第33話 名前と名字の話
資料館を後にした私達は、中央大学の図書館に足を運んでいた。
大学の図書館は貴重な蔵書がたくさんある、というのは地球もドルテも変わらないようで、年季の入ったように見える本がずらりと並んでいる。まだ私はドルテの文字を読めないので、見た目の雰囲気で判断しているだけだが。
そして意外なことに、日本語や英語で書かれた蔵書も結構な数があった。
文学部に日本語学科があるのだし、聞くところによるとアメリカと繋がる首都オールドカースルで、英語に触れることを見越してのアメリカ語学科もあるそうなので、収めていても不思議ではないが、その数はかなりのもの。
一つの棚どころか一区画全部を埋め尽くす日本語の本と英語の本を見上げて、私ははーっと息を吐いた。
「これって、もしかしてぜーんぶ、地球から持ってきた本ってこと……?」
「私はソウ聞いていマス。先代の学長様や私の
デュークさん曰く、中央大学の文学部に日本語学科とアメリカ語学科が出来たのは今から二十三年前。それまでは文学部の一般教養科目の中に教える授業があったくらいで、専門に勉強できる環境が整ったのは学科が出来てかららしい。
それを作ったのが、デュークさんの実の父親であり伯父、ブレンドン閣下の兄で、第七代アータートン伯爵であったエイブラムさんと、当時の中央大学の学長、ということだそうだ。
エイブラムさんはベンさんと、彼が伯爵となる前から親交があったと聞いている。その繋がりで日本語学科やアメリカ語学科の創設の際、図書館に多数の地球の本を持ち込んだんだそうだ。
そのうちの一冊、古びて紙が黄ばんだ一冊の小説本を手に取る。ぱらぱらとページをめくると、昔に教科書で読んだことのあるような、そんな文体がつらつらと。
奥付の発行年月日は平成五年九月。懐かしの和暦だ。それにしてもやはり、結構年季が入っている。
パーシー君が私の手に持つ本を覗き込んで、一緒に文字を眺めつつ口を開いた。
「中島敦の山月記・李陵ですネ。ボクも昔、読んだことがありマス」
「私も高校の時かな、山月記は教科書で読んだ気がする。やっぱり、こういうところにも本が置いてあるんだねぇ」
再びページをめくり、中ほどに掲載された作品を読みながら懐かしさに目を細める私とパーシー君。デュークさんは何も言わないながらも、ゆっくりと頷いているところを見るに、彼もどこかで読んだことはあるのだろう。
本を閉じて、元あった場所にそれを戻そうとしたところで。
私は「あれ?」と声を零した。
「サワさん、どうしましタ?」
「これ……この本。何でここにあるんだろう、ドルテ語で書かれているのに」
手にした小説本を本棚に戻してから、私が手に取ったのは厚みのある一冊の書籍だった。背表紙にも表紙にも書かれているのはドルテ語。英語で書かれているわけでもないのに、何故か日本語の本に混ざって置かれていた。
手に取って私はようやく、表紙のタイトルの下と、著者名の横に日本語で何かが書かれていることに気が付いた。擦れて消えつつあるそれを、ゆっくり読み上げる。
「『異世界・日本の旅』『コーネリアス・ペネロピ・アータートン』……これって」
「ハイ、ミノリ様。その本ハ私の
思わず顔を上げてデュークさんの顔を見ると、彼はゆっくりと頷いた。
私の手の上にある本の表紙をめくり、数枚ページをめくって、ドルテ語と日本語が並んで書かれたページを示しながら、そっと口を開く。
「この本ハ
その時
「へー、デュークさんの、お祖父さんが……」
デュークさんの話を聞きながら、私は改めて手元の本の、日本語部分に視線を落とした。
とても描写がしっかりしていて、本当に高度経済成長期の気が沸き立っている社会の様子がありありと浮かぶような、詳細に書かれた文章が印象的だ。
日本語訳は、コーネリアスさん以外の誰かがやったのかな、なんてことを思いつつページをめくると、こんな文言が飛び込んできた。
―この島国の人々は、誰もかれもがミドルネームを持たない。姓が先に来る独特な名乗りをする。誠に高貴な人間は姓さえも持たないそうだ。我が国とは真逆である―
その一文を、私はしばし見つめてから小さく首を傾げた。
デュークさんが不思議そうに、私に声をかけてくる。
「ミノリ様、何カ気になることがおありデスカ?」
「うん、そう言えば前から、なんでだろうなーって思ってたことなんだけど」
そこまで答えて、私は一度言葉を区切った。旅行記をぱたりと閉じて、表紙の著者名を指さす。
「大公国って……いや、他の国もそうなのかもしれないけれど。ミドルネームが付くのって
「「アー……」」
私の質問に、デュークさんだけじゃない、パーシー君も揃ってポンと手を打った。
その何ともよく分からない、脈絡のない反応に私が首を傾げていると、デュークさんが人差し指を二度三度振りつつ微笑んだ。
「いいところニ着目されましたネ、ミノリ様。お察しの通リ、ミドルネームを持つのハ基本的に
勿論
「へー……って、えっ、無いの? 確か、『クリフォード・マート・ニューウェル』って」
デュークさんの説明に私は目を見開いた。
確かにクリフォードさんは、名前と名字の間にもう一語あったはずなのだが、それはミドルネームではなかったのだろうか。
私の隣に立つパーシー君が、苦笑を零しながらゆるゆると首を振る。
「『マート=ニューウェル』で一つの姓ですヨ、サワさん。
奥様の『イングラム=アータートン』やボクの『ユウナガ=レストン』と同じク、二つの姓を繋げて作られた、複合姓という一つの姓デス。
このような複合姓ハ、ドルテ全体に多く見られマス。母方の姓を尊重する場合に、父方の姓とくっつけて名乗るのデス」
「へー……じゃあパーシー君もロジャーさんも、お母さんの名前を尊重してそう名乗っているってこと?」
「そうデス。ボクのルーツは
パーシー君の発言に、私はなるほどと首肯した。
確かに、パーシー君には日本人の血が流れている。母方のルーツを大事にしようという思いから母方の姓を名前に加えるのは、自然な心の動きだ。それが世界的によくある動きなら、名乗りやすいのも納得だ。
だとしても、
一つの誤解が解けたところで、私は僅かに視線を落としながら呟くように言葉を発する。
「クリフォードが名前で、マート=ニューウェルが名字……確かに、無いんですね、ミドルネーム。なんでですか?」
「クリフォードから聞いた話デスト、『あるがままに生きてほしいから、敢えて付けなかった』らしいデス。彼は四男だかラ、親御さんモ気負うことが無いのでショウ。
私達ドルテ人にとっテ、ミドルネームは護符やお守りのようニ、祈りを込めテ名付けられるものなのデス。強い子に育ってホシイ、長生きしてホシイ、そんな願いが込められてイマス。
その証拠ニ……ミノリ様、私やパーパ、ウンチやブニクのミドルネームを聞いテ、気付くことはございませんカ?」
「えっ……?」
デュークさんの言葉に、私はますます首を傾げた。
デュークさんのミドルネームは、確か「ネリー」。ブレンドン閣下が「サム」で、エイブラムさんが「ゾーイ」だっけ、そしてコーネリアスさんが「ペネロピ」。
考えても答えが導き出せず、唸り始めた私の隣で、パーシー君が私の肩を叩きながら口を開いた。
「サワさん、アータートン伯爵家の男児のミドルネームハ、いずれも
「へ……えっ!? 女の人の名前ってこと、あれ全部!?」
予想外の答えに、私は目を見張るしかなかった。男性にわざわざ、女性の名前を付ける理由が果たしてどこにあるのだろう、今で言えばキラキラネームの類になるのではないだろうか。
驚愕を顔に貼り付けたままの私に、デュークさんが苦笑しながら肩を竦めてみせる。
「願掛けなのデスヨ、これモ。ミドルネームなのデ呼ばれることモ、そうございませんから気になりマセン」
「女性のように可愛らしく華やかニ……という願掛けではないですヨ、念のため。
大事な子だから長生きしてほしイ、悪い悪魔に連れ去られることの無いようニ、という意味合いがあるのデス。
「へー……そんな逸話が……」
二人の説明に、私は何度目かのため息を漏らした。
名前で願掛け。確かに日本の名前も、親の願いとか思いが込められているのは一緒だ。最近は込めてないだろ!みたいな名前も多いけれども。
昨今日本だけでない、世界で氾濫しているキラキラネームの実態を知ったら、二人はどんな顔をするだろうか。知りたいような、知りたくないような。
「ってことは、えーと確かデュークさん、お兄さんいましたよね。もしかしてお兄さんも……」
「ハイ、兄の名前はクリスといいマス。クリス・アレクシア・アータートン、デス」
「やっぱり……」
予想通り、デュークさんのお兄さんにも女性名のミドルネームが。
なんとも、思いがけないところに名付けのルールがあるものだと実感しながら、私はそっと、手に持ったままだったクリフォードさんの日本旅行記を棚に戻すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます