千住大橋が凄すぎる

「さ、出かけようか」


 翌朝の早いうちに、お凛と蔵、おれの三人で、家を出た。


 通りに出て歩きはじめるけれど、お凛と蔵がなにもいわずにひたすら歩くので、おれは不安になった。


「両国までどうやっていくの?」


 お江戸になってしまった千住の街には、そういえば電車がない。バスもない。自転車もない。


「この時代の乗り物といえば、駕籠かご?」


 時代劇でお侍さんが乗る物といえば、「エッホ、エッホ」って掛け声をかけながら運んでもらう、アレだよね。


 たずねると、お凛は目をまるくした。


「駕籠に乗るなんて、おまえさんはどこの殿様とのさまだい。両国りょうごくならすぐそこだよ。いまから出れば昼前には着く」


「いまから出て昼前って……歩くってこと? こんな時間から?」


 まだ早朝なのだ。千住の街は澄んだ朝の光に包まれていて、その日差しも低い場所からさしている。夜が明けたばかりだ。


「歩くさ。千住は、お江戸の街に近いってんで有名なんだよ。ここからなら、朝にとれた野菜も魚も新鮮なままで日本橋にほんばしに届けられるんだよ」


「近くて有名って、日本橋ってどこだよ!」


「お凛」


 会話をさえぎるような、くらの低い声。くらは墨の色をした着物を着ていて、袖ごとふわりと上げて指をさした。蔵が示した場所は、道の先。千住の街を貫くように道がまっすぐに続いていたけれど、向こう側はぽっかりと明るくなっている。街と街のあいだに、大きな川が流れているのだ。


「ああ、くらさん。はいはい。じゃ、いこうか」


 なんだか、歩くってことで話がまとまったみたいだぞ。おれの抗議はどうなったんだ!


「歩くの? おれ、遠くまで歩くのはいやだよ」


 文句をいったけれど、お凛はもう聞く耳をもたない。「わかった、わかった」と、さっさと歩きはじめてしまった。



 


「ほら、慧。千住大橋せんじゅおおはしだよ」


 日本橋にほんばしに、千住大橋せんじゅおおはし


 お凜は「そら、ごらん」とばかりに明るく笑っていたけれど、悪いけど、これまでの人生で橋に興味をもったことなんか、一度たりともなかなったよ。


 ついでにいうと、長く歩くことを目的とした学校行事は大嫌いだった。バスでいく修学旅行と違って、山登りとか、そういうの。あれは「遠足」という名前で呼ばれてるせいでちょっと楽しそうにきこえるだけで、どちらかといえば体育やマラソンの仲間だ。足はクタクタになるし、足の裏は痛くなるし、靴擦れやまめができると、そのあとの何日間も最悪の状態で靴をはかなきゃいけなくなるし。つまり、この世の地獄。拷問だ。


 すっかりテンションが落ちて、トボトボとお凛のあとを追うおれを振り返っては、お凜ははっぱをかけるように明るく笑った。


「なんだい、いい若いもんが。ほら、ごらん。千住大橋せんじゅおおはしだよ。千住の宝だ」


「だからさぁ、おれは橋になんか興味は――」


 文句をいいかけたけれど、言葉は途中でとまる。お凜が「ごらん」と見せたものが、あまりにも壮大だったのだ。


 千住の街を貫く道の先には、大きな木製の橋がかかっていた。


 川幅は結構広かったので、そこに架かった橋ももちろん、川幅と同じくらい大きい。


 おれはこれまでに何百回と、大きな橋を渡ったことがあった。橋がないと川は渡れないんだから、自動車でも、電車でも、大きな鉄の橋を何度も渡った。


 でも、目の前にあるのは、お江戸の橋。木製なのだ。


 こんなに巨大な木製の橋を見たのは、生まれてはじめてだった。


 山に立っていたはずの丸太を、何百本、何千本と伐って、運んできて、一本一本組み合わせて、大きな川を越えるためにつくられた人工の道――橋っていうのはそういうものなんだってことを、おれははじめて理解した。


 なんていうか、法隆寺とか、東大寺とか、大きな古いお寺を見上げた時のような感動が胸に湧いた。


「すごい――」


「だから、いっただろ? この橋は千住の宝なんだよ」


 お凛は誇らしげに笑った。


「この、広い広い荒川を渡るには、舟に乗るか、この千住大橋を渡るしか方法がないんだ。だから、人はみんな千住に集まってくる。ここからしか対岸に渡れないからさ。この橋の先には、将軍様のおひざ元のお江戸の町がある。お江戸に行く人も、出てくる人も、こっち方面とあっち方面を行ったり来たりする人は、必ずこの橋を渡らなくちゃいけないんだ。だからね、千住にはたくさんの人が集まる。まさに大千住なんだよ」


 「さ、渡るよ」と、お凛がいい、おれも、橋の上に足を乗せた。


 おれが知っている現代の橋は、たいてい路面がアスファルトになっている。でも、お江戸の橋は違う。橋には木製の板が敷き詰められていた。当然のことだけど、すべてが木製なので、足元も、手すりも、すべてが木製だ。


 足を包んだスニーカーの靴底が木製の板を踏むと、とん、とんと軽い音が鳴る。それも、鉄筋でつくられた現代の橋ではありえないことだ。


 橋の上からの眺めも、絶景だった。


「すごい、きれいだ」


 海の方角へ向かって流れていく荒川は、朝の青空を映して、ほんのり青く染まっている。


 川底が見えないくらい深い川で、そのぶん水の色が濃くて、水が本当は透明だなんてことが思い出せないくらい、深い色をしている。


 海の青とはまた違うすこし鈍い青色をした水面には、白い帆をつけた小舟がいくつもいくつも浮かんでいた。


 川の水の上は、舟のための道になっていた。たくさんの舟が行儀よく列をつくって、同じ方角へと舳先の向きをそろえていた。


「うわぁ……」


 手すりに駆け寄って水面を覗きこんでいると、お凛の笑い声が近づいてくる。


「慧は舟が好きなのかい?」


 お凛のそばにはくらもいる。蔵は相変わらずにこりともしなかったけれど、おれが寄り道をしたことに、いやな顔もしなかった。


「お凛」


 一度、くらが橋の向こうを見た。


「はいはい、そうだね。そうしよう」


 お凜がうなずいて、おれに声をかけた。


「どうだい、慧。気が済むまで眺めたなら、橋を渡ろうじゃないか。舟に乗ろう」


「舟に?」


「ああ、蔵さんがそういってる。たしかに、いい案だ。あんたはか弱くて、歩くのがいやだってブツブツうるさいしね」


 えーと――いまおれ、さらっとディスられたよね?


 でも、おれが歩くのを嫌がってるから舟に乗るってことは、両国まで歩かなくていいんだよね? やった!


 いろいろと思うことはあった。でも、一番ふしぎに思ったのは、これだった。


 くらはさっき、「お凛」と名前を呼んだけれど、たったそれだけのことで、お凛は「くらさんが舟に乗ろうといってる」っていった。名前を呼ばれただけだと思ったけれど、どうしてそんなことがわかったんだろう?


 以心伝心? テレパシーみたいだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る