと思いマス。ドルテでは、汗をかく時ニ身体の余分なものが外に出て行ク、という考えがありますガ、マーマもボクが風邪をひいた時、温かくして汗をかくと良い、と言ってましたカラ」


 彼の言葉に、私も頷く。風邪を引いたり体調を崩したり、そういう時は温かくして、温かいものを食べてゆっくり休む。大事なことだと思う。

 ドルテでもその考えは変わらないんだな、そう思いながら私はホットミルクを飲み込んで言った。


「そっか……まったく違う感じだったり、同じような部分があったり、なんだか面白いよね、ドルテと地球の違いって」


 そんなことを話しながらふっと笑みを浮かべる私を、パーシー君が目を見開いて見つめた。ふと感じた強い視線にそちらを向くと、複雑そうな表情のパーシー君がそこにいる。


「……サワさん」

「ん?」


 神妙な声色で話しかけてくるパーシー君。私が首を小さく傾げると、彼は申し訳なさそうに俯きながら口を開いた。


「その、サワさんが、日本ジャポーニアに帰りたい、トイウ気持ちを、疑うつもりは毛頭、ありませんガ……どのくらい・・・・・、マーを見て回りたい、デスカ?」

「どのくらい……?」


 彼の質問に、私はますます首を傾げた。

 どのくらい見て回りたいか。抽象的だ。そりゃあ、私の手元には古いとはいえ「みるぶ」があるし、そこに書かれている内容は一通り目を通したけれど、このマー大公国にどのくらいの物があって、どのくらい見て回れるものなのか、そんなには知らない。

 眉根を寄せる私の前で、パーシー君の短い毛に覆われた両手が、ぐっと握られる。


「非常に難しい質問ヲ、しているとは思っていマス。サワさんの自由に出来ない部分であることモ。それでも、サワさんがどこまで、ドルテに……マー大公国に、興味をお持ちなのカ、ボクは気がかりデス」


 その問いかけに、私はそっと部屋の天井を見上げた。

 そう聞かれると私も、どれくらいこの国に興味を持っているのか、じっくり考えなかった気はする。ただ物珍しくて、日常じゃ体験できないことが出来て、それが新鮮だと思っていたが、興味で言うとどこまであるか。

 ホットミルクを飲みながらしばし考えて、私は小さく唸った。


「……うーん、そうだなぁ。私としては、もっとこの世界のいろんなところを見たいなぁ、とは思う。フーグラーにもまだ見たいところたくさんあるし、オールドカースルやシャンクリーみたいな大都市を見たくもあるよ」


 そう話す私に、こくりと頷くパーシー君だ。この返答は当たり前だし、彼も予想しているだろう。現代人の私が、この世界の町を見たいと思う。自然な興味の向き方だ。

 しかし。


「なんなら農場も、牧場も、畑も見たいって気持ちはあるし、そういうのの無いただの自然も、多分見たら楽しい気がするし。でも……でもなぁ」


 次いで発せられた私の言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。そうして、本気で悩みこみ始めた私を見る。

 町から外れた自然、牧歌的な風景。私は見たい。興味がある。しかし彼は、私がそういうとは思わなかったらしい。

 そんなことを言いたげな彼の瞳を、私はまっすぐ見つめ返した。


「そういうの、ぜーんぶ、何もかんも見て回ってたら、絶対時間が足りないと思うんだよね」

「そう、ですヨネ……」


 そう返事を返しながらも、パーシー君の目は見開きっぱなしだった。そんなに衝撃的だっただろうか。

 だが、しかし。この国で、この世界で。他の国を見るために国境をまたぐというのは、一般的なことではないわけで。観光旅行なんて考えもつかない事なんだろう。それによって何を見られるかなんて。

 なんかつまんないなー、とか思いながら私がまたホットミルクに口をつけると、パーシー君がようやく表情をほころばせた。


「イエ、でも、ホッとしました。マー大公国という国ニ、興味を持っていただけていテ」

「……うん」


 その言葉に頬を赤らめつつ、私はホットミルクを啜った。

 もう、マグカップの中はだいぶ嵩が減っている。身体は温まってぽかぽかだ。これなら、きっといい眠りを得られることだろう。


「あ、あとね、パーシー君」

「ハイ」


 と、ホットミルクを飲み干しつつ、はっと気が付いたように私が声を上げると、パーシー君が短く答えて。

 私は表情を緩めながら、彼に声をかけた。


「私、マー大公国の風景も勿論気になるけれど、マー大公国で生きる人々のことも、同じくらい気になってるんだ。どんな人が治めているのか、どんな人が暮らしているのか、どんな人が働いているのか……」


 その言葉に、またもパーシー君の目が開かれた。驚きか、感動か……どっちだっていい。私は話すことをやめない。


「私はアサミさんみたいにこの国の国民にはなれないし、パーシー君みたいにドルテ語と日本語のバイリンガルにはなれないし、デュークさんみたいに偉い人にもなれないけれど……それでも、この国の人と接することは、したいなって。しないと、勿体ないなって思うんだ」

「そう……ですカ。そうですネ」


 そして、私の言葉を聞いたパーシー君の目が細められる。嬉しそうに、泣きそうに。

 目元にそっと指を添えた彼は、背筋を伸ばして笑った。


「分かりましタ。ボクとデューク様の二人デ、全力でお守りしますシ、全身全霊を以テご案内しマス。きっと、ご滞在中、サワさんに後悔はさせマセン。満足の行く『ご旅行・・・』にしてみせマス」


 そう宣言して、私の両手に手を添える彼。その手触りは、ふわふわで、温かくて。また別の意味で、ほっこりした。

 にっこり笑って、小さく頷く。


「うん、よろしく」

「ハイ……サア、もう夜遅い時間デス。お休みになってくだサイ」

「……うん」


 頷き返すと、パーシー君が私の手からマグカップを取った。ベッドサイドのテーブルランプを消灯し、再び懐中電灯の明かりをつける。

 もういい時間だ。あまり夜更かししたら身体に障る。私は掛け布団をぐいと持ち上げて、ベッドに横たわった。


「それじゃ、Noapte bunaおやすみなさい, doamna Sawaサワさん.」

「うん……ノアプテ、ブナ」


 そして、ドルテ語で呼びかけられるのに短く返事をして。

 ドアがぱたんと閉じる音と共に、私は目を閉じた。

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