第2話 突然の異文化コミュニケーション
突然見知らぬ風景に放り出される形になり、数瞬呆ける私だったが、すぐに意識を取り戻して後ろを振り返った。
視界の中には、先程までいた「
すぐさま踵を返して、レジカウンターの奥で微睡んでいるおじいちゃん店員に声をかける。
「すみません、あの、外がなんか変なんですけど」
「ん、変?」
「あの、なんか空が緑色してたり、変な人が道を歩いていたり」
「んー? ……あぁなるほど、もう
丸眼鏡を直しながら窓の外を見て、おじいちゃん店員は事も無げにそう言った。
切り替わった?
頭に疑問符を浮かべる私に、おじいちゃん店員は優しく微笑みかける。
「幸運だったねお嬢さん、その本を買った後に切り替わって。そうでなかったら、右も左も分からずに困惑することだっただろう」
「はぁ、そう、なんですか……」
柔らかな微笑みに毒気を抜かれた気分になり、肩から力が抜ける私。
しかし安穏ともしていられない、ぐっと目をつぶって気持ちを切り替えると、レジカウンターに両手をついた。
「あのっ、さっきから言っている切り替わったって、どういう意味ですか?」
「そうだね、お嬢さんのためにちゃんと説明してあげようか。そこの椅子に腰掛けなさい」
そう言うとおじいちゃん店員は、レジカウンターの傍に置かれた丸椅子を指し示した。言われるがままに私が腰を下ろすと、おじいちゃん店員はレジカウンターに両手を置いて口を開きだす。
「この店はね、地球の神保町とドルテのフーグラー市を、不定期に行ったり来たりしているんだ。
切り替わるタイミングは私にも分からないし、どのくらいの間どちらに繋がっているかも不明確だ。数時間でまた切り替わることもあれば、数年繋がったまま、ということもあり得る」
「数年……マジですかー。で、さっき言っていた『ドルテ』っていうのは?」
「
おじいちゃん店員の言葉を聞いて、私はビニール袋から「みるぶ」を取り出した。
パラパラとページをめくると、4ページ目、かなり最初の方。確かに「異世界ドルテ、これを知っていれば間違いない!」と大見出しが打ってある。
買った「みるぶ」の世界に転移することになったのは、幸運なような、そうとも思えないような。
しかし困った、この店にいればいつかは帰れるのかもしれないが、いつ帰れるのかが分からないのはなんとも困る。
会社に長期休暇の連絡なんて入れていないし、一人暮らししているアパートの電気・ガス・水道の料金も今月分しか支払っていない。
家賃は自動引き落としなのが救いだが、給料が払われなかったらジリ貧だ。実家に住む家族だって心配するだろう。
ふっと思い立ってスマホを取り出してみるも、敢え無く圏外。この店の中ならもしや、と思ったけれど、駄目だった。
「はー、会社への連絡どうしよ……」
「なに、そこについては心配はいらないよ。手持ちのスマートフォンを見てごらん」
肩を落として項垂れる私に、おじいちゃん店員は優しい声をかけた。改めてスマホの画面を見た私は「あれ?」と声を上げた。
スマホの画面に表示されている時計が、動いていないのだ。先程切られて手渡されたレシートを見る。時間は全く同じだ、確実に会計を済ませてから5分は経っているはずなのに。
思わず顔を上げておじいちゃん店員の顔を見る。するとおじいちゃん店員はカウンターの上に置いていたであろう、小さなアナログの置き時計を出してきた。
秒針が、動いていない。
「この時計は壊れているわけではないんだ。お嬢さんのスマートフォンの時計もそう。今、地球の時間は
この店が片方の世界と繋がっている間、もう片方の世界は時間が止まっているわけだ。お嬢さんがドルテにいて活動できるのも、この店がドルテに繋がっている間だけ。
つまりこの店の中は、地球の時間とドルテの時間が交互に流れているんだ。まぁ、それでもそれぞれの世界で定休日はあるけれどね」
「えーと……つまりあれですか、今地球は土曜日の昼十二時のままで、それは明日や明後日になっても変わらないと」
「そういうことさ」
ぱちりと丸眼鏡の奥でウインクするおじいちゃん店員。その話を聞いて私がほっと胸を撫でおろしたところで、古書店の入り口から若い男性が顔を覗かせた。
「Buna, Ben! Exista carti bune acolo?」
突然の耳慣れない言語に、目をぱちくりとさせる私。対しておじいちゃん店員は何でもないように、にこやかに笑って口を開いた。
「Buna, Charlie. Am cumparat carti interesante, asa ca te rog sa te uiti.」
おじいちゃん店員の口からも、謎の言語が飛び出した。目を見開いたままおじいちゃん店員の方を向く私を尻目に、男性客はさっさと店の中に入ってくる。
そして、私を一目見て立ち止まった。
「Wow, sunt fete dragute! De unde va aflati?」
「え、えぇっと……」
満面の笑みを浮かべながら、ずんずんと私に近寄ってくる男性客。勿論、謎の言語を喋りながら。
話している言葉の中でかろうじて聞き取れたのは冒頭の「ワーオ」のみ。さっぱり意味が分からずに困惑する私に、おじいちゃん店員が声をかけた。
「Ea este calatorul, tocmai am venit la Fugler doar ultima oara. Inainte de a speria, uita-te la carte.」
「Acest lucru este nepoliticos. Ne vedem mai tarziu!」
おじいちゃん店員に何やら促されたのか、男性客は私にウインクして店の奥へと入っていった。
後に残された私はポカーンとしたまま、目だけをおじいちゃん店員の方に向ける。
「今……あの人、なんて言ってたんですか??」
「『これは失礼、じゃあまたね!』だってさ。その前は『可愛い女の子がいるね、どこから来たの?』って言ってたよ」
「じゃあ、店員さんが言ったのは……」
「『彼女は旅行者で、先程フーグラーに来たばかりだ』『怖がっているからさっさと本を見てきなさい』ってね。
彼が入ってくる前のは、『こんにちはチャーリー、面白い本が入荷したよ』って具合かな」
小首をかしげて耳元を掻きながら、さらりと答えるおじいちゃん店員に、私はおずおずと問いかけた。
「英語……じゃ、ないですよね?」
「そう、
「出たー、
異世界転移で往々にして発生する言語の違い。それに私はものの見事にぶつかった。
がっくりと肩を落としながらも、耳で聞き取った先程の会話を思い返す。男性客の話した内容を思い返して、私はおじいちゃん店員に目を向けた。
「『ベン』って、店員さんの名前ですか?」
「そうだよ。ベン・アガター。皆さっきみたいに『ベンさん』って呼んでくる。日本では
「勉強の勉、で、ベン、ですかー……なるほど」
おじいちゃん店員――ベンさんの名前を聞いて、私は心底感心した。
ドルテ語の名前と日本語の名前と、どちらが先なのかは分からないが、よく考えたものである。
「そういえば、お嬢さんの名前は何ていうんだい?」
「あっはい、ミノリ……
「なるほどねぇ、ミノリちゃんか」
そうして私とベンさんの間で交わされた、軽い自己紹介。
これが、私が異世界ドルテに降り立って初めて行われた、人との交流であった。
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