泣いた少年

 竜が上空につれてきた暗い色をした雲は、風も呼んでいた。突風のような強い風にあおられて、荒川はいつのまにか荒れて、水面には波が立っていた。


 がこんと音が鳴って、舟がきしむ。


 波にあおられて、船着き場につながれていた舟がぶつかり合って、大きな音を立てていた。


「いった――」


 たかが舟とはいえ、ぶつかったら痛い。おれは、川岸から離れることにした。


 ニュース番組でもいってるよ。災害にあったら、かならず安全な場所へ避難すべきだって。そうしないと、レスキュー隊や、消防隊や、自衛隊や、助ける役目を引き受けてくれる人たちが困る。いまなら、お凛や蔵たち、赤門衆だ。おれがここにいると気づいたら、せっかく戦っているのに、お凛たちの気が散るかもしれない。


 ――逃げよう。おれにできるのは上手に逃げることだけだ。せめて、邪魔にならないように。


 竜との戦いの舞台になっている千住大橋から遠ざかるのが先決。戦っているお凛たちの迷惑にならないようにするんだ。せめて。


 船着き場からダッと駆けだしたおれは、千住大橋から続く街道を走った。


 うしろで、キン、キンと日本刀が振り回される音が鳴っている。お凛たちに迷惑をかけないようにと逃げたけれど、悔しくて、涙が出た。


 ――おれにも、なにかできればいいのに。

 ――お凛やこの街の人のために、なにかができればいいのに。

 ――でも、なにもできない。

 ――お凛たちのように弓や日本刀を扱えるわけもないし、そもそも怖くて、あの竜に立ち向かう勇気すらない。


 「違うよ。逃げるのは勇気がないことじゃない。足手まといにならないことは大事だ。これでいんだ」と、おれの頭の中にいたべつのだれかが慰めてくるけれど、いいわけをし続けている気分はぬぐえなかった。


 役に立てないことが悔しかった。でも、行く手を見つめる目は、睨むように強くなった。悔しいけれど、いまはこれしかできないのだ。


 千住宿の通りは、静かだった。竜から遠ざかるのにみんな逃げたせいで、人影もほとんどない。宿場町を駆けていると、しばらく行った先で、道の真ん中に人が立っているのを見つけた。


 道の真ん中にいたのは、白いパーカーとジーンズ姿の、おれそっくりの格好の少年だった。


 鏡? そんなふうにも思ったけれど、なにせ、会うのは三度目だ。鏡ではないことは、もう覚えていた。


 そいつは、近づいてくるおれのほうを向いて、にやにや笑っている。そいつの目が向いているのは、おれの顔。おれの顔を見ながら笑っているのだ。


 おれの頬には、まだ涙が落ちていた。そいつが笑ったのが、おれの泣き顔を嗤ったせいだと分かると、むっとした。


「なんだよ。逃げたら?」


 睨みつけながら近寄っていくと、そいつは両腕を頭のうしろに組んで、「さあね」といった。


 「さあね」ねえ――ふうん。


 こいつには丁寧に話しかけたこともあったし、いまも気をつかってやったつもりだ。でも、一言目が「さあね」かよ。――やっぱりこいつ、好きじゃないな。


「おれは赤門寺にいくよ。戦ってるお凛さんたちの邪魔になりたくないから。おまえは飛べるみたいだし、逃げなくてもいいんだよね。おれは飛べないから先にいくよ」


 「じゃあね」と、脇をすり抜けようとした。けれど、そいつの声が呼び止める。


「いっとくけど、おれのほうが、おまえよりもここのことに詳しいし、経験も長いから」


 ああ、ようやく喋ったな。と思ったと同時に、「おまえは一生喋るな」と思う。ますますむっとして、睨みつけた。


「初対面の相手にいう一言目がそれかよ」


 いきなりけんか腰で話しかけてくるような奴とは、関わりたくもないよ。なにせ、文句をいって、付き合ってやる時間ももったいない。


 おれは、知らんぷりをすることにした。「じゃ」と、もう一度睨みつけて、隣をすり抜けようすると、そいつはブツブツといった。


「また壊していく。あの竜が大嫌いだ。あいつらが歯向かったって、どうせ勝てないよ。竜は強いし、あいつらは弱い」


「なんだよ、構ってほしいのかよ」


 いらいらいら――不機嫌がつのる。


 気をつかってやっても無視するくせに、ブツブツと文句ばかり。一緒にいるとイライラしか生まない奴だ。こういう奴は、さっさと離れて二度と近寄らないに限る。


 でも、お凛をばかにしたような言い方だけは、放っておけなかった。お凛は、泣くのをこらえて戦っているのに。


「あの竜が嫌いなら、おまえも戦えよ。お凜さんを手伝えよ! せめて、一生懸命やってる人たちをばかにするなよ!」


 声が裏返るほど怒鳴った。腹の中で煮えくり返った炎を吐き出して、言葉でそいつを燃やしてやりたかった。そうか、憎しみっていうのはこういう気持ちなんだと、気づいたほどだった。


 こんなやつ、もう知るか。「ふん」と鼻で息をして、今度こそ隣をすり抜けようとして、驚いた。そいつの目に涙が浮かんだのだ。


 そいつの涙を見て、いい気味だと思った。渾身の力で怒鳴ったから、効いたのなら良かった。でも、同時にぎょっとなった。


「――泣くほどなら、その前に気をつけることがあるだろ?」


 呆れもして、ちょっとそわそわと慰めようと言葉をかけてやると、少年の頬にぽろりと涙が落ちる。それを握りこぶしでぬぐった少年は、真顔でいった。


「あの竜が大嫌いだ。また壊してく。消えていく――」


 それから、そっと地面を蹴った。ふわりと宙に浮きあがった少年は、風を蹴るようにして千住の街の空へと飛び上がって、どこかへと去ってしまった。

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