SOSも食べられた
「あの――」
少年はポケットに手を突っ込んだまま、にこりともしない。でも、視線は合っている。
「あの、すみません、ここってどこですか。おれ、たぶん迷っちゃったんですけど」
自分にそっくりな人に話しかけるのも、その人に敬語を使って顔色をうかがうのも、はじめての体験だ。
中学校に入学して、はじめて会うクラスメイトに向かって「あの……」と何度も小さな声を出した時の緊張を思い出しつつ、恐る恐ると話しかけるけれど、返事はない。答える気もないのか、自動販売機の青白い灯かりに照らされた少年は、唇をひらこうともしなかった。
――なんだよ、いやな奴だな。
――答える気がないなら、べつにいいよ。
自分そっくりの少年に腹が立って、こっちも目を逸らそうとした。
でも、ポタリ、ポタリと、上からなにかが落ちてきて、そっちに気がとられる。雨だろうか。でも、雨にしては大粒だ。
雨粒を受け止めようと手のひらを浮かせてみると、ポタリと、大きな水粒が手の上に広がった。でも、へんだ。水は真っ黒だった。墨汁を垂らしたようで、手の肌色が見えなくなるくらい、色水の黒が濃かった。
なんだ、これ――。雨じゃなくて、機械かなにかの油?
咄嗟に水粒をよけた。だって、もしもそうだったら大変だ。服が汚れまくる。逃げなきゃと、路上まで飛びのいて、落ちてきた水の出どころを探ろうと、頭上をふりあおいでみる。
そこにあったのは、汚れた油を降らせる機械でも、雨雲でもなかった。「北千住
北千住の路地裏でおれを飲み込んだ、あの竜だ。江戸時代の街に現れて、魚屋の屋根を食べてしまった、あの竜。あの竜が、そこにいた!
「うわああ」
悲鳴をあげて、横っ飛び。
また食べられるのはいやだ!
道路の上まで戻ったけれど、竜は追いかけてこなかった。竜が狙っていたエサはおれじゃなかったのだ。――自動販売機だった。
ビルの屋上からふわりと飛び上がった竜が、大きく口をあける。竜の口が向いた先には、青白く光る大型の機械。それを、竜は食べた。
真っ黒い竜の口が動くたび、青白い電灯が薄れていく。一口、二口で、そこにあったはずの自動販売機は消え去って、真っ黒の闇だけが残った。
「うそだろ……」
おれの手の中には、ペットボトルがまだ残っている。さっきその自動販売機で買ったばかりの炭酸飲料で、まだ冷えている。でも、その自動販売機はもうそこにない。竜に食べられて、忽然と姿を消した。
竜は、自動販売機だけじゃ満足しなかった。さっき乗っかっていたクリニックのビルのほうを向くと、今度はそっちへ向かっていく。大きく口を開けて、ビルを食べた。竜の歯形がついたところだけビルの壁が消えて、建物の向こう側にあった夜の闇が見えるようになる。壁が崩れるとか、柱だけが残るとか、そういうこともなく、まるでケーキを食べるみたいに、ぱく、バクバクと、竜はクリニックのビルを食べた。
「うわああ、わあああ! 竜だ、竜だ! お凜さん!」
通りに駆けだして、竜から遠ざかった。
向かった先は、お凜たちが騒いでいるはずの居酒屋。叫び声を聞きつけたのか、入口の縄暖簾が目に入る頃には、赤い羽織をなびかせた一団が飛び出してきた。
「竜が出たって? どこだい!」
「あっちの、あの……クリニックのところ」
「クリニ? とにかく、あっちだな?」
おれが腕ごと使って指さした方角へ向かって、お凜たちが駆け抜けていく。
「彗、危ないからさがってろ、どいてな」
竜が出た、竜に食われるぞ、と、居酒屋の前の通りには人が飛び出して、一目散に逃げていく。
逃げゆくおじさんのうちの一人が、おれのところまで走ってきて腕を引いてくれた。
「坊主、なにしてんだ。逃げるならこっちだ! 食われるぞ」
「わかった。けど――」
逃げなきゃ、食われる。跡形もなく消える。それは理解した。でも、もう一人避難が必要な奴がいることを、おれは忘れてなかった。
「子どもがもう一人いるんだ。あいつ、どこだ? 逃げ遅れたのかな」
おれとほとんど背格好が同じで、そっくりな顔をした少年だ。
現代人の格好をしていたから、いれば目立つはずなのに、逃げゆく人の群れに、その子の姿はなかった。
「もしかして……竜に――」
最悪の事態が頭によぎった。でも、腕は引かれる。
「いくぞ、坊主。逃げきれねえぞ」
「うん――」
お凜たちが駆けていった先の暗闇からは、怒号が聞こえはじめていた。
「みんな、やっちまいな! あの竜を追っ払うんだよ!」
「その調子だ。ひるむな、いけぇ! あいつを追っ払え!」
キン、キン! と、日本刀が振り回される音や、刃が風を切る音。
振り返ると、音が聞こえるあたりは真っ黒になっていた。さっきは、電光に照らされたクリニックの看板と自動販売機が四角い灯かりになって目立っていたのに、いまはすっかり消えて、そこには闇しかない。
いや、ふわりと、なにかが浮いた。真っ暗な夜空にふわりと浮いた白い影。さっき会った少年だった。
おれとそっくりの姿をした少年が、夜空に浮きあがった。ちょうど、お凜たちが竜と戦っている場所の真上だ。そこで少年は、竜とお凜たちの戦いをしばらく見下ろした後で、ついっと空を蹴って、さらに浮いた。そして、竜が空を飛ぶようにして、少年も遠ざかっていった。
おれは、ぽかんと見つめていた。見つめた先で、そいつが着ていた白いパーカーがだんだん小さくなって、闇に薄れて見えなくなっていく。
そいつは竜みたいに空を飛んだけれど、お凜たちは少年を見ようともしなかった。
竜を追い払うのに夢中になっているから?
そういう様子でもなくて、少年のことが、まるで見えていないようだった。
だから、思った。
――あいつは、おれにしか見えていないのかもしれない。
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