二匹目の竜

 「えええ」と、悲鳴があがった。


 ほうぼうから叫び声があがる中、一番素早く動いたのは、お凛だった。


「なんてこった。両国の街にはまだ吉太きちたがいる。なおもおヨネもいるんだ」


 たちまち血相をかえて川岸まで走り込んだお凛は、両国の方角を見つめて、叫び声をあげた。


「あの竜め、食ってやがる、食ってやがる! あそこにはまだ、吉太も直もいるんだよ。吉太も直も――ああ!」


 涙声には怒りが混じっていて、叫び声をきいているだけで、おれの目にも涙が浮かんでくる。胸が締め付けられるようだった。


 下流の街、両国の真上にできた真っ黒な雲は、蠢くようにしてときおり形を変えた。よく見ると、雲の端から、黒い蛇のような線が、曇り空を泳ぐミミズみたいに時おり飛び出していた。


 おれも、はっと息をのんだ。それは、竜だ。このまえ千住の街を襲ったあの竜と同じものが両国の街にもいて、竜の口らしき部分が触れたところから順番に、街が黒雲に飲み込まれていく。――街が、消えているのだ。


「なんてこった、吉太きちたなお――」


 お凜が、よろよろとうずくまってしまった。お凛を支えるように、いつのまにか蔵が隣にいて、背中を支えていた。


「お凛」


 蔵の手のひらは、お凛をいたわるようだった。その手を、お凛は振り払った。


「――だめだ。こうしちゃいられない」


 お凜は膝を伸ばして、舟へと走った。頬にこぼれていた涙を風に散らせるくらい、勢いよく舟に向かった。


「船頭さん、あたいを舟に乗せておくれ。あの竜をやっつけてやる。食われてたまるか。あいつのいいように奪われてなるもんか。なおも、吉太きちたも、あたいの大事な家族だよ。家族を奪われてなるもんか。あの竜をやっつけるんだ、出しとくれ。舟を出しとくれ」


 涙で、お凛の声が震えている。喉から絞り出すような大声で、ときどき声が裏返ったり悲鳴が混じったりする。


 声を聞いているだけで、おれまで、涙があふれてとまらなかった。


 櫂を握りしめていた船頭のおじいさんは、両国の方角とお凛の顔を見比べながら、青ざめた。


「でも、お凛さん、舟なんかであんなところへ向かったら、竜のやつに舟ごと食われちまう――」


「怖がるんじゃないよ! あそこで竜に食われてる連中は、もっと怖い思いを味わってるんじゃないか。こっちだけが逃げていいと思ってんのかい? ――なら、この舟をあたいにおくれ。あたいが一人でも両国へ向かって、みんなを助けるんだ……」


 そういって、お凜はさっそく舟に乗り込もうとするので、船頭のおじいさんがそれを止める。


「一人じゃ無茶だ。いくらお凛の姉御でも」


「お放し! 大丈夫だよ、蔵さんが一緒だから」


 お凜は勇ましかった。


 果敢に竜と戦った時と同じく、竜を怖がるそぶりは一切見せなかった。お凜は、竜に襲われている人をひたすら守ろうとしていた。


「お凛」


 蔵も、お凛の後を追って舟に一歩を踏み入れた。


 蔵のせりふはいつもどおり、たった一言「お凛」と名前を呼ぶだけだ。


 でも、迷いもせずに小舟に乗った蔵を見上げて、お凛は目に涙を浮かべた。


「いつもありがとうね、蔵さん。あんたと一緒にいられて、あたいは幸せもんだよ」


 小舟に乗り込んだのは、お凛と蔵だけだった。たった二人しかいないのに、おじけづく気配もなく、お凛は舟を出そうとする。


「いくよ。早くいかなきゃ、あの竜がみんな食っちまうよ。あの竜に食われたら、まるごと消えちまって、あたいはもう二度とあいつらに会えなくなるんだ。急がなくちゃ」


「――お凛」


 蔵は、お凛を助けようとしていた。黒い袴に包まれた蔵の膝が浮いて、草履の裏が、船着き場の板に触れかける。蔵は、桟橋を蹴ろうとしていた。蹴った勢いで舟を水面へ出し、川の流れに乗せようとしているのだ。


 その時。千住大橋の向こう側から、べつの悲鳴がきこえた。


「竜だ! 黒い竜だ! 大橋を狙ってやがるぞ!」


 千住の街も、さっきよりもずっと暗くなっていた。


 荒川の水が暗くなったのは、両国の真上に現れた竜が、真っ黒い雲をまとっていたから――そう思っていたけれど、それだけじゃなかったのだ。


 千住大橋の先、荒川を渡った先にある「南宿」と呼ばれる街の真上にも、濁った黒い雲がかかっていた。雷雲のように稲妻をはらんでいて、ものすごい勢いで空をうねり、渦を巻く。黒雲の内側に真っ黒い影があった。細くて、空を泳ぐ蛇のような姿――黒い竜だ。街も人も食べてしまう、あの竜だ。


 ぎゃああ――と、周りが騒がしくなる。千住大橋の向こう側に現れた竜を見つけた人たちが、叫び声をあげた。


 南宿の真上をうろつきはじめた竜は、東へ、西へと、黒雲のなかを泳ぐようにしてうねった。眼下に広がる木造の宿場町を見下ろして、さて、どこから食べようかと舌なめずりをしているように見えて、おれは、背中が寒くなった。


 ぽつり――と、雨が降ってくる。小粒の雨だったけれど、おれは、ごちそうを前に、竜が垂らしたよだれが落ちてきたと思った。


「お凛」


 小舟のなかで、蔵が立ち上がる。いまの呼び方は、お凜をいたわるようだった。


 蔵は、舟を下りてしまった。お凛へ見本をしめすようで、「降りよう、お凛」と、蔵の無言がいっている気がした。


 小舟に取り残されたお凜は、舟の中で立ち尽くして、ほろほろと涙をこぼしていた。


「どうして、あっちからも、こっちからも、あの竜はやってくるんだい。どうしてこう、あたいを苦しめるんだい」


 そのまま身体を折り曲げて、お凛は悲鳴をあげた。


「吉太、直、吉太、直!」


 二人の名前を交互に叫んで、涙をこぼしたまま、お凛も舟からかかとをあげた。


 先に舟を下り、竜へ歯向かうように千住大橋へ向かって駆けていった蔵を、追いかけはじめた。


 その頃には、千住の宿場町をやってくる連中がいる。竜から遠ざかろうと逃げ惑う人の波に逆らって、竜へ向かって駆けてくるのは、侍たちの集団――揃いの真っ赤な羽織りをなびかせた、赤門衆だ。


「お凛さん、大弓をもってきましたぜぇ! まといも」


 仲間の侍たちだ。侍たちが運んできた武器や、トレードマークの真っ赤な羽織りや、まといっていう合図の飾り棒やらを次々渡されると、お凜は、歯をくいしばった。ブンと風をきりながら真っ赤な羽織りを身にまとい、背中に矢筒と弓を担いで、自分の背丈よりも大きな纏を、ドンと地面に立てるようにして、力強く握った。


「こうしちゃいられないよ。やることは一つだ。さっさとあいつをやっつけて、川下へ加勢に向かうよ。急ぐよ。あいつをやっちまえ!」


 お凛の声は、威勢がよかった。でも、涙が混じった悲鳴だったと、おれは気づいた。お凜の頬にはまだ何本も涙の筋があって、声もときおり震えた。


 おれも、泣いてしまった。


 お凛の気持ちが痛いほど伝わってきた。


 お凜は、吉太のことも「直」のことも助けようとしていた。千住の人たちがあきらめかけても、絶対にあきらめないで、たった一人でも舟に乗り込んで、竜に襲われた両国へ助けにいこうとしていた。でも、いけなくなった。


 両国を襲っていた竜とはべつの竜が千住にも現れて、そいつと戦わないと、千住も食われてしまうからだ。


 ――助けたい。助けたい。


 吉太や「直」や、お凛を慕う千住の街の人たちを守ろうと挑んでいくお凛の背中が、悲しかった。


 これまでずっと、お凛のことを、男顔負けのスーパーヒロインだと思っていた。でも、そのスーパーヒロインが、こんなに悲しそうに戦いにいく姿を見ることになるなんて、思わなかった。


「みんな、ついてきな。やっちまいな!」


 涙まじりの掛け声をあげて、お凛が仲間の赤門衆を率いてそばを去っていく。


 うしろ姿をぼんやり見ながら、おれはぼろぼろと泣いてしまって、船着き場に立ち尽くした。


 お凛や蔵たち、赤門衆は、千住の大橋の上で黒い竜と戦っていた。


 蔵たち侍は、千住大橋の手すりを忍者のように駆けて、見事に飛び上がり、日本刀で天を斬るように、黒い竜に飛びかかる。お凛も、自分の身長ほどもある大きな弓を軽々かかえて、何度も何度も矢を放った。


 でも、竜は強かった。時々、竜の口が橋にかぶりつくと、ケーキを食べたようにそこだけ消えてしまう。あんなに荘厳だった大橋に、竜の歯型がいくつもいくつもついていった。

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