SOSを書いてみた

 人の気配がしない現代のクリニックの正面に立っているけれど、すこし先には、江戸時代の街がある。


 どっちが本物で、偽物なんだろう?


 それとも、全部、現実かな。段ボールやガムテープでつくられた偽物のはりぼて? それとも――。


「夢かな?」


 つぶやいた。


 もしも夢なら、いったいどこからが夢だったんだろう?


 江戸っぽい時代に入り込んだ時から?

 北千住の路地裏で竜に食べられたところから?

 その前に、お凜さんに出会った時から?

 そもそも、今日はまだ起きてなくて、布団の中にいるとか?

 全部夢?


 指が、冷たくて円いものをいじっていた。お釣りのコインだ。その硬さや、浮き上がった絵柄のゴツゴツした感じがえらくリアルで、冷や汗を感じた。


 人差し指と親指で挟まれた五十円玉が、自動販売機の青白い灯かりに彩られてチラチラ光っている。その光り方もリアルだ。


「待って。夢? 夢じゃない?」


 気が遠くなりそうだ。


 でも、きっとここは手掛かりになる。「北千住氷川ひかわクリニック」は江戸時代の千住宿せんじゅしゅくにあるはずがないもん。そうだよ、あるはずがない。江戸時代に、ペットボトルの自動販売機があってたまるか。


「そうじゃなくて、ええと――」


 なにか、ひらめいた。わかった気がするんだ。ここがどこなのかっていう秘密を解くヒントが――。


「困ったときは、整理しよう、焦るのが一番まずい。ええと――」


 ――ええと。

 ――ええと――。


 そうなんだよなぁ……。「落ち着け!」と思ったところで、落ち着けるわけがないんだよ。だって、いまは落ち着いてないんだもん。


「頭が動かない……。こういうときは、ええと……そうだ。人間、あきらめが肝心だ。落ち着くのはあきらめよう。うん、おれは困ってる。困ってる。困っていいんだ。困らないわけがないよ、こんな状況で。いいねえ、いい困りっぷりだ」


 落ち着かなくても大丈夫、これ以上焦るなと自分にいい聞かせたかっただけなんだけど、なんだかおかしな独り言になった。


「ええと、そうだ、紙に書きだしてみよう」


 頭が動かないなら、手を動かせばいいんだ。


 いま何が起きてるかを紙に書いてみれば、すこしくらい落ち着くはず――だが。


「――っていうか、紙がどこにあるんだよぉ、紙、紙!」


 なんの用事もなく、ふらっと外に出ただけなのだ。引っ越しの片づけに奮闘する両親から、邪魔者扱いをされたから。


 学校や塾に出かけたわけじゃないから、文房具もないし、ノートもない。財布を入れただけのスカスカのボディバッグを持っているだけ――うん?


 「あっ」と声が出た。そういえば、ペンだけは一本入っていた。ファスナーをあけて、バッグの底に一本だけポロンと入っていたペンを探しあてて喜んだものの、またもや、ガックリ。さすがに紙は持っていない。ノートなんか、普通は持ち歩かないよね――いや。「あっ」とまた声が出て、財布を広げた。


「そうだよ、レシートがある」


 買い物をした後にもらうレシートの存在がこんなに貴重だと思う日がくるなんて。あの、もらった後にぐしゃっと握りつぶすだけの邪魔な紙が!


 しかも、財布の中で見つけたのは、お母さんに頼まれた買い物をした時の、ちょっと長めのレシートだった。これなら文字もたくさん書けそうだ。――いままで邪魔もの扱いしてごめん。きみは貴重な紙資源だ。


「そうだ、連絡しなくちゃ――」


 もう夜だ。こんなに真っ暗になってるのに、まだ家に帰れていないんだ。お父さんもお母さんも、きっと心配してるよ。


 電池を食うのが怖くて電源を切っていたスマートフォンに、もう一度電源を入れてみる。


 時間は、七時十七分。電源を切る前にたしかめた時と同じく、やっぱり圏外になっていた。電話はもちろんつながらないし、ためしにメッセージを送ろうとアプリを開いてみたけど、画面の上でぐるぐると「接続中」を示すマークが回るだけ。メッセージも送れなかった。


 ぐるぐると同じ動きを続けるマークを見続けて、三分経過。画面右上にある電池残量を示す電池型のマークが、すこし欠けた。電池残量が70%から69%になる。まずい。


「電池を節約しなくちゃ」


 つぎに何が起きるかわからないんだから――と、慌てて電源を落とす。


「とりあえずさ、帰りたいよ。帰りたい。お母さん、心配してるだろうなぁ」


 でも、今日は帰れないかもしれない。ここがどこかもわからないんだもん。電話も使えない。でも、連絡はしなくちゃ。


「そうだ、手紙なら――」


 さっき見つけた長めのレシートを、スマートフォンの上に重ねてみる。


 手紙を書いて、どこかに置いてこよう。誰かが気づいてくれるかもしれない。――気づいてくれないかもしれないけど。でも、ダメでもともとだ。やってみよう。


 とりあえず、無事だと伝えないといけない。でも、なんて書こう?


 まずはこれかなと、とペンで書いてみた。


『SOS』


 けれど、消したくなる。


 だって、『SOS』って、「助けて」って意味だよね。こんな言葉を書いた手紙を行方不明の息子から受け取ったら、親はびっくりしちゃうよ。


 『SOS』と書きたいくらいには助けては欲しいけど、乱暴をされてるとか、事故に巻き込まれたとか、最低最悪の状況でもないからなぁ。


 でも。じゃあ、なんて書こう?


 つぎに書いたのは、これ――だけど。


『探さないでください』


 いやいや、家出したわけじゃないんだ。じゃあ――。


『助けて』


 だから。こんなに意味深な手紙を見たら、親が慌てちゃうよ。最悪に危ない状況でもないんだし。それに、助けるって、どうやってだよ? ここがどこかもわからないのに『助けて』って頼むのは、無駄に心配をあおるだけだよ。 


 だとしたら――と、レシートの上に続けてペンを走らせる。


『心配しないで。

 ちょっと帰れないけど無事です。親切な人に助けてもらっています』


 こんな感じかな? 


『帰り方を探しているところです。いままでありがとう』


 なんか違う。とくに二文目が。


『不思議なことになってます。

 警察じゃなくて霊媒師をここに呼んでください』


 なんか違う。

 なんていうか、「親に霊媒師を呼んでこさせる」いじめを受けてるみたいじゃないか? そういうわけじゃないんだよ。ちゃんと伝えないと。


『いじめられてはいません』


 こんなことを書いたら、かえっていじめられてそうだ。これはまずい。


 一文書くごとに、「これじゃ駄目だ、誤解される」とフォローの言葉を付け加えていくと、レシートの裏はもう字でいっぱいになった。


  SOS

  探さないでください。

  助けて。

  心配しないで。

  ちょっと帰れないけど無事です。親切な人に助けてもらっています。

  帰り方を探しているところです。いままでありがとう。

  不思議なことになってます。

  警察じゃなくて霊媒師をここに呼んでください。

  いじめられてはいません。


 読み返して、握りつぶして捨てたくなった。作文が苦手なことをいまほど悔やんだことはない。


 でも、ひとまず仕上がったし――と、とりあえず、余白に「上田 彗」と名前を書いた。


 親に届いてほしくて書いた手紙だけど、届いてほしくないような、微妙な手紙に仕上がってしまった。でも、連絡がなにもないよりはマシだよね。たぶん――うん。


 オーケー。手紙は仕上がった。

 でも、手紙を書いたはいいけど、この後どうしよう――。


 レシートの表側に余白があったので、そこに親の名前と携帯電話の番号、転居先のマンションの名前を書いた。「この住所に届けてください」と、レシートの品名と値段の隙間にもメモを書き入れて、無人のクリニックの自動ドアの隣にあった郵便受けに、差し入れた。


 いまは無人だけど、きっと朝になったら開業するはずだ。ゴールデンウイークは今日までだし、明日の朝になったら、看護師さんか誰かが、きっと手紙に気づいてくれる。


 個人情報を書いちゃったけど、ここは病院だし、詐欺師や悪徳業者の手に渡ることもきっとないだろう。運が良かったら、きっと病院の人が親か警察に連絡してくれる。イタズラだと思われなければ――問題はそこだな。


 カタン。

 ポストの窓の向こうにレシートを押しやると、ほんのすこし、ほっとした。


 いまできそうなことは、やり終えた。明日か、このクリニックが営業している時間にもう一度ここにきてみればいいんだよ。そうしたら、人がいるかもしれない。江戸時代の人じゃなくて、現代人が。


 いつのまにか、胸がすっとしていた。どんな小さなことでも、やり遂げるっていうのは、ちょっと気持ちがらくになる癒しの薬みたいだなぁ。


 真っ暗な自動ドアに背を向けて、お凜のところへ戻ろうと身体の向きを変えた。でも、すぐに心臓が止まりそうになる。


 ちょうど自動販売機の真ん前に、人が立っていた。しかも、白いパーカーに、ジーンズ姿の、おれと同い年くらいの少年。着物姿じゃなくて、現代人だ。


 「見間違いだ。そんなはずはない」と、何度かまばたきをした。目の前に現れた少年が、おれと同じ格好をしていたからだ。顔も背格好も似ていた。だから、鏡か、つるつるの窓ガラスに映った自分の姿を見ているのだと思った。


 でも、違った。目の前に現れた少年は、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。おれは、突っ込んでない。鏡だったらありえないことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る