第38話 異血症

※実里さん不在のため、登場人物の会話をドルテ語から日本語に翻訳して表記します。



『ミノリさんが倒れたですって!?』


 屋敷二階の階段にほど近い居室に、グロリアとデュークは息せき切って飛び込んできた。

 先んじて部屋の中にいたパトリック、パーシーの二人が、ドアの開く音に即座に振り返る。

 二間続きの居室の奥側では倒れて運ばれた実里がベッドに寝かされ、アータートン家かかりつけの医師による診察を受けている。

 今にも泣きだしそうな表情をする主人に対して、パトリックが力なくかぶりを振った。


『はい、奥様。サワ様がリラと一緒にいらっしゃるところを見つけた時には、胸を抑えてうずくまって、苦しんでおられたと、ヘレナが』


 目を伏せながら話すパトリックの言葉に、グロリアが息を呑んだ。引き攣るような音が小さく響く。

 額を押さえながらデュークが苦々しく吐き出した。


『しかし、どうしてだ……応接間を出て行かれるまで、ミノリ様に変わった様子など、全く無かったはずだろう?』

『そうですね、普通に会話をされて、普通にお茶を飲まれて……具合が悪い様子は見られませんでした。それなのに何故……』


 デュークに視線を向けながら話すパーシーも、困惑の色を隠さない。

 無理もない話だ。数十分前どころか数分前まで、一緒に話して茶を飲んだ相手が、突然意識を失って倒れたというのだから。困惑するのも仕方がない。

 パトリックもそれは同様の様子で、顎髭に手をやりながら眉尻を下げた。


『具体的には、お医者様の診断結果が出ないことには、何とも申せません……ただ、サワ様は応接間を急いで出ていかれました。リラを追いかけるために』

『……いやだわ、パトリック、まさかとは思うけれど』


 静かな口調でしゅんとしたように話すパトリックに、グロリアの目が見開かれた。

 その、信じがたい、信じたくないというような口ぶりに、パトリックが一層真剣な表情をして、こくりと頷いた。


『その通りです奥様。サワ様は『異血症いけつしょう』を発症された可能性が、濃厚と思われます』


 沈痛な面持ちでその病名を告げたパトリックの前で、グロリアが苦々しそうに眉間に皺をよせた。

 異血症いけつしょう

 主に短耳族スクルトでの発症例が多く報告されている、他人の血を取り込んだ時に稀に発症する、身体的異常の総称である。

 主な症状は局部的な鋭い痛みと呼吸困難、意識の喪失、大量の発汗。慢性化した場合は持続的に弱い痛みを伴うこともある。発症に伴う死亡例も、多くはないが無いわけではない。

 肉体が自然と異物と判断した血を排出するまで、回復が望めない難病だ。アサミ・ユウナガ=レストンの訴える手足のしびれも、慢性化した異血症だと最終的に判断されている。

 もし、実里が急性の異血症を発症したのだとしたら、その理由は明白だ。


『旦那様と先奥様の懸念が……まさか、現実のものとなるだなんて』

『ヒューゴー……あの乱暴者め、余計な置き土産を残していきやがって』


 パーシーとデュークが、揃って視線を逸らしながら言葉を吐く。

 あの時、裏路地で、実里はヒューゴーに血を飲まされた。噛み切った指を押し込まれる形で、だ。

 乱暴な口調で吐き捨てるデュークに目を向けながら、パトリックは小さく頷く。


『坊ちゃまの仰る通りです。ヒューゴーの血を飲まされたことが、直接の要因であることは間違いないでしょう。

 サワ様の体内に飲み込まれた血液が、胃から腸へ達し、吸収されて血管に入り、そうして心臓に達した……そして心臓が異物・・の侵入に反応して、強い痛みを生じた』

『困ったわ……異血症だとしたら、異物の血液が排出されない限り、どうにもならない』


 アサミの症状を知っているだけに、心配で心配でたまらない様子のグロリアだ。

 初めて発症した人間を目にしたらしいデュークが、額を押さえながら隣で呻く。


『異血症……症状の存在は知っていたけれど、こんなに強烈なものだったなんて』

竜人族バーラウのデューク様が意識することが無いのも、仕方ありません。

 症例と症状こそよく知られているものの、実際に発生するケースは多くないものですから』


 身近なところで症例を知っているパーシーも、何とも言い難い複雑そうな表情をしていた。

 どうしたものか、と全員で顔を見合わせたところで、奥の部屋に繋がる扉が開く。中からかかりつけ医のゴドウィン医師と、瑠璃の館のメイド長を務めるブレンダが姿を見せた。


『奥様』

『ブレンダ、ゴドウィン先生……ミノリさんの容体は』


 すぐさまに二人に駆け寄ったグロリアが、目を大きく見開きながらゴドウィン医師の肩を掴む。その鱗に覆われた手をそっと外しながら、ブレンダが平静な口調で語りかけた。


『意識は戻っていませんが、今は落ち着いています。これからゴドウィン先生の病院に搬送します』


 落ち着いている、その言葉に安心したらしいグロリアの肩が、ほっと吐かれる息と共に力を抜いた。

 グロリアの後ろについていたパーシーがその身体を支えられるように手を添えながら、不安げな視線でゴドウィン医師を見つめる。


『先生、サワさんは……異血症にかかってしまったのでしょうか』


 アサミの治療の兼ね合いでゴドウィン医師はパーシーとも顔見知り。既知の青年に、医師は頷きも首を振りもしなかった。


『症状を見る限りではその可能性が高い、というレベルの話でしかありません。

 これから私の病院で検査を行い、その結果を以て判断いたします』


 ゴドウィン医師のきっぱりとした口調に、パーシーもぐっと口を噤んだ。明言を避けられたら、こちらとしても何を言うことも出来ない。

 パトリックがふっと、開かれたままの扉の向こうに視線を向けながら言った。


『付き添いは……』

『連絡役として、私が同行いたします。あとは、そうですね。パーシー、ミノリ様が目を覚まされた時の説明役として、同行いただけますか』

『分かりました』


 執事の言葉に答えるのはブレンダだ。そのブレンダがパーシーに視線を向けると、彼もこくりと頷いて。

 そうしてすぐさまに、意識を失って眠ったままの実里の身体がストレッチャーへ乗せられ、部屋の外に運ばれていく。

 ストレッチャーを押しながら、ゴドウィン医師がパトリックに支えられるようにして立つグロリアへと、視線を向けた。


『それでは、検査の結果が出ましたら、こちらのお屋敷にお電話いたしますので』


 そう、淡々と告げると、ゴドウィン医師はブレンダとパーシーを伴って部屋を出ていった。ストレッチャーの動くカラカラという音が、だんだん遠くなっていく。

 実里が運ばれていった部屋の出口を、グロリアはただ無言で見つめていた。

 いくら普段から世話になっているかかりつけ医の病院に運ばれるとはいえ、心配なものは心配だ。彼女が異邦人だから余計にである。


『……』

『母さん……』

『奥様……大丈夫です。ヒューゴーの血を排出できれば、すぐにサワ様はお目覚めになります』


 残されたデュークと、パトリックが、そっとグロリアの肩に手を置いた。

 安心させるように言葉をかける二人に、ちらと視線を向けた彼女が、ふるふると頭を振る。


『分かっているわ、分かっているのだけれど……心配だわ、ミノリさんはドルテに来て、まだ間もないというのに、こんな』


 絶望と悲しみを振り払うようにしながら、彼女は言った。

 澤実里は日本からの旅行者だ。納税義務を負わない代わりに、マー大公国からもアータートン領からも保護を受けることは叶わない。体調を崩した時も、本当なら全て自己責任で処理しなくてはならない。

 旅先での体調不良や事故は、旅行にはつきものだ。とはいえ、こんな重症な病気を抱え込んで。これからの旅に支障が出るようになってはいけない。

 母親の言葉に同調するように頷いたデュークが、側頭部に手をやりながら顔をしかめた。


『ああ……早く良くなってもらわないと。まだフーグラー市内でも見せていないものがたくさんあるのに……くそっ』


 苦心した様子で悪態をつくデューク。その眉間には深い皺が刻まれている。

 その姿に、グロリアもパトリックも小さく目を見張った。そう言えば彼は先程から、額や頭を押さえっぱなしだ。


『坊ちゃま?』

『デューク? 貴方もなんだか具合が悪そうだけれど……』


 心配そうな二人の言葉に、デュークは小さく首を振って部屋の中にある椅子へと腰を下ろした。背もたれに身体を預けながら、パトリックへと視線を向ける。


『大丈夫、いつもの頭痛だ……少し大人しくしてれば、よくなる……

 パトリック、お茶を淹れてくれないか』


 デュークの言葉に小さく目を見張るパトリックだが、すぐに得心した様子で頷いた。

 デュークも彼の兄も、揃って頭痛持ちなことはよく知っている。時折、こうして不定期に偏頭痛に苦しめられては、お茶を飲んで大人しくしているのだ。

 今回も同じ状態だろう、と判断した執事が、足音を立てないようにして部屋の外へ向かう。


『……かしこまりました。お持ちいたします』

『無理しちゃだめよ、貴方が倒れたらミノリさんをお守りできないんだから……』


 デュークの腰掛ける椅子と向かい合うように椅子を運んで腰かけると、グロリアは心配そうな目をして自分の息子を見た。

 実里も心配だが、目の前の息子も気にかかる。他のことには、どうにも気が回らなかった。




 同時刻、レーマン通りのレストン家にて。

 いつものようにロッキングチェアに腰掛けて古本を読んでいたアサミが、不意にページを繰る手を止めた。


「これは……」


 読んでいた古本に何か、目を引くものがあったわけではない。手の中の古びた文庫本を閉じて、慌てて辺りを見回した。

 彼女の脳裏に、唐突に浮かぶベンの顔。ベンの顔を何となく見たい、という唐突な感情。

 これは、ただ会いたいという気持ちだけではない・・・・・・


「まさか、今だなんて……急いで、奥様に連絡しなくちゃ」


 ゆっくりと、しかし急いで、アサミはロッキングチェアから立ち上がった。家に設置した電話の前まで歩き、ダイアルを回す。

 実里が倒れたことでグロリアが気もそぞろになっていることなど、彼女は全く、知る由もなかったのである。

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