両国の百円ショップ

 千住大橋を渡りきって、水辺に沿って川岸を歩くと、船着き場が見えてくる。どの舟にも、いろんな荷物が積まれている。野菜、薪、魚、布、油の壺、しょうゆの樽、薪、ちょっと匂うへんな塊、ほかもいろいろ。


「上流から舟がくるだろ。川越夜船だよ」


「川越夜船?」


「ああ。昨日の夜に川越の街を出て、一晩かけて、千住に着いたところさ。ここからまた、浅草に向かうのさ。川越だけじゃないよ、千住にはいろんな街から荷が集まってくるんだ。どうだい、大千住は賑やかなもんだろ?」


 船着き場には、ざっと百人くらいの人がいた。舟に荷物を積んでいる人もいたし、船乗りもいた。船乗りを客にした屋台も出ていた。


「腹が空いたね。そういや、朝飯はまだか。なにか――」


 屋台からふんわりと届くおいしそうな匂いも、朝の船着き場には満ちている。


 鼻をひくつかせたお凛に、また、蔵が一言。


「お凛」


「はいはい、わかったよ。そうだね、飯を食べるのは両国にしよう。とっておきの街を慧に見せてやろうね」


 お凜はすぐに答えた。でも、おれは二人の会話が成り立っているのがたまらなく不思議だ。


 だって、「お凛」って名前を呼ばれただけだったよね?


 こういうの、なんていうんだっけ。たしか――そうだ。「阿吽あうんの呼吸」だ。お凛と蔵は、ほとんどなにも話さなくてもお互いがいいたいことがわかるみたいだった。


 もしかして二人は夫婦――なのかな? とにかく、お凛と蔵は、ものすごく信頼し合っている相棒同士っていう雰囲気だった。




 舟の旅は、快適だった。水の上って楽しいよね。テンションも上がる。


 船着き場から漕ぎ出した小舟は、いってみれば現代のバスだ。


 千住大橋がかかった広い川は荒川っていう名前だ。橋の上から眺めた時にも、その川は「水上の道」のように見えたけれど、実際に舟に乗ってみると、普通の道というよりは、高速道路だ。


 舟にもちゃんと交通ルールがあって、交通事故が起きないようにお互いに気を付け合っているという感じで、おかげでスムーズに進む。


 水の上を進むたびに、風を受けた白い帆が音をたてる。その音も心地よかった。


 それに、舟は思ったよりもずっと速く進んだ。


「すごいね、舟って速い!」


 風を受けて、おれたちが乗った小舟はぐんぐんと川を下っていく。風が強かったわけじゃなくて、乗り込んだ舟がひときわ速かったんだ。周りには、荷物を積んだ小舟もたくさん浮いていたけれど、おれたちが乗った舟は、周りの舟をどんどん追い抜かした。


「そりゃあ、猪牙舟ちょきぶねだからね」


「チョキ舟?」


「船底に細工がしてあって、ほかより早く進むんだ。舟にも速いのや遅いのの種類があるんだ。電車の種類に、各駅停車と快速電車があるようなもんだよ」


「各駅停車と快速電車か、なるほどね」


 電車の中には、すべての駅にとまる各駅停車と、小さな駅はとまらずにスピードを出して走る快速電車がある。なるほどね。


 でも、「あれ?」と思う。


 おれにそう教えたのは、お凛。舟の幅は狭くて、乗り込んだ人たちは縦一列に乗り込んでいる。お凜は前の席に座っていたけれど、水上の景色を眺めるお凛の横顔を、おれはつい、まじまじと見つめた。


「ねえ、お凛さん。いま、電車っていった?」


 ここはお江戸の世界だ。橋は木製。移動手段は、徒歩か舟。偉い人は駕籠かご。電車なんか、あるわけがない。


 なのに、どうしてお凜は「各駅停車と快速電車」なんて言葉を知ってるんだ?


 お凛は一度振り向いて、きょとんと真顔になった。


「いってないね。それってなんだい?」


「いってない?」


 そうだよね――空耳かな。それとも、べつの言葉と聞き間違えたかな。――まあ、いいや。


 やがて、舟の舳先の向こう側に、大きな街が見えてくる。それはもう、大きな大きな街だ。


 現代でいうと、新宿や、銀座や、渋谷みたいな、テレビで見かける繁華街みたいで、大きな建物がたくさん並んでいて、遠くから眺めるだけで街の賑わいが想像できる。


「あれが両国だよ、慧。お江戸一番のさかり場だ。すごいだろ」


 お凜が、うしろの席に座るおれを振り返って笑う。おれも笑った。


「すごいよ! 両国っていうから、相撲しかない街かと思ってた」


「相撲? そりゃ、力士もいるだろうけどね。でっかい芝居小屋がいくつもあるし、水茶屋みずぢゃやもあるし、軽業かるわざの見世物も、並び茶屋もあるし」


 長い木の櫂を手にして舟を操っていた船頭が、大きな声を出した。


「両国橋西詰ぇ、両国橋西詰ぇ」


「もう着くよ、慧」


 お凛の頬越しに、大きな橋が見えていた。その橋の両側に大きな広場があって、端から端まで屋台が建ち並び、背の高い建物も奥に見えている。背の高い建物には、建物を飾り付けるように赤や白の旗が掲げられていた。人の身体くらいもある巨大な提灯をいくつもいくつも屋根からさげている建物もあった。


 大都会っていうか、イベントの会場だ。建物と建物のあいだには広い道があって、物売りや、見物客が大勢歩いている。


 焼きそばやクレープや綿菓子を売るテントがいくつもいくつも並んでいる景色とすこし似ていて、大きなお祭りにやってきた気分にもなった。


「お降りくだせえ。気をつけて」


 船頭の案内で舟を下り、舟がつけられた桟橋から、人でごった返す広場へ向かって歩く。


 陸に上がって、両国という名前のその街に足を踏み入れてみると、人の多さが身に沁みる。足音や話し声、笑い声が、街中に充満していて、足を踏み出すたびに、熱気のなかにズブズブと身体を押し込んでいくようだった。


 「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」と、客引きが大きな声を張り上げていて、ゴワアアン、ゴワアアンと響く銅鑼どらのような音も、何度も鳴る。


「ありゃ、軽業かるわざの客引きだね」


軽業かるわざ?」


「綱渡りやら、猿回しやらを見せる出し物さ」


「サーカスってことね。あっちは?」


 背の高い建物が並ぶ一角があって、その建物があるあたりは、ほかよりも特別ゴージャスだ。小さな屋根くらいもありそうな大きな看板が、いくつも並んでいた。


「ありゃ、芝居小屋だね。飲み食いしながら役者の芝居を見て、豪遊するところさ」


 お凜は「まずは腹ごしらえだね」と、テントくらいの大きさの建物が並ぶ通りを指さした。


「好きなものを食おうじゃないか。天ぷらに、寿司に、ここならなんでも揃ってるよ」


「やった!」





 向かった先は、すだれがかかった簡素な屋台がずらっと並んだ通り。食べ物を扱う店が集まっていて、天ぷら、寿司、おでん、餅、だんご、蕎麦、それに、おれの知らないよくわからない煮物など、メニューもたくさんあった。


 天ぷらを揚げる油の匂いや、酢飯のつんとした香りや、蕎麦の出汁のかつお節の匂いがそこら中から漂ってきて、食欲は増す一方。もう、なんでもいいから食べたいや。


 「あちこちの一級品をつまみ食いすればいいんだよ」と、お凛と蔵は、お店をいくつかはしごしてくれた。


 メニューは、ほとんどが四文。一文、二文っていうのは、十円、二十円……みたいな、この世界のお金の単位のようで、屋台によっては「四文屋よんもんや」っていう看板を飾っているお店もあった。百円ショップみたいな感覚なのかな?


 お凛たちにとってもそこまで高い値段じゃないらしくて、四文と引き換えに買えるメニューも、おやつ程度。ボリュームたっぷりというわけじゃないから、もう少し食べたくなる。


 結局、天ぷらと寿司を食べた。


「お凛」


 食べ終わると、蔵が一言。お凛はにっこり笑ってこたえる。


「ああ、そうだね。一度休もうか。水茶屋みずぢゃやにでもいってね」


 やっぱり、謎だ――。


 このふたり、どうして会話が成り立つんだろう? だって、いまも「お凛」って呼ばれただけだよ。


 思い切って、たずねてみた。


「ねえ、お凛さん。お凜さんと蔵さんって、夫婦?」


「夫婦ぅ?」


 お凛は、慌てはじめた。


「いやだねえ、慧ったら。そりゃあ蔵さんは頼もしくて優しい好い男だけど、あたいにはもったいないっていうか――」


 思わず、ぷっとふきだした。お凜の顔があっというまに真っ赤になったからだ。なにかを話せば話すほど、照れ隠しのためのいいわけにしか聞こえないし。つまり、こういうことだ。お凛は蔵のことが好きなんだ。


「そっか、仲良しなんだね」


「ちょっと、やだよ、この子ったら。ませがきだね」


 ついには赤くなった顔をふいっとそむけて、横を向いてしまった。いつもは姉後肌で、すごくかっこいい女性なのに、お凛にはこういう一面もあるんだな。


 にやにやしていると、照れくさいのか、お凜はさらに怒った。


「なにさ、じろじろ見て。大人をからかうもんじゃないよ」


 でも、全然怖くない。さっきよりもっとにやけてしまって、「はーい」といった。

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