自動販売機、発見

「そっか。坊主は迷子か。しばらく、はぐれたおっかさんやおとっつぁんを待つといい。ここは天下の大千住だ。いろんな噂話が集まるから」


 話しかけてくるおじさんたちは、みんな酔っぱらっていて上機嫌だ。


「大千住?」


「ああ。千人の町衆が住む、お江戸一番の宿場町さ」


「千どころじゃねえよ。万だ、万。だから、千住せんじゅじゃなくて、万住まんじゅだな」


 ドヤ顔のおじさんが、言いながら自分で笑う。「おら、坊主も笑えよ。うまい冗談だったろ?」と髪をわしわしとやられるが、とても困る。どこの部分が冗談だったんだろう? 言葉が通じるのはありがたいけれど、笑いのツボが違うのは致命的だ。わかったのは、「ごめん、もっかい言って」と頼んじゃいけない雰囲気ってことだけだ。だよな?


 ……話を変えよう。


「北千住――じゃなかった、千住は、お江戸一番のシュクバ町なの?」


「ああ。大名行列も魚売りも野菜売りも、人も馬も船も大八車だいはちぐるまも通る、大きな街だ。旅の者はみんなここで宿に泊まって、髪結かみゆどころで身ぎれいになって、風呂に入って、そんで、江戸に入っていくんだ」


「大名、お江戸――じゃあ、やっぱり、ここは江戸時代なんだ」


「なにかいったか、坊主」


「ううん、なんでもない」


 そこは居酒屋のような場所で、二十人くらいが集まっていたけれど、時間が過ぎるごとに一人増えて、また一人増えて、お店はもうパンパン、席はぎゅうぎゅう詰め。椅子と椅子の隙間にも人が立っていた。


 「詰めろよ、坊主」と言われて隣のおじさんにくっついて座っていたけれど、いい加減苦しくなる。


「どいて、出るよ。ここも座っていいよ」


 考えたら、この店におれがいる意味もないのだ。お酒も飲んでないし。


 店を出ることにして立ちあがると、お凜が顔をあげる。


「彗、どこいくんだい」


「外。狭いから」


 店の入口にかかった縄の暖簾のれんをくぐって、夜の道へ出た。街灯も電柱もない道は真っ暗だ。


 でも、店の外にも人がいて、行燈あんどん提灯ちょうちんの火灯かりに集まって話していたので、暗すぎるわけでも、静かすぎるわけでもない。


 店の中が明るかったわけでもない。店の中を照らしていたのは、ろうそくの明かりだけだった。――そうだよなぁ、江戸時代じゃ、電気がないもんなぁ。


 振り返って、縄の暖簾のれん越しに店の中を覗くと、不思議な気分になる。なんとなく、懐かしいな――と、昔に見たはずの景色を思い出した。


 北千住に住んでいたおばあちゃんは、小さな定食屋を経営していた。


 おれが遊びにいく時は、たいていお店を休みにして待っていたけど、何回かは、「あのねえ、急にくるっていっても店は休めないよ」と、おばあちゃんのお店に寄ったことがある。


 十人ちょっとしか座れない小さな店で、えんじ色の塗装がはがれかけた木製のカウンターの内側に大きな鍋があって、おじいちゃんが煮込みを作っていた。おじいちゃんが亡くなってからは閉店して、お店はなくなってしまったけど。


 そうそう、縄の暖簾のれん。お婆ちゃんとお爺ちゃんの店の入り口にもかかっていた。


『この形の暖簾のれんは、めし屋の証なんだよ。むかしっからね』


 と、笑ったおばあちゃんの顔を、たどりついた記憶の向こう側に、ぼんやりと見た気がした。


 おばあちゃんの店のものよりも、ちょっとだけ真新しい縄の暖簾のれんの奥、大勢が入った店の中からは、「勝負だ」と威勢のいい声が聞こえる。早食い大会か、大酒飲み大会がはじまったみたいで、「もっと飲め」とか、「遅いぞ」とか、陽気な笑い声がひときわ大きくなった。


 現代も江戸時代も、大人がやることってあんまり変わらないんだなぁ――と、すこし呆れて、店から目を逸らした。


 街灯もなく電柱もなく、家の灯かりもなく、自動車も自転車も走らない、暗い道だ。いや、そのはずだった。


 でも――見間違いか? 道の向こうに、真四角の灯かりが見えた。おれの背よりも大きく見える灯かりで、しかも、あの形は――。間違いない、見たことがある灯かりだった。


 ――うそだろ?

 ――なんで。


 見間違いをたしかめるように、何度か、まばたき。でも、じっと見ていても、灯かりは消えない。むしろ、どんどんくっきり見えていく気がする。


 おれは、灯かりに向かって走り出していた。


 暗い道。アスファルトの舗装もなく、土が剥きだしで、マンホールもない、昔の道。その道を走っていたはずなのに、いつの間にか、砂を踏みつけていた足音が、軽い駆け音に代わる。スニーカーの靴底は、アスファルトで舗装された道の上を走っていた。


 足を止めて、はあ、はあ、はあ――と、息を整えた。


 目の前には、おれを見下ろすように光る、四角い機械がある。透明なプラスチックの壁の向こうに白い陳列棚があって、ペットボトルが上下に並んでいる。――自動販売機だ。


「うそ、なんで……夢?」


 来た道を、振り返る。すると、ますますわけがわからなくなった。見つめた先には、江戸時代の居酒屋がまだそこに見えていた。


 手持ちの行灯あんどんの鈍い光に集まる人たちがいて、店の中からはまだ、「おう、飲め飲め。負けるな」と、大酒飲み大会を盛り上げるおじさんたちの声が聞こえていた。


 でも、いま、おれの目の前には自動販売機がある。現代文明が生み出した、自動ドリンク販売機だ。


 肩からかけていたボディバッグの中に財布があったのを思い出すと、小銭を入れてみた。シャリン、シャリン、カタッと、硬貨が機械の奥に飲み込まれていく音が鳴って、ジュースの前にあるボタンが「さあ、これで買えますよ」とばかりに青く光る。ふらふらと指を浮かせて、炭酸飲料を買った。


 ――ガコン。

 ペットボトルが落ちてくる。プラスチックの仕切り板を押し上げて、冷たいジュースを手にとって、手癖のように蓋をひねった。シュワワ……と、炭酸が飛び出してくる。こぼしてなるかと、唇をつける。冷たくて、炭酸が口の中で跳ねまわるようで、甘かった。いつも通りの味がした。


 右手に握ったペットボトルを、まじまじと見つめた。


 それから、自動販売機も。それから、自動販売機を照らす看板の灯かりを。


 自動販売機は、小さなクリニックの入口に建っていた。「北千住氷川ひかわクリニック」と、医院名と診療時間が書かれた白い看板がかかっていて、四隅についたライトで照らされていた。そばには、クリニックの建物もあった。診療時間が終わっているからか、ガラス製の自動ドアの向こう側は、真っ暗だ。


 動きそうにない自動ドアと、人の気配のないクリニックを照らす看板と、自動販売機。来た道の向こうには、江戸時代風の居酒屋――。


 ここは、なんだ? ますます、わけがわからない。

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