お江戸で見た空

 その晩は、お凜の家に泊まることになった。


「うちに泊まってきな。ほら、布団だよ」


 用意された布団は小さくて、薄い。お凜の家だという古い部屋も、とても狭い。新しく住むことになったマンションの一番狭い部屋と同じくらいしかなかった。


 しかも、たくさんある部屋の中の一つじゃなくて、お凜の家がその部屋一つだけなのだ。壁際には、小さなタンスや、アルコールランプみたいな油を使った灯かりが置かれているので、布団を二人分も敷いたら、ぎゅうぎゅう詰めだ。


「消すよ?」


 ふっと息を吹きかける音がして、部屋の中にあった唯一の灯かりが消える。真っ暗になった。


 とはいえ、火が消えたことにほっとした。


 蛍光灯の灯かりと比べると、点いてるのか点いてないのかわからないくらいのさささやかな灯かりだったし、なによりも、くさい。その火が点いているあいだは生ごみの匂いがした。その油は、「魚油うおあぶら」っていう、魚からとれた油なんだそうだ。だから、きっとにおったんだ。


「おやすみ、彗。早く親御さんが見つかるといいね……」


 暗闇の中、隣の布団からお凜の声がする。でも、すぐに、寝息にかわる。


 おれは、眠れなかった。


 狭いし、寒いし、くさいし――不安だ。


 薄っぺらくて、肌触りがごつごつした粗末な布団の中で、なぜか、昔のことを思い出した。


 小さい時、北千住の街に遊びにきた時のことだった。


 おばあちゃんの家が北千住にあったから、北千住の街での思い出はいくつかあるけれど、思い出したのは、おばあちゃんと一緒に見上げた夕焼け空だった。


『彗くん、きれいな空ね。――そうだ、覚えておきな。小さいうちから、なるべくたくさん空を見上げて、「きれいだなぁ」って思っておきなね』


 「どうして?」と尋ねると、おばあちゃんは笑った。


『彗くんが大きくなっても、空はずっとあるからよ。いまのうちから、夕焼け空でも、青空でも、星空でも、いろんなきれいな空を見上げて、何度も何度も「きれいだなぁ」って思っておけば、大きくなった後も、いまの彗くんの「きれいだなぁ」っていう気持ちをいつでも思い出せるから。きれいな空は、彗くんがお兄さんになっても、おじいさんになっても、ずっとずっときれいだからね』


 『つらいことがあっても、空が慰めてくれるのよ』と、おばあちゃんはいった。


 その時のことを思い出すと、なんだか空が見たくなって、布団を抜け出した。


 家の中は狭いから、布団を出て、玄関までは三歩、玄関を出て通りに出るまでも三歩だ。


 玄関の障子戸を開けると、外は真っ暗。見慣れた夜景のように、一晩中光っているビルも、通りに連なる街灯も、夜更かししている家の窓の灯かりも、ライトを点けて走る自動車も、自転車も、いっさいの灯かりがない夜の街だった。


 見上げると、怖いくらいに星がたくさん見える。


 天の川がくっきり見えたし、理科の教科書で見た夜空のイラストのように、小さな星までが無数に見えた。星の明かりは、蛍光灯みたいに白い。


 そっか、夜空は暗いものじゃない。明るいんだ。――空は、昼でも夜でも、明るいんだ。


 そんなふうに思うと、すこし、笑顔になれた。


 きっと、父さんも母さんも、同じ空が見える場所にいる。同じ空を見て「きれいだなぁ」と今頃どこかで思っている人も、きっとたくさんいる。


 へんな場所にいるけど一人じゃない――そう思うことにした。


 ――お凜さんもいるんだもんな。

 ――そうだよ、寝る場所もある。

 ――布団に戻ろう。


 ゆっくりと土を踏んで、障子戸を開けて、閉じて、布団の中に戻ったけれど、なんだかまだ、星の白い灯かりが頭上から降り注いでいる気分だった。


 もう一度もぐりこんだ布団は、なんとなくさっきよりも温かく感じたし、匂いも、さっきほどは気にならなくなった。






 次の日も、お凜に連れられて居酒屋へ向かった。


 朝っぱらからお酒を飲みにいった――わけじゃなくて、話し合いだ。その店は、近所に住む人たちが集まる公民館みたいな場所になっているようだ。


「あの竜をどうする。これ以上街を食われたらたまらねえぞ」


「しかし、あの竜はなんなんだ? 神様か?」


 二十人近く集まったおじさんたちがしきりに不安がるのを、お凜は叱り飛ばした。


「神様なもんかい! たとえ神様だとしたって、とんでもない疫病神だよ。大切な街を奪われてばっかりで、大人しくしてられるかい。――みんな、なにをくよくよしてんだい。もっと気合入れな。これからあいつが何度きても、あの竜を追っ払うんだよ。これ以上、一口たりとも街を食わせてなるもんかい!」


 やっぱり、お凜はこの街のリーダーのような存在なのだ。お凛の威勢のよい声にこたえて、オーッとおじさんたちの歓声が上がった。


「ところでお凜さん、この子は?」


 内心、またこの話かと思った。おれが迷子で、お凜の世話になってるって話なら、たしか昨日もしたんだけどなぁ。


「彗っていうんだ。新入りだよ」


 お凜がおれの紹介をすると、おれのことを尋ねたおじさんがにこにこ笑った。


「ほう、新入りか。そりゃめでてえな」


「――よろしく」


 たしか、前にもこのおじさんにあいさつをしたと思うけど――。


 この街の人って忘れっぽい人が多くないか?


 江戸っ子そのものが忘れっぽいのかな?

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