第5話 ホテル暮らしの始まり

 「みるぶ」を一通り読み終わって「湯島堂書店」に戻った私は、ちょうど店の前でベンさんと鉢合わせて、そのままの流れでホテルに向かうことになった。

 当座の宿泊費について両替してから、とも思ったのだが、ホテルの隣に銀行兼両替屋があるんだそうな。これは便利。

 案内されたホテルは「Hotelul Salcum」。「ホテルル・サルカム」と発音するらしい。「みるぶ」でも、コスパがいいホテルとして取り上げられていたはずだ。

 この世界でもホテルはホテルなんだなぁ、と謎の感慨に耽っていると、ベンさんがホテル隣の建物の前で私に手招きしている。


「先に両替してから入ろう。こっちにいらっしゃい」

「あ、はい」


 私がそそくさとベンさんの傍まで駆け寄ると、ベンさんは私を先導するようにして建物の中へと入っていった。

 中に入ると、銀行にしては意外と静かで小ぢんまりした空間が広がっていた。手前側の窓口にはちらほらと人の姿もあるが、奥の窓口はガランとしている。

 ベンさん曰く、手前側は預金と出金の窓口、奥側は両替の窓口なんだそうだ。すべての国で同一の通貨が使われている関係上、両替の必要性は薄いのだろう。

 迷わず奥側の窓口に向かったベンさんが、窓口に置かれた呼び鈴を鳴らす。程なくして長耳族ルングの女性がパタパタと駆け寄ってきた。


「Pot sa va ajute.」

「Pot schimba yenul japonez?」

「Da, o facem.」


 窓口の女性の応対を聞いたベンさんが、私に向かって笑みを見せる。


「両替できるって。500円玉、出していいよ」


 問題なく受け付けてくれるようだ。ホッとした私は、窓口の上に置かれた石製のトレイに、財布から取り出した500円玉を置く。

 カチリ、と小さく硬質な音が鳴った。


「ヴァ ログ」

「Am confirmat-o. Asteapta o clipa.」


 500円玉を乗せたトレイを手に取って、長耳族ルングの女性は丁寧に一礼した、と思いきや。

 束の間で後ろを向いて勢いよく立ち上がり、後ろの方で働く同僚たちに向けて声を張った。


「Iata! Iata! Sunt "YEN" autentic japonez!」

「Minunat!」

「Arata-mi!」


 女性の手で高く掲げられた私の500円玉を一目見んと、その場にいた銀行の職員たちが男も女も老いも若きも、関係なしに殺到していた。

 その凄まじい興奮ぶりを目にした私は、思わず隣にいるベンさんと顔を見合わせた。


「なんか、皆さん凄い興奮してますね……」

「まぁ、日本円自体が、普段は目にすることの無いレア物だからね。特に新500円玉は、専門のコレクターもいるくらいに人気なんだよ」

「はー……」


 苦笑するベンさんに私が気の抜けた返事を返していると、先程の長耳族ルングの女性が後方で興奮しきりの同僚たちを放置して、石製のトレイを手にこちらに歩いてきた。

 トレイの上には銀色をした大ぶりの硬貨が3つ。あれが10アルギン銀貨なのだろう。


「Va multumesc ca ati asteptat. Iata treizeci algini dupa schimbarea valutei.」

「ムルツメスク」


 トレイを受付カウンターの上に置いてにっこり微笑む女性に頭を下げつつ、私は30アルギンを財布の中に収めた。

 用事は済んだ、と身体を入り口の方へ向けた私の前に、別の用事で銀行に来ていたのだろう、短耳族スクルトの小柄な男性が駆け寄ってきた。


「Sunteti japonezi, nu-i asa? Chiar daca este de unu yen, va rugam sa binecuvanteze!」

「へ!? え、えーと……」


 早口でまくし立ててくる男性に、困惑する私。話の内容はいまいち聞き取れなかったが、「ウヌ イェン」とか言っているのを聞くに、私の手持ちの日本円が目当てだろうか。

 と、ベンさんが私の手を取った。そのまま短耳族スクルトの男をぐいと押しのける。


「E rau, dar ma grabesc. Scuzati-ma. さ、行くよ」

「え、わわっ……!」

「Uh...」


 二の句を継げずにその場で立ち尽くす男性を放置して、さっさと前に進むベンさんと、その彼に手を引かれる私は、そのまま銀行を後にした。

 銀行を出たところでやっと手を放してくれたベンさんに、私は怪訝な目を向ける。


「あの、今の人って」

「ミノリちゃんは気にしなくていいよ、あれはただの物乞いだから」


 優しい表情のままでさらりと言ってのけるベンさんに、私は目を見張った。

 物乞い。観光客目当ての物乞いは海外旅行では比較的ありふれた存在だが、異世界でも目にすることになろうとは。こんなに平和そうな都市なのに、意外だった。


「物乞いって、いるんですね……」

「ドルテだと日本からの観光客は目立つから、砂糖を見つけた蟻のように寄ってくるねぇ。

 まぁ、もしかしたら日本円コレクターだったかもしれないけれど、いずれにせよ恵んでやる道理はない」


 ベンさん、ドルテの生活も長い故にか、物乞いに直面しても考え方や対応がなんともドライである。非常に頼りになるな、と私は感心した。

 かくしてもう一つの目的地、「ホテルル・サルカム」だ。「みるぶ」によればそこまで格調高いホテルではないとのことだったが、足元を見られたりしないだろうかと、ちょっとだけ不安に駆られた私である。




 「ホテルル・サルカム」のフロントは、豪奢とまではいかないものの、なかなか小綺麗にまとまったレイアウトをしていた。

 天井から吊るされる灯りは簡素で、淡い橙色の明るい光を放っている。白熱電球だろうか、それとも蛍光灯だろうか。

 灯りにちらちら目を向けつつ、私はベンさんと一緒にホテルのカウンターへと歩を進めた。ぴっちりした服装に身を包んだ長耳族ルングの男性が、にこやかに微笑みかけてくる。


「Buna seara. As dori sa stau cu o singura persoana. Aveti camera libera?」

「Buna seara. Da, exista camera in camera single. Cat timp vei ramane?」

「Hm... ミノリちゃん、泊まれるそうだけど何泊で部屋を取ろうか?」


 フロントの男性の言葉を通訳しながら、ベンさんが私の方を向いた。

 私はしばし考え込んだ。すぐに帰れるようになるか、今の段階では何とも言えない。かと言っていきなり長期間部屋を取っても、仕方がない気がする。


「んー、そうですね……とりあえず二泊くらいでお願いできますか。連泊が必要になりそうなら、別途お願いするので」

「オーケー。Pentru doi nopti. Este micul dejun si cina pe?」

「Da. Cu mic dejun si cinaa va fi patru algini pe noapte.」

「Multumesc. ミノリちゃん、朝食・夕食付きのシングルルームで一泊4アルギンだって。どうする?」


 やり取りを経たベンさんが再び私の方に目を向けた。二食付いて4,000円なら、かなりお得だ。これで部屋も綺麗なら言うことなし、というところだろう。

 泊まります、と言おうとして、私はのどまで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。一つ、確認しなければならないことがある。


「あ、お風呂ってどうなってますか?」

「ちょっと待ってね。Exista o baie?」

「Da. Fiecare camera are o cada si apa calda iese, de asemenea.」

「部屋にお風呂があるそうだよ」

「本当ですか!? うわぁ嬉しい!」


 ベンさんの言葉に素直に喜んだ私だ。

 大浴場を欲するほど、私は宿のお風呂に執着しないが、シャワーくらいは浴びたいものだ、年頃の女性としては。

 私はベンさんに了承のサインを送る。にっこり笑ったベンさんが、フロントの男性に向き直った。


「Voi ramane.」

「Da, domnule. Va rugam sa va scrieti numele si adresa aici.」


 そう言ってフロントの男性は、カウンターの下から一枚の紙とペン、インク壺を出してきた。日本のホテルで書くことが義務付けられている宿泊カードのようなものだろうか。

 ペンを取って、インクを付けて、いざ書こうとした私はハッとした。

 ドルテの文字を・・・・・・・私は書けない・・・・・・。おずおずと隣のベンさんに視線を投げると、ため息交じりに苦笑したベンさんが、私の手元の紙に手をかけた。


「私が代筆しようか。書けないでしょ」

「すみません……お手数をおかけします」


 大人しくベンさんに、手に持ったペンを手渡す私。

 そうして宿泊手続きの一切をベンさんに代行してもらった私は、何とかかんとかホテル暮らしをスタートさせたのだった。

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