忘れていく病気Ⅰ


  ◆    ◆  



 引っ越しの荷物を運び入れたばかりで、家の中はまだめちゃくちゃだった。でも、それ以上の作業など、進むわけがなかった。


 一人息子のけいが、行方不明になったのだ。


「引っ越してきたばかりなのよ。友達も知り合いもいないわ。なのに、あの子がどこに行くっていうのよ」


「――夜音子よねこ、警察には話したんだし」


「あの子がいなくなってもう一日も経ったのよ。昨日のうちに事件に巻き込まれていたら、今頃どうなっているか――」


「まだなにもわからないんだ。希望をもって待とう。一度休もう。おれたちも疲れてるんだ。一晩中探し回ってたから――」


「でも、いま休んで、この時間になにかあって、もしも間に合わなかったら――」


「二時間だけだ、一度寝よう。大丈夫だ。これからまた探しにいくためだ」


 夫に支えられて、彗の母、夜音子よねこはようやく「そうね――」とうなずいた。でも、すぐにはっと顔をあげる。


「待って、まだ探してない場所がある」


 そして、二人で出かけた場所は、病院だった。





「ああ、上田さん。面会ですね――大丈夫ですか?」


 泣き腫らした目をしていたせいか、顔見知りの看護師は、夜音子よねこと目を合わせると怪訝顔をした。


「……大丈夫です。それで、お義母かあさんは――」


「お元気ですよ」


 夜音子よねこの義母、けいの祖母にあたるその人は、その病院に入院をしている。見舞いにいくには、車で三時間かけてようやくたどり着くちょっとした小旅行だったが、いまは歩いて十五分だ。千住という街に引っ越してきたのは、義母の入院先と夫の実家がある街だったからだ。


「あら、夜音よねちゃん、直人なおと


 その人は、ベッドの背もたれを起こして、テレビを眺めていた。


 病室のドアのそばで会釈をした夜音子よねこと、その人の息子で夜音子よねこの夫、の直人なおとを見つけると、笑いかけてくる。夜音子はほっと息をついた。


「お義母さん。今日は調子がよさそうですね」


「――あなたたちは悪そうね。どうしたの?」


 夫の母親のその女性は、美しい人だった。若い頃は店の看板娘、美人女将おかみと、千住の街では有名だったそうで、年をとっても、若い頃を彷彿とさせるはっきりした顔立ちをしていた。


 でも、入院するようになってからはかなり痩せて、顔もやつれてしまった。


 いや、そうではない――と、夜音子は思い直した。義母の調子が悪くなったのは、入院したからではなくて、義父――つまり、直人の父で、彗の祖父である蔵之介くらのすけが亡くなってからだ。


 でも、今日は調子がいいようで、義母は、若い頃を思い出させるようなはつらつとした表情を浮かべていた。


 一緒に病室に入った夫の直人なおとは、見るからにほっと胸をなでおろした。


「お母さん、実は、大変なことになったんだ」


「大変なこと?」


「昨日から、彗の行方がわからないんだ。昼に一人で外に出かけてから帰ってこないんだ」


 「夜中じゅう、夜音子と二人で探し回ったんだ。実家も、お寺も、神社も、駅ビルも、コンビニも、河川敷も――」と、直人は、母親にすがりつくようなため息をついた。


「なあ、お母さん。彗がいきそうな場所を知らないかな。あの子と一緒に出かけたことがある場所とか――。彗はここに寄ってないよな? なあ、お母さん、あの子に会ってないよな?」


 ベッドの上で、その人はぽかんと口をあけた。


 しばらく考えるように黙り込んで、ふふっと笑った。


「彗くんなら大丈夫よ。さっき会ったから」


 はっと、直人の顔色が変わる。


「彗に会ったって、どこで――」


 夜音子も思わず前のめりになった。


「お義母さん、教えてください。彗はここにきたんですか」


 でも。二人の目の前で、その人の表情が、みるみるうちに代わる。好奇心旺盛な目の奥にあった光が急にしぼんで、二人から逃げるように顔をそむけ、ベッドの隅ぎりぎりの場所まで後ずさりをした。二人を見る目も、まるでお化け屋敷で奇妙なお化けにでも出くわしたように、おどおどとした。


「あの……どちらさまですか?」


「お母さん――」


 直人の声が不機嫌に大きくなる。「待って」と、夜音子は夫の腕をそっとつかんで、ベッドの隅へ逃げようとするその女性に向かって、笑いかけた。


「お義母さん、夜音子よねこですよ。直人なおとさんの嫁の――」


「直人?」


「直人さんですよ。お義母さんの息子ですよ」


 いらだつ夫の腕をとりながら「落ち着いて」と宥めて、「わたしは夜音子といいます。直人さんと結婚して嫁にきました」と、これまでに何度ともなく繰り返した自己紹介を、いまもゆっくり繰り返した。


 「息子? 嫁?」と、その女性は、恐ろしい詐欺師を見るように首を横に振った。


「私に息子なんか、いませんよ」


 他人行儀にいって、助けをもとめるように病室の四隅を探しはじめた。


「あの、蔵之介くらのすけさんはどこにいきましたか」


「親父なら、去年亡くなったじゃないかよ。お母さん、それどころじゃ――」


 直人のとげとげしい声が母親を責める。息子から逃げるように、かえって女性はベッドの隅へ逃げた。


「亡くなってなんかいませんよ。どうしてそんな嘘をつくの。さっき会いましたよ」


 夜音子の夫、直人は、目の前にいる女性の実の息子だ。でも、その女性はいま、息子のことを忘れていた。見知らぬ不審者でも相手にするように、女性は病室の四隅や、ドアの向こう側に助けをもとめはじめた。


「看護師さん、いませんか、看護師さん」


「お母さん、それどころじゃないんだ。彗が――」


「待って、直人さん、落ち着いて」


 夜音子の目に、ふたたび涙があふれた。


 息子、彗の行方がわからず、ここへ来る前から胸は不安でいっぱいだった。母親から忘れられて悲しむ夫を見ているのも、寂しかった。自分が育てた息子なのに、その息子のことなど知らないといい張る女性のことも、悲しかった。


「またきます。お義母さん。また今度」


 夫の腕を引いて、「ゆっくり休んでください。お邪魔しました」と笑顔をつくって会釈をした。


 帰るそぶりを見せたからか、ベッドの隅で逃げるように身体を小さくしていた女性がすこし身体を起こして、不審げに目を合わせてくる。


「あなた、どうして泣いてるの?」


 おずおずとして、まるで、知らない人に尋ねるような言い方だ。でも、夜音子は平気だった。夫と結婚して、その女性と「お義母さん」「夜音ちゃん」と呼び合うようになってから、二人のあいだにはいろんな思い出が生まれていた。


 でも、その女性は、夜音子のことをたびたび忘れるようになっていた。一緒に過ごした思い出ごと、夜音子はその女性のなかで、知らない人になっていった。


 でも、その思い出をなかったことにされても、夜音子は取り乱さずにいられた。その女性は、夜音子にとって「お義母さん」だが、直人と結婚するまでは他人だった。「お義母さん」から、他人に戻っただけだ。


 でも、夫の直人にとっては――。夫にとってその人は、生まれた時からの「お母さん」で、いまも「お母さん」だ。夜音子のように踏ん切りをつけることは、難しかった。


 医師からは、こんなふうに教えてもらっていた。


『あなたのお義母さんは、あなた方のことを他人だと思っているんです。そういう時は、なぜ覚えていないんだと決して責めないで、何度でも「はじめまして」と自己紹介するつもりで接してあげてください』


 よみがえった医師の言葉に、「はい、そうですね。そうしましょう」とあらためてうなずき、自分にいい聞かせるように、夜音子は笑顔になった。


「あの、千住のことにお詳しいですよね。千住のことを教えて欲しいんです。このあたりに、子どもが迷い込むような場所はありませんか」


 ベッドの隅で小さくなった女性に話しかけると、女性はしばらく無言になった。考え込むような仕草をした後で、寂しそうに肩を落とした。


「あぁ、千住の家に帰りたい。本棚にあるはずなの、蔵之介さんの本が。あの本が読みたいわ……」


「いい加減にしろよ、お母さん。本の話じゃなくて街の話をしてるんだ」


 直人がいらいらと口を挟む。「待って」と腕をつかんでも、直人は怒りをぶつけ続けた。


「彗が行方不明なんだ、お母さん」


「彗?」


「孫だよ、お母さんの。こんな時くらいまともに戻ってくれ――」


「孫なんか――私には子どももいませんよ……」


 女性の直人を見る目が、お化けを見つけてしまった子どものように脅えた。理由もなく叱りつけてくる怖い男を怖がるようでもあって、とうとうベッドの端まで下がりきってしまうと、膝をさまよわせて、ベッドから下りようとした。


「看護師さん、助けてください――」


「直人さん、帰りましょう。いまはだめよ。このままじゃ――」


 ベッドの上で養生するべき身体なのに、無理をさせては元も子もない。こうやって会って話すことも、この女性にとってのストレスになるなら、もう切り上げなければ――。


「私たちはもう帰りますから、ベッドに戻ってください。いま、看護師さんを呼んできますから」


 直人の背中を押して、病室から出た。


 廊下に出て看護師を探しているあいだ、直人は身体にほとんど力が入らず、よろよろと歩いた。


「『助けてください』って、おれはあの人の息子だぞ……日に日にひどくなっていく……」


 直人は落ち込んでいた。そのつらさは、夜音子にも痛いほどわかる。


 夜音子にとって、そこにいる女性は、結婚してはじめて家族の関わりを得た人だけれど、直人にとっては生まれた時から一緒にいる「お母さん」だ。それなのに。


「もう話もできない……」


 母親から忘れ去られたり、「私には息子なんかいませんよ」と脅えられたりする気分など、夜音子には想像もつかなかった。


 「お母さん」は「お母さん」だ。いつ、どんな時も気にかけてくれる存在だと信じていた。その女性に忘れ去られてしまうなど――。


「千住になんか、こなけりゃ良かった」


 直人がぽつりと吐いた。涙こそ見えなかったが、声は震えていた。



  ◆    ◆  



 おれが千住に引っ越してきたのは、おばあちゃんが入院したからだった。


 おじいちゃんの葬式があったのが、去年。おじいちゃんが死んでから、おばあちゃんの病気がどんどん悪化したそうで、その世話をするために、病院とおばあちゃんの家に近いマンションに引っ越すことになったのだ。


 引っ越した翌日にも、片付けもそこそこに、まずは病院に挨拶に――と、三人で病院へ出かけた。でも、病室に入って目にしたものは、記憶にあるおばあちゃんとは全然違う、ぼんやりとした表情の、やつれたおばあさんだった。


 「目上の人には礼儀正しく挨拶をしろ」と何度も叱られてきたので、「こんにちは、おばあちゃん、お元気ですか」と、ベッドのそばでぺこっと頭をさげた。


 でも、ベッドの上にいたおばあちゃん――ううん、おばあちゃんそっくりな顔をした「知らないおばあさん」に見えるその人は、おれが「彗」だとわからなかった。首をかしげて、妙なものを見るように、顔を覗き込まれた。


「あなた、誰?」


 はっきりいって、ショックだった。

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