竜のピーマン

 川の方角から、黒雲のように空を這ってやってくる影があった。


「竜だ。竜が出たぞ!」


「みんな、逃げな、食われちまうよ」


 どよめきが起きるのと、街に暗い影が落ちて光がさえぎられるのは、同じだ。


 竜がやってくると、街はいつも「逃げろ」と悲鳴でいっぱいになるけれど、今は違った。街の人は、自分たちの手で家の壁やら屋根やらに貼った和紙をちらちらと見ている。


「大丈夫だ、呪符が守ってくれるよ」


 だから、おれはやっぱり不安になった。


 ―――だって、ちゃんと効かなかったらみんなの避難が遅れる。まずい。

 

 おれは天に祈った。神様にも。


 ――お願い。どうか、効いて!神様、助けて!


 竜はいつものように宙に浮いて、どこから街に食いついてやろうかと舌なめずりをしながら、上空をいったりきたりした。


 街のみんなも、竜の動きをじっと見上げた。大勢の人が「ごくり」と固唾をのんだ音を感じるくらいに、千住の街は静まり返った。


 竜の様子は、いつもと違った。大砲や忍者まで総動員して戦いを挑んだ時よりも、竜はすこし躊躇していた。手ごわい相手をいやがるように、何度も何度も上空でいったりきたりをして、とうとう、小さな唸り声を上げた。「降参」というような細い声だった。


 おれの隣にいたお凛が、ぽかんと口をあけた。


「なんてこった、竜が――」


 竜は、街を襲わなかった。そこなら餌にできそうだと、食らいつく場所を探すようにうろうろと飛んだけれど、食らいつく先に文字を書き連ねた和紙が貼られているのを見つけると、すごすごと空高い場所へと退いていく。


 わっと、街の空気が揺れた。


「竜が、襲ってこねえ」


「効いたんだ、霊験あらたかな呪符が!」


 街中の人が歓声をあげて、抱き合って喜んだ。海苔屋のおじさんも、野菜売りのおばさんも、お凛さんも、赤門衆も、おれに抱きついてきた。


「やったよ慧、とうとう竜が苦手なものを見つけた!」


 おれも嬉しかった。それよりもホッとした。


「よかった……詐欺師にならなくて済んだ」


 なにしろ、まだ中学一年生になったばかりだ。


【驚愕! 嘘の情報で扇動した詐欺師は、中学校入学直後の十二歳少年】とか、妙なタイトルで世間を騒がせたくないよ。お江戸の世界なら、瓦版の号外が出ちゃうところだった。


 「絶対に大丈夫、うまくいく」と信じていたけれど、なんの根拠もない自信だったんだ。よかった――と膝の力が抜けていく。でも、同じくらい、飛び上がって喜びたい気分で、嬉しいとヘナヘナが同時にやってくる。嬉しいのか苦しいのかどっちなんだよと、身体が困っていた。


「やっぱり、竜が食べていたのはおばあちゃんの思い出だったんだ。おばあちゃんの思い出は、おばあちゃんの思い出で守れたんだ」


「おばあちゃん?」


 お凜が首をかしげる。


 お凜はおれのおばあちゃんだけど、この世界ではそうじゃなくて「お凛」っていう人になっている――そういう設定だ――たぶん。どうしておばあちゃんがお江戸ごっこをしているのかは、おれにはわからないけど。


「じゃなくて、お凜さん。とにかく、あの竜が街を食べてるのは、この街の情報を奪いたいからなんだ。みんなに書いてもらったあの紙は、この街のもとになるデータなんだ。もっと書こうよ。書いて書いて書きまくって、どれだけ食べても無駄だって、あの竜に思い知らせるんだ」


「でえた? 難しい言葉だね。とにかく、慧のいうとおりにすりゃ、あの竜を追い払えるんだね? なら、また紙集めだ。紙問屋の紙は使い尽くしちまったから、ほかの店を頼らないと――」


 お凛が景気よく笑った、その時だ。お凛の真うしろ、街の端っこめがけて、竜が口を突き出した。くわっと大きな口をあけて白い歯を見せ、がぶりと食らいつく。竜はまた、街を食べた。


 一瞬のうちに、街が悲鳴に包まれる。


「やっぱりだめだ、竜が街を食った――!」


「呪符も効かねえのか、逃げろ」


 食べられてなるかと、いっせいに人が赤門寺の方角へと身をひるがえす。駆け出そうとした人たちを引き留めたのは、お凛だった。


「みんな待ちな! 食らい方がいつもと違う。慧の呪符は効いてるよ」


 ぴんと張りつめた顔で、お凜は竜の口元をじっと睨んでいる。それから、赤い袖に包まれた腕を掲げて、人差し指の先を竜に向けた。


「ほら、ごらん。竜はやっぱりあの紙が苦手なんだ。あの紙を避けて食べてる」


 たしかに――。竜はいつも、ホールケーキにかぶりつくような豪快さで街をむさぼった。でも今は、食べ方が奇妙なほど細々としている。例えるなら、ピーマンが苦手な子どもが、ピーマンがない場所を探して、そうっとハンバーグをつつくような――。そう思って見てみると、本当にそうだ。ピーマンが苦手な子どもの噛みつき方にかわっていた。


 マジか。あの呪符は、竜のピーマンになった。


「よし」と、お凛は顔をあげて、街中に響くほどの声を張り上げた。


「作戦変更だ! 壁に貼った紙をはがして、みんなで輪になるんだ。隙間がなければ、あの竜は内側には入ってこられない。あの紙で囲めば、内側は安全な場所になるよ。守れるものを守るんだ。みんな、急ぐよ!」





 千住は、千人、いや、万人が住む大きな街だ。でも、いくら住んでいる人が多くても、手をつないで輪をつくると、輪の内側に囲むことができるスペースは限られた。


 たぶん、もう千人はいなかった。いつかどこかで、竜に食べられてしまったのかもしれない。


 集まったみんなは、大事なお守りのように文字を書き連ねた和紙を手に持って、紙が破れないように気をつかいながら輪をつくった。


「輪っかを切らすな! あの竜は隙間を狙ってくるぞ」


 赤門衆の人が、息を切らして走りながら監督をつとめている。「手と手が離れるくらいなら輪を縮めるんだ!」という言葉が飛び交って、人の輪に囲まれたスペースはますます狭くなった。


 囲んでみるとわかるけど、街って、思っていたよりずっと大きい。街中の人で囲んでも、一番人が集まる大通りと、竜からの避難所にもなっている赤門寺が輪の中に入るようにすると、千住の街すべては囲めなかった。


 おれは、はっと気づいた。


「あいつがいない」


 人でごった返す千住の街でおれが探したのは、白いパーカーとジーンズ姿の、おれそっくりの格好をした少年。


 だんだんおれは、そいつの正体に気づき始めていた。もしかして、あいつは――。


「慧、どこへいくんだい」


 人の輪をくぐって通りから遠ざかろうとしたおれに、お凜が声をかけてくる。


「一人、いないんだ」


「いない?」


「避難できてない奴がいるんだ。こっちに来いって、知らせてこなくちゃ」


 あいつの正体は、きっと――。


 だったら、あいつの居場所も、もうおれはわかるはずだ。

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