忘れていく病気Ⅱ

 おばあちゃんは、とても明るい人だった。


 覚えているおばあちゃんはいつも豪快で、お父さんに叱られてふてくされていると、「あらぁ、どうしたの! がんばれ、がんばれ」と明るくいって、笑い話にしてくれた。


 おばあちゃんは、北千住の街で小さな定食屋を経営していて、お店が開いている日に遊びにいくと、ごはんをごちそうしてくれた。


「お店においでよ。好きなものを食べさせてあげるから」


 とろっとろになるまで煮込まれた牛スジを使ったカレーは、お店の人気メニュー。お肉の脂の甘みがたっぷり溶けこんだカレーはたまらなくおいしくて、おれも大好物だったし、手作りのカニクリームコロッケと鶏のから揚げがセットになった定食も大好きだった。


「はい、オマケ」


 と、たいてい、赤ウインナーのフライやトンカツがプラスされて出してもらえるのも、嬉しかった。


 「おいしい、おいしい」と通う常連のお客さんも多いお店で、オマケのメニューを当たり前のようにつけてもらえるなんて、おれにとっては、お城で王子様扱いをされるような贅沢な気分だ。だって、お店をやってるおばあちゃんの孫だからこそ起きる、特別なラッキーだ。


 食べにいくと、たいてい席はお客さんでいっぱいだった。でも、おばあちゃんは誰よりも目立っていた。


「おいしいでしょ? あたりまえだよ。あたしゃ、自分が食べたいもの以外は店で出さないから。まずいものを出したりしたら、あたしの評判が下がるじゃない。あたしはいつも完璧なスーパーレディーなの」


 おばあちゃんがなにかをいうと、周りのお客さんがどっと笑う。


 おばあちゃんは話が上手で、明るくて、周りのお客さんを笑顔にさせていて、おれにとっても憧れのおばあちゃんだった。かっこよかった。


 おじいちゃんのことは、実は、あまり覚えてない。


 いつも店の奥の厨房にいて、料理が仕上がると時々出てきて、料理の皿をおばあちゃんに渡していた。


 おれがいくと「元気か?」と笑って、食べ終わりかけた頃をみはからって、「ほら」とプリンを出してくれた。


 おじいちゃんは、あまりおしゃべりなほうではなかったから、「元気か」と「ほら」しか、聞いたことがないかもしれない。


 あと「大きくなったな」か。


 そりゃ、成長途中の子どもなんだもん、大きくなることはあっても小さくなることはないよ、おじいちゃん――って、胸の中でよくツッコミを入れていた。


 でも、おじいちゃんは、去年の春に病気で死んだ。


 おばあちゃんはそれから体調を崩して、病気も、それから一気に進んだんだって。






 転校までして千住という街に引っ越してきたのは、おばあちゃんのお見舞いにいくためだって聞いていた。


 住み慣れた街を離れるのも、数少ない友達を失うのも、おばあちゃんを助けるため。


 かっこいいおばあちゃん、お世話になったおばあちゃんだもん。しかも、おじいちゃんが亡くなってからは独りぼっちだ。


 おばあちゃんを助けるためなら、転校くらい仕方ないよな――と、いいことをするつもりで諦めて、千住の街に来た。


 けれど、お見舞いに出かけた病室で、おれのことを忘れてしまったおばあちゃんに会った瞬間、なんだか、素直に諦めたおりこうな自分をバカにしたい気分になった。


 ――ばーか。おまえがやったことは無駄だったぞ。

 ――おばあちゃんはおまえのことを覚えてないんだぞ。


 そんな感じに。


 おばあちゃんはいくつか病気にかかっていたけれど、一番厄介なのが「認知症」だった。もともと高齢になると物忘れが激しくなるけど、それとは根本から違う、脳の病気だ。


 認知症っていうのは、脳の細胞が一つ一つ壊れていく病気で、壊れた細胞が使えなくなるごとに、そこに蓄えられていた記憶もすこしずつ失っていくんだって。


 思い出のどの部分を忘れるか、一気に忘れるか、じわじわ忘れるかは人によって違うみたいだけど、共通しているのは、一度忘れ去ってしまった記憶は、まず思い出せなくなる。そこが、よくある「物忘れ」とは大きく違うところなんだそうだ。


 お見舞いにいったときに、お医者さんがこう教えてくれた。


「『物忘れ』だったら、思い出しにくいだけで、記憶はまだ脳の中に残っているから、いずれまた思い出せるんですが――。『認知症』の場合は、思い出そのものが消えていくから、一度忘れてしまうと、思い出すことはなかなか難しいんです。でも、本人も、けっして忘れたいわけじゃないんです。一番恐ろしいと思っているのはご本人だと思います。優しく接してあげてくださいね」


 お医者さんがいったことは、とてもよくわかった。


 「認知症」っていう特別な脳の病気があって、おばあちゃんは、それにかかった。


 だから、家族みんなでおばあちゃんのために引っ越してきた。


 仕方ない。でも、仕方なくて、誰も悪い奴がいない場合、ちょっと嫌なことや、いらいらしたことは、いったい誰にぶつければいいの?


 おれは、誰かに「バカヤロー」とか「あいつのせいだ」とか思って、イライラを他人のせいにしていたかった。


 でも、誰も悪くないから、自分に「バカヤロー」っていうしかなくなった。


 ――ばーか。そんなにウジウジしてるのは、おまえが頼りないからだぞ。

 ――おばあちゃんは病気なんだ。どうしようもないだろ?


 でも。イライラを一人で受け止められるほど、おれは心が広くもないし、人間が大きくもない。


 つまり、おれの運が悪かった――と、結論づけたけれど、そうなるとまた、おれの中のおれがおれをバカにする。


 ――やーい。不運なやつ。

 ――ほかのみんなはもっとラッキーな人生を送ってるのに、おまえばっかり、不運なやつ。


「彗、ちょっと待ってて。先生と話してくるから」


 父さんと母さんが病室を離れて、おれとおばあちゃんが病室で二人きりになった時だった。独り言のつもりで、おばあちゃんにいった。


「おれさ、引っ越ししたからさ。友達も思い出もみんな捨てなきゃいけなくてさ、いまのおれ、なんにもないんだ。『新しい友達をつくれ』って父さんも母さんも簡単にいうけど、そんなの、すぐにうまくいくわけないよ。――おれ、なんのために生きてるんだろう。こんなにつまらなくて、なにが楽しいことなのかも、思い出せないのに――」


 自分でもびっくりしたけれど、いいながら、ぽろりと涙がこぼれた。


 目の前で泣いていたら、記憶にあるかっこいいおばあちゃんだったら、「あらぁ、どうしたの! がんばれ、がんばれ」と豪快に笑い飛ばしてくれただろうけれど、その時のおばあちゃんは、ぼうっとしていた。


 まばたきもしないで、赤の他人を見るような目でじっとおれのことを見ていて、おれは思わず、涙をぬぐう手を止めた。


 だって、そこにいるのがおばあちゃんなら、おばあちゃんの前で泣くのは恥ずかしいけれど、知らないおばあさんだから、泣いてたっていいや。知らない人だから。


 そんなふうに、思ってしまった。

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