翡翠色の空の下で~古本の旅行ガイドブック片手に異世界旅行~

八百十三

第1章 古本屋を出たら異世界でした

第1話 遠いところに来たもんだ

 石畳の敷かれた、街の目抜き通り。

 通りを見渡せる喫茶店のテラス席で、私は一冊の旅行ガイドブックに視線を落としていた。

 古本屋で購入した、少々使用感の目立つその冊子のページをペらりとめくる。

 「旅行中に役立つ単語・会話(種族別)」という見出しで、日本語とアルファベットっぽい未知の言語、その言語の発音標記が、可愛らしいイラストとともにページの中で踊っている。

 それらの単語を目で追いながら、テーブルの上に置かれたティーカップに空いている手を伸ばした。

 ほんのりと甘い香りがして、ほどほどに酸っぱい、ハーブティーと勝手に思っているお茶が、紅茶のような赤みを帯びてティーカップの中で揺れる。

 湯気の立つお茶を一口すすり、喉の奥へと送り込んだ私は。


「……どーするかなぁー」


 ティーカップをテーブルに戻すと、椅子の背もたれにもたれ、澄み切った緑色・・をした空をぼんやりと見上げるのだった。




 時は、数時間ほど前に遡る。


 仕事が休みの土曜日に、私――さわ 実里みのりは神保町の古書店にいた。

 昼食にネットで話題のカレー屋さんでバターチキンカレーを食べて満足した後に、靖国通りをぶらぶらと歩いていて、何の気なしに古本屋に足を踏み入れたのだ。

 書店の名前は、記憶違いでなければ確か「湯島堂書店ゆしまどうしょてん」。

 本棚のラインナップを見る限りでは、実用書の取り扱いが中心のお店であるらしい。

 和包丁の研ぎ方だとか、掃除の仕方だとか、そういう本に埋もれるようにしてそれ・・は本棚に収まっていた。


 他の本よりも幾分色味が鮮やかで、およそ神保町の古書店には似つかわしくない雰囲気を醸し出すそれは、旅行ガイドブックだった。

 一昔前に旅行をしていた人なら誰でも知っているであろう、旅行ガイドブックのド定番。「みるぶ」である。

 なんでこんな雰囲気のある古書店にこいつがいるんだ、と思う節もあったが、当の「みるぶ」、端が微妙に丸くなっていたり表紙の色がかすれていたりと、若干使用感がある。

 つまり、これも立派に古書である。

 そして私は「みるぶ」の表紙に書かれた単語を見て、目を見張った。


「『異世界・・・』……??」


 異世界。何度か見返してみたけど、やっぱり異世界。


 いやいや、ちょっと待って欲しい。

 異世界ってすなわちあれだろうか、地球とは別の次元で、エルフとか獣人とかがそこらへんに居て、モンスターが跋扈していて、剣と魔法の世界みたいな。

 そんな世界の旅行ガイドブックってどういうことだろう。安全に旅行が出来るのだろうか。というかそもそもそんなところ、どうやって行くのだろう。現代技術は国境どころか世界の境界線もポーンと飛び越えちゃうってか。

 疑問に思いながらも、何故か関心を持った私は表紙をパラリとめくった。


「……なんだこりゃ」


 最初の一ページ目にざっと目を通した私の口から、そう言葉が漏れた。

 始めに言っておく。私は読書が好きだ。ファンタジーもまぁ、読まなくはない。最近のライトノベルやネット小説も、手を付けたことくらいはある。

 ファンタジーとか異世界とか、そういうものに拒否反応を示すことは無いと、自分自身では思っている。

 だが目の前の「みるぶ」に掲載されている情報は、何と言うか、読めないわけではないのに、訳が分からない。


 ・転移直後はこれを買え! 市場で買うべきものベスト5

 ・旅先で恥をかかない異世界人との種族別挨拶マナー

 ・異世界での日本円の価値、両替レート

 ・異世界の主要都市を一日楽しむために!ガイドマップ


 こんな見出しが目次に踊っている。

 何と言うか、やたらと現実的というか、即物的というか。取り上げるポイントがなんとも生々しい。

 本当にちゃんとした出版社から出版されている「みるぶ」なのだろうか。よくできた偽物なのではないだろうか。

 訝しげに思いながら書籍の一番後ろ、奥付を確認すると、ちゃんと某大手旅行代理店子会社の出版社の名前があった。版と刷もきっちり書かれている。

 というか初版なのはいいとして第3刷なのか。意外だ。よくまぁこんな企画が通って重版までしたものだと思う。

 出版年月日は……2010年の11月。だいぶ古い。


「なんだろ……面白そうではあるけど……」


 胡散臭い。胡散臭いが、ジョークグッズとしては案外ありではなかろうか。少なくとも与太話のネタにはなる。

 そう思って裏表紙に貼られた値段シールを見てみる。お値段200円。安い。

 私はその「みるぶ」片手に古書店の通路を進んだ。入り口横に設えられたレジカウンターの前に立つ。

 丸眼鏡をかけた、白髪がまばらに残るおじいちゃん店員に、私は「みるぶ」を差し出した。


「すみません、この本ください」

「はいはい、まいどあ……」


 こちらに目を向けて「みるぶ」を受け取った途端に、おじいちゃん店員が目を丸くした。


「こりゃあ驚いた……どこの棚に収めたもんだかと思っていたが、見つけられる人がいるとはねぇ……」

「えっ……?」


 丸眼鏡に手をかけながら感心したような声を漏らすおじいちゃん店員。私はすっかり置いてけぼりである。

 というか「どこの棚に収めたもんだか」って今言わなかったか。まさか古書店側も把握していない古本とか、そんなノリなのだろうか。

 ぽかんとする私に、おじいちゃん店員が眼鏡の奥の瞳を私に向けてくる。


「お嬢さん、この本は不思議な本でね、見る目・・・のある人にしか見つけられないんだ。

 長いことうちの書店に置いていたけど、手に取ってレジまで持ってきたのはお嬢さんが初めてだ」

「はぁ……そんなにいわくつきなんですか、この本」

「いわくつきというかねぇ……すり抜ける・・・・・んだよねぇ、色んなものを」


 おじいちゃん店員の言葉はなんとも抽象的で要領を得ない。首を傾げる私だったが、ともあれ財布を取り出した。


「ま、いいです。見つけたいい機会ですし、買います。216円ですよね?」

「そうか……えぇと、そうだね、200円に税込み。216円」


 おじいちゃん店員がトレイを差し出してくる。そこに私は100円玉2枚、10円玉と5円玉と1円玉を1枚ずつ、無造作に乗せた。

 トレイをひっこめたおじいちゃん店員は、がさがさとビニール袋に「みるぶ」を収めると、切ったレシートと共に私へと差し出してきた。


「ありがとうお嬢さん、楽しんでおいで・・・・・・・

「……? ども」


 何やら意味深な発言をして、にっこり笑いかけるおじいちゃん店員に、そっと会釈を返して。

 ビニール袋片手に至極するっと古書店の外に出た私は、目を剥いた。


 風景がまるっきり違うのだ。

 神保町にいたはずだし、店に面した通りは靖国通りのはずだ。

 それがどうだ、足元の道路はコンクリートではなく石畳、ガードレールなんてものはなく、車の代わりに馬車が走っている。

 通り過ぎた馬車の中にちらりと見えた貴婦人の顔は、鱗に覆われて鼻と顎が長かった。まるでファンタジーに出てくるドラゴンのようだ。

 おまけに街並みの向こう、屋根の上に広がる空が緑色だ。青くない。太陽も黄色がかっている。


「……なんだこりゃ??」


 手に持ったビニール袋を取り落としそうになりながら、私は呆然として呟いたのだった。

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